google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 日本各地の美しい風土を巡ります。: 10月 2011

2011年10月31日月曜日

日本周遊紀行;石見銀山遺跡(6) 「沖泊・鞆ヶ浦」

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 日本周遊紀行;石見銀山遺跡(6) 「沖泊・鞆ヶ浦」  、






写真:沖泊湾と鞆ヶ浦



入江で船を係留する岩・「鼻ぐり岩」





温泉津の北方先端、湯里から馬路の間のリアス形海岸入江に、石見銀山の銀の積出港であった「沖泊」(なかどまり)そして「鞆ヶ浦」(ともがうら)がある。  
この二集落は、平成17年に国指定史跡になったというが、何れも今では地図にも表示されない戸数10数件の小集落で、深い入り江が数層連なった鄙びた小さな港である。


温泉津からトンネルをくぐり北に一山越えると「沖泊」の港がある。
ここは、16世紀後半、約40年間にわたり石見銀山への物資補給基地として重要な役割を担った港である。 

海辺に浜の井戸、集落奥に上の井戸と二つの共同井戸がつくられ、この辺り、山間の港ということで、水が不足していたことも伺える。 
沖泊港を取り巻く岩場には、自然の岩盤をくり抜いてつくった「鼻ぐり岩」と呼ぶ船を係留する岩が多数残されている。

又、南に鵜丸城跡、北に櫛山城跡という二つの砦跡があり、大内氏や尼子氏それに毛利氏の戦国時代の拠点であり、港を確保し、銀を防衛するための要衝であったことも伺える。


因みに、その鵜丸(うのまる)城跡であるが・・、
温泉津の町並みの入り口から波止場沿いに進むと日村の港に着く。
その対岸から急な坂道を登ると、毛利元就ゆかりの鵜丸城跡である。

1562(永禄5)年、石見を手中にした元就は、勢いに乗じ宿敵・尼子氏の本拠地・月山富田城(安来市)に兵を進め、1566年、ついに出雲をも制覇した。
ところが、三年後、尼子再興を図る山中鹿介らが尼子勝久を擁して出雲に攻め込み、翌年に再び毛利と尼子が激突する。 

事態に驚いた元就が「石見を堅守すべし」と伊藤蔵之丞(温泉津町中の伊藤家の先祖)らに命じ、わずか一カ月で完成させたのが鵜丸城であった。 

標高59mの丘にある小さな城だが、鉄砲戦を想定した三段の帯郭(おびくるわ)が今もよく認められるといい、頂上に立つと、日本海がはるか遠くまで見渡せ、眼下に温泉津港や沖泊に入る船がよく見える。

又、標高38mに位置する櫛山城は更に古い築城で、1281(弘安4)年、元寇(げんこう)に備えて築かれた石見十八砦(とりで)の一つであったとされる。 
戦国時代は毛利氏に対抗した尼子氏の居城だった。


琴が浜に近い「鞆ヶ浦」(ともがうら)はもっと古く、沖泊が銀の積出港として使われる以前の16世紀前半、銀鉱石を博多に積み出した港町として発達したところである。
戦国時代の大内氏が石見銀山への物資補給基地として重要な役割を担った港である。 

大内氏の次に銀山を支配した毛利氏の時代になると、銀の積み出し港は温泉津に移ることになる。
その最大の理由は、鞆ヶ浦が非常に水の乏しい地区であったという。 このことは沖泊と共通している。 

港は、やはり、深い入り江となっていて、ここ鞆ヶ浦にも自然の岩盤をくり抜いてつくった「鼻ぐり岩」が多数残されている。
両港とも、東に延びる一筋の峻険な道が石見銀山へ通じている。  

昔の「銀山街道」で、山地を介して銀鉱山へ達する全長約7kmの街道(山道)であり、沖泊道、鞆ヶ浦道と称している。

その名残かどうか不明であるが、近くの地域に「馬路」という地名があり、山陰線駅に「馬路」駅もある。


次回は、 銀山の町・「大森町





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2011年10月30日日曜日

日本周遊紀行;石見銀山遺跡(5) 「温泉津温泉」

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 日本周遊紀行;石見銀山遺跡(5) 「温泉津温泉」  .




薬師の湯
写真:温泉津温泉・「薬師の湯」


薬師湯
溶岩のように湯の華が付着した湯船




江津を出ると、すぐに山陰本線の山あいの「温泉津駅」に至った。 
やはり赤い屋根のチョット豪華な民家風の駅であった。

「温泉津」は、普通に読めば「おんせんつ」であるが、確かにさっと見て読み難い、実は温泉(ゆ)の津で「ゆのつ」と読むが、「温泉津温泉」とくると更に厄介なようであるが。 
昔の人は面倒臭いことは言わず、「湯の出る港」だから湯の津なのだ・・!、と言いたげである。 
駅より些か離れた旧銀山街道沿いの温泉街は、賑やかな歓楽街などが見られず、鄙びた和風旅館が両側にポツポツと並ぶする静かな街並みである。


世界遺産に登録された石見銀山の「温泉津」。
この温泉津は、かっては世界の銀の1/3を産出し、海外にも輸出していた津(湊)である。
発掘された銀は、周辺の数箇所の港から出荷されていたが、その内の一つが現在の温泉津港の先端にある「沖泊」であった。


中世末期(400年前位)、この地から石見銀山の銀が世界へと積み出され、戦国時代は毛利の水軍基地として、また江戸時代の初期は石見銀山の物資の陸揚げ港、そして江戸中期から明治時代までは北前船の寄港地として栄えてきた。 

17世紀初頭には銀山の支配体制を確立するため、柵を巡らして柵内と柵外を区分していたというが、温泉津はその柵内に位置していた。
銀山とこれらの港の間は道が良く整備され、鉱山があった町の大森から鉱石を牛馬に積んで険しい山道や街道を運んだ。この街道は、「銀山街道」(歴史遺産)とも呼ばれ、西部山地を経る全長約12kmの主要街道であった。


温泉津温泉は、銀山を背景とする温泉津港の繁栄と共に、港を利用する多くの湯治客で賑わった。 銀山採掘に関わった人夫や鉱夫、役人まで、この温泉湯に浸かり疲れを癒しながら、一時の風情を楽しんだものと思われる。 

街道に沿って小さな旅籠や問屋、商家の町並みが形成され今も、明治・大正の風情を多く漂わせている。主要な温泉津温泉街は、国の重要伝統的建築物群(町並み保存)にも指定されてもいる。


ひなびた温泉津温泉の中でも、ひときわ目を引くレトロ調で洋風建築物である震湯(しんゆ)、薬師湯(湯元)は、古くから石見銀山の玄関口として栄えた温泉津の町並みの中心地に位置し、日本温泉協会の認定で、中国・四国地域で唯一の最高評価を取得した薬効豊かな湯と共に建築学的にも重要な建物として、専門家の間でも高く評価されている。

ある温泉ライタ―が・・、
『 湯治場の風情を色濃く残す温泉街が、旧銀山街道沿いに500~600m続く。 大正か明治時代にでもタイムスリップしたような、渋いモノトーンの街並みであり、狭い通りに赤い屋根・石洲瓦の小さな温泉宿が並ぶ 』と書いている。

ここ温泉津の温泉は、小さい頃に童話として聞かされた「いなばの白兎」でお馴染みで、大国主命が病気の兎を温泉に漬けて救ったことから始まったともいわれている。 
確かに古き良き時代の雰囲気を醸し出しており、「フーテンの寅さん」シリーズのロケ地の映画の舞台にもなっているという。  

昔は岩間から湧き出してはいたが、明治5年(1872年)の浜田大地震の時に地殻変動で湯水の如く、大量に噴出し始めたという。 


「源泉掛流し」は無論だが、自然の力で地底より湧き上がってくる温泉で加熱も、冷却も、無論循環もしない正真正銘の純温泉、これぞ本物といった感じであると。
泉質はナトリウム・カルシウム-塩化物泉で源泉は49度と熱い。 
薬効として特殊なのが、ある大学の研究所で「原爆症」に対する効能が有るとも報告されている。

次回は、 「沖泊・鞆ヶ浦





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2011年10月29日土曜日

日本周遊紀行;石見銀山遺跡(4) 「佐比売山神社」

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日本周遊紀行;石見銀山遺跡(4) 「佐比売山神社」 ,





石見銀山の守神・「佐比売山神社」



さて石見三田・世界遺産大田市(おおだし)であるが、

大田市は雄大な自然、温泉や食事など観光をするのに魅力の多い街で、情緒あふれる温泉津温泉、鳴り砂で有名な琴ヶ浜や四季を通じて楽しめる国立公園・「三瓶山」(大山隠岐国立公園)など自然が豊富に揃っている。

大田市街の南に聳え立つ三瓶山は、室の内(むろのうち)と呼ばれる低地より、主峰の「男三瓶」(1126m)に寄り添うように並ぶ「女三瓶」、「子三瓶」、「孫三瓶」などを主として、計六つの峰が環状に連なっている山である。

元より、石見国と出雲国の国境に位置する三瓶山は、「出雲国風土記」が伝える「国引き神話」に登場する。
国引き神話では、三瓶山は鳥取県の大山とともに国を引き寄せた綱をつなぎ止めた杭とされている。

佐比売山として出雲国風土記に出てくる民話「国引き神話」では、八束水臣津野命という神さまが出雲の国を見て
『 ずいぶん小さいな国じゃから、土地を引き寄せてきて大きくしよう 』
そして、『 くにこくにこ(国来国来)と引き縫える 』と言いいながら新羅の国から引っ張ってきた土地を杭につなぎ止められたという。
その引っ張ってきた国が今の島根半島で、其の時の一つの杭が佐比売山・三瓶山だそうだ。


『 出雲の国を造ったとされる「八束水臣津命」(やつかみずおみつぬのみこと;大国主命と同一とされる)は、その国が細く狭かったため、海の彼方にあった国のあまりに綱をかけて引き寄せ、つなぎ止めたというもので、引き寄せた国は日御碕から美保関へ続く島根半島(支豆支の御埼、狭田の国、闇見の国、三穂埼)、綱は大社湾岸の「園の長浜」と美保湾岸の「夜見島」。そして、「堅め立てし加志は、石見國と出雲國との堺なる、名は佐比賣山、是なり」。すなわち、三瓶山(佐毘売山)を杭としてくにびきの綱を止めた。(一方の夜見島の綱を留めたのは火神岳(鳥取県大山)ともされます。) 』  出雲風土記より


「出雲国風土記」では、三瓶山は「佐比売山(さひめやま)」の名で記されている。
また、「佐比売」の名は、1954年(昭和29年)に大田市に合併するまでの地名が「佐比売村」として残っていた。

神亀3年(726年)ときの朝廷は、全国の山の名や土地の名を「三字名なら2字名」に、凶音をもつ名は好文字の名に変えるように命令した。
佐比売山(さひめやま)という古名をもっていた三瓶山は、このときに改まったと言われている。
(古代の三瓶山は、実は佐比売と三瓶の2つの名を一緒に使っていた。恐らく三瓶は愛称であり、その愛称が正式な名前になった)


三瓶山の山頂には佐比売山神社山頂祠、そして山麓には佐比売山神社の山麓社鎮座している。 御祭神は大己貴命 少彦名命 須勢理姫命など、配祀として「金山彦命」が祀られている。
ただ、三瓶町の「佐毘賣山神社」は、直接、鉱山を祀る神社ではないらしい。


三瓶地区に伝わる物語では、朝鮮・新羅から渡った狭姫「さひめ」が赤雁(益田市に赤雁町というところがある。地名は佐毘売命の神話にある、古代朝鮮から五穀の神を背に飛来した赤雁の伝承によるという)に乗ってきて三瓶へ移り住み、やがて、狭姫(さひめ)を祀ったことから佐毘賣山神社となったといわれる。

更に、朝鮮から狭姫が渡ってきた際、併せて製鉄やタタラ(古代より鋼の製法)の技術を持ってきたとされ、これを契機に、山伏などが製鉄を営んでいたので「さび山」といわれ、サビが転化して「サヒメ」になったともいわれる。

元より、「出雲国風土記」にもあるように、古代出雲ではすでに鉄が生産されていた。 
この鉄の原料は砂鉄で、奥出雲での生産が有名である。 
原料の砂鉄は出雲の海岸では容易に目にすることができ、それも、白い海岸を真っ黒に覆うように砂鉄があるといわれる。
「ヤマタノオロチ伝説」は、最先端の技術であった製鉄、鉄剣の逸話ともいわれる。


古代の製鉄技術や鉱山技術は出雲地方と古代朝鮮の関わりから始まったといっても過言ではなく、その象徴たる神が「佐毘賣山神社」であった。 
ただ、先にも記したが三瓶山の佐毘賣山神社は、大国主命が国土経営の時、佐比売山(三瓶山)山麓に池を築き、稲種を蒔き、田畑を開いて農事を起こし、民に鋤鍬の道を教えたという伝承から祭祀されているらしい。
しかし、稲作技術には鋤や鍬が必要なように、製鉄技術と同時に始まったとされ、これが弥生文化の創年の事象ともされている。

三瓶山の佐毘賣山神社には配神として「金山彦神」が祭られているように、製鉄、鉄鉱(砂鉄)そして鉱山の神の一面が明らかに見得ているのである。


佐毘賣山神社の創祀年代は不詳とされている。 
社伝によると天武天皇の頃、また、寛平三年(891)という説もある。 
何れにしても祖神は有史前後にも遡る、古い古い神であることが創造できる。


ところで、益田の鉱山神である佐毘賣山神社の創建も不詳とされている。
社伝によると寛平5年(893年)、美濃国南宮大社より鉱山の神・「金山彦命」を勧請して創建されたらしい。

序ながら、美濃国一ノ宮の南宮大社は別名・仲山金山彦神社ともいわれ、美濃国(岐阜県)でも有数の壮大な社殿を誇る。 全国の鉱山、金属業の総本宮として古くから信仰を集めているという。
南宮大社は、金気一切を司る神として公権力より認知され、金山彦神は金属精錬の神々として、関連した多くの神々の集積したもので、強いて言えば新しい製鉄の神と言える。
元より、銅鐸とのつながりをもったより古い祭神で、鉄山を管理しながら製鉄神となって、各地に分遷されていったとされている。


歴史と伝承の三瓶山の佐毘賣山神社、鉱山開発の祖神である益田の佐毘賣山神社、更には石見銀山の主神・佐毘賣山神社と出雲地方には共通した社名が付く。
何れも、今では忘れられたように鬱蒼とした叢林の中に苔生している。

尚、三瓶山の佐毘賣山神社は定かでないが、神社としては珍しいことに益田の佐毘賣山神社、石見銀山の佐毘賣山神社の両社殿とも西北風(あなじ)が吹いてくる北西に向かって鎮座しているという。
このことは渡来発祥の地・新羅(朝鮮半島)に向いているもので、渡来の民の祖国を想ってのことと推察できるのである。


次回から実際の「石見銀山遺跡」を巡ります。





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2011年10月28日金曜日

日本周遊紀行;石見銀山遺跡(3) 「石見三田」

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 日本周遊紀行;石見銀山遺跡(3) 「石見三田」  ,




引続き「石見地方」のことである。

石見国(いわみのくに;石州:せきしゅう)は、東西に長いため東から大田市を中心とする東部を「石東」、江津市や浜田市を中心とする中部を「石央」、益田市を中心とする西部を「石西」と呼び三分されていて益田市、浜田市、大田市と共に石見三田(いわみさんだ)とも呼ばれているようである。

また、浜田の西には「江津」の港があり「江の川の港」を意味する地名で、江の川は中国山地を唯一越える一級大河で、瀬戸内の安芸国との結びつきも強い。

江の川は基本的には浜田藩領と石見銀山領の境界とされたが、川の左岸でありながら江津町のみが江戸時代のほとんどを石見銀山領に属していた。
そのため、石見銀山の幕府代官所の出先の口番所が置けれている。



その石見地方の中心都市「浜田

新道9号線沿いの港が一望できる高台に道の駅・「夕日パーク浜田」があった。
港周辺の展望が抜群であり、港を往来する巨大船舶、小漁船と相まって、島へ渡る近代的な大橋がいい風景となって見下ろせる。 
橋は「マリン大橋」といい、島は「瀬戸ヶ島」という。
すぐ左には同様ぐらいの大きさの島々が美観を添えてる。


奈良時代、天平年間の聖武天皇の御世、国分寺・国分尼寺建立の詔により、各国の国府に国分寺・国分尼寺が造られた。
浜田は古代・石見国の国府があったところとされ、律令時代の石見国の中心地でもあった。

日本海の砂浜近くの潮騒が届く場所に「金蔵寺」という古刹があり、近年、この境内に国分寺跡が発見され塔跡が一部発掘調査された。 
ただ、古跡は塔の跡と礎石が一部残っているのみで、全体像は明らかになっていないという。
国分寺跡の周辺には現在も「国分」の地名が残っている。

鎌倉時代に守護制度が置かれると、源氏・佐々木氏がこの浜田を支配し、室町時代には「大内氏」が領主となって、石見銀山をも支配するように成る。



銀山史跡より些か遠い「益田」と石見銀山の意外な関係



『 あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の 
        ながながし夜を ひとりかも寝む
 』  柿本人麻呂(百人一首)

( 夜になると谷を隔てて独りさびしく寝るという山鳥の長く垂れた尾のように 長い長いこの夜を、私は独りさびしく寝るのだろう )


西部地域の石西地方の中心とするに益田市は、急峻な山陰の山々に囲まれている地域に高津川及び益田川が主要河川となり日本海に注いでおり、そこに、小さな益田平野が三角州状に広がっている。 
その中心に益田の市街地が開けている。
その市の西部、高津川の袂に「高津柿本神社」があり、歌人として知られる「柿本人麿呂」を祀っている。 


冒頭は、皆さんご存知の有名な歌である。
この歌は、小生たちが高校生頃、学業でも習い覚えたもので、百人一首を嗜(たしなむ)む人達は、どなたも御存じの一句である。 
この歌は、飛鳥時代という古い時代に詠まれた歌であった。

柿本人麻呂」といえば、せいぜい平安期ぐらいの人物と想像していたが、これほど大昔の人とは存じなかった。
因みに、「万葉集」が発刊されたのは、奈良中期ごろで集歌は天皇、貴族から名もない防人(さきもり・兵士のこと)、遊女ら様々な身分の人間が詠んだ歌を4500首以上も集めたものという。

柿本人麻呂は、「石見国」へ国府の役人として下向し赴任している。
人麻呂は地元の女性と結ばれ、子々孫をもうけている(妻・依羅娘子の他に側女もいたとされる)。
そして、その終焉の地が、現在の島根県益田市であるという。

人麻呂自身はこの地で没したが、その子孫も石見国の郡司として土着し、鎌倉時代以降は益田氏を名乗り石見国人となったともいわれる。

以後、益田氏は石見地方の権勢を束ねながら、石見一国を束ねるようになる。
近世の益田氏は長州藩の家老として毛利氏に仕え、幕末に禁門の変で長州軍の指揮を執ったともされる。 
無論、現在の「益田」の名の起こりでもある。


さて、益田市の市街地の東側にある比礼振山(権現山:標高358メートル)の麓に「佐毘売山神社」ざ鎮座している。
この神社は、鉱山の護り神であり、別名を「山神社」とも言い、鉱夫たちや里人からは「山神さん」と呼ばれていた。

益田市美都の都茂地区に近年まで開鉱していた「都茂鉱山」があり、この鉱山は驚くことに世界で最初に発見された鉱山としても知られ、「都茂鉱」(主に銅と亜鉛、金、銀ほか)といわれる鉱脈の産出地で、既に平安時代の836年には採掘が始まっていたとされる。
そして更に驚くべきことに・・!、一時の休山を含めても1987年( 昭和62年 )まで採掘していたという。 実に1200年近い鉱歴を有するのである。

佐毘売山神社は、この都茂鉱山の守り神だったのである。


そして、「石見銀山」の中枢である大田市大森町銀山地区に、「佐毘売山神社」が山深く大鎮座している。 
一帯は銀山で最初に開発された場所とされ、地元・大森地域をはじめ石見地方の人々の信仰を熱く集めてきた。

この社は14世紀と15世紀に、益田市の同神社から分霊されたもので、祭神の移動は祭っていた技術者や鉱山物資の動きを示すものとされている。 
これは石見銀山開発の前史として、西石見の都茂銅山に関連した人と技術が大森にもたらされ、石見銀山の銀の開拓、採掘に寄与されたものとして重要視されてるという。


そして、この勧請を奉った人物こそ益田氏であり、当時の彼は室町将軍に会えるなど国人領主の中でも破格の扱いを受け、鎌倉時代から安土・桃山時代にかけて益田を拠点に権勢を振るった中世益田氏であった。

益田氏は戦国後期には博多にも領地を所有し、銀を貿易に活用したとされ、更にはは技術が逆に都茂銅山もたらされ(現在でいえば逆輸入)、銀の生産をももたらしたという。


益田と大森を結ぶ奇縁はもう一つあった。
益田に進出した益田兼見(南北朝;益田宗家の惣領)が1368年ごろに築いた館は、関ケ原の戦の後、解体されて船などで大森に運ばれ、銀山奉行・竹村丹後の屋敷となり、後の大森代官所(現、石見銀山資料館)として利用された。

戦乱の時代、貿易と軍事に手腕を発揮して動乱を駆け抜け、中世の世に存在感を示した益田氏(兼見)は、石見国最大の武士集団と財力と権力を源に、石見の地に点在していた豊かな銅と銀の資源を掘り起こそうとしていたのである。



さて石見三田大田市(おおだし)であるが、

大田市は雄大な自然、温泉や食事など観光をするのに魅力の多い街で、四季を通じて楽しめる国立公園・三瓶山、情緒あふれる温泉津温泉、鳴り砂で有名な琴ヶ浜など自然が豊富に揃っている。 
そして何より歴史・文化遺産の街(世界遺産石見銀山遺跡)である、

市域西部の大森は戦国時代から江戸時代にかけて日本最大の銀山とされた石見銀山の地で、1526年大内氏の支援によって博多の神谷寿貞が開発に成功したとされる。

その後、大内氏やその後継である毛利氏と出雲の尼子氏の間で銀山争奪戦が繰り返された。
江戸時代には幕府直轄領(天領)となり、石見銀山領が置かれた。
江戸期にほぼ掘り尽し、1920年代には完全に閉山した。
2007年に「石見銀山遺跡とその文化的景観」として世界遺産に登録された。

さて、銀山史跡の大森町は現、太田市大森町であり、以前は仁摩町大森地区であったが、その仁摩町は2005年10月、大田市、温泉津町と合併し、新しい大田市となり消滅している。


次回は、「大田市の佐毘賣山神社





祝い・・!!  平泉地方が世界文化遺産に決定。(2011年6月) 
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2011年10月26日水曜日

日本周遊紀行;石見銀山遺跡(2) 「石見地方」

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 日本周遊紀行;石見銀山遺跡(2) 「石見地方」   、




縄文の親玉を祀る・・?とされる出雲大社(最奥は御本殿、高さ24mで神社建築最大高;後述)



石見銀山」のことに触れる前に、「石見地方」について少々述べたい。

日本海に面した山陰の島根・石見地方に足跡を残したのは平成17年6月であった。
そして、「石見銀山遺跡」が世界遺産に正式に登録されたのが、2007年(平成19年)6月であるから丁度2年前のことになる。

特に、島根県に入って目に入ったものは、海の青、山の緑に相まって、人家の屋根の色彩が赤茶色が主体となって独特のコントラストを描き、風情をなしていることである。 
石見地方での代表的な色は、「赤と白」とよく言われるそうである。
赤は「石州瓦」のことで、白は「石見銀」のことのようである。 

本編は、この石見銀のことが主題であるが、これは当然この後詳しく述べるとして、その派手色の「」についてチョット触れておこう。


大阪の瓦職人の伝えたという「石州瓦」である。
日本に瓦が誕生したのは、仏教とともに百済国より伝来したのに始まるといわれ、奈良・「飛鳥寺」建設の時、日本初の瓦葺き屋根の建物が誕生したという。 
山陰地方での石州瓦は、飛鳥時代の石見国分寺(現、浜田市国分町、金蔵寺)の建立に始まり、江戸時代初期、浜田城築城や城下町建設に造られたのが基となったという。
石州瓦は島根県中西部、石見地方で生産されている瓦で、高い温度で焼き上げているため、硬くて耐寒性に優れた瓦といわれる。 

日本の代表的な瓦は、三州瓦(愛知・三河地方と兵庫県の淡路島)とされるが、 石州瓦と他産地の瓦との大きな違いは、原料となる粘土にあるという。
石州の粘土は、鉄分の少ない粘土(白土)を使用しているので、高温(1200度)で焼く事ができるため焼き締まって、硬く、水を吸いにくく、寒さに強い瓦ができ、海岸付近に多い塩害にも強く、風化しにくいという。 

山陰地方では赤瓦の町並みが連なり、冬の風雪に耐えながら、この地方独特の風情と景観を醸し出しているのである。 
現在は、凡そ25社のメーカーからなり、生産量は年間約2億枚で、陶器瓦部門全国シェア第2位を占めている。


石見地方」とは島根県の西部地域を指しているようで、東部地域は無論、出雲地方のことであるが、日本海に面した東西に長い県であるが故、何かにつけて石見地方と出雲地方は比較、対象されるという。 

東部の出雲地方とでは、気候はもちろん人の気質までも大きく異なっていると。
人を指す時も、石見人とか出雲人と云われるそうで、真面目で勤勉といわれる出雲人気質と対象的に、石見の人々は何につけ豪快で開放的であるという。 

古代・飛鳥期の頃までは、石見は出雲地域の一部にすぎなかったが、奈良期の律令制度における地方行政区分として「石見国」が発足している。 
その後、石州とも呼ばれることもある。 

尚、石見地方を更に細分して、大田市を中心とする東部地域を「石東地方」、江津市や浜田市を中心とする中部地域を「石央地方」、益田市を中心とする西部地域を「石西地方」と呼ぶこともある。

地元、石見観光振興協議会では、「石見という言葉から何を連想しますか・・?」と問うと石見神楽、石見銀山、石見弁、豊かな自然や文化などと答えが返ってくるといい、全国的な知名度は決して高くはないというが・・?。


ここでチョット「石見弁」についても述べてみよう。
石見弁(若干異なると言うが出雲弁と共通)は、島根県地方特有の俗にズーズー弁といわれる。
これは東北地方に共通する方言でもあり、東北の田舎出身の(福島県いわき市)の小生も、当時は普通に使っていた言葉で懐かしく、今でも何かにつけて発する瞬間(とき)がある。


日本映画不朽の名作といわれる松本清張の「砂の器」(1961年)がある。
この映画の謎解きの重要なヒントの一つに「犯人と被害者がズーズー弁で喋っていた」という証言がある。 その結果、犯人像は東北出身者と考えられるのだが、捜査の進展の中で、実は東北弁とよく似た出雲の或る地方だけに今も残っていることが判明する。
この際、東北の捜査では秋田県・「岩城亀田」に出向いている。 
(余分だが、この岩城亀田藩は、これまた小生の田舎に縁のある名称で、江戸期の岩城藩(小生の実家、福島県いわき地方)が出羽の亀田に転封になり、初代の岩城亀田藩が創設されることになる。)
捜査は、秋田県・「岩城亀田」では手掛かりが得られず、後に、実際は出雲地方の亀嵩(かめだけ:奥出雲地方で木次線・亀嵩駅)であったことが判明する。 両者の方言が共通していることから起きた混乱が、捜査を困難にしてしまうという、物語の重要なポイントでもあった。


東北特有のズーズー弁は「縄文語」である、という説が一般化している。
ご存知「出雲地方」は、神話の世界では大国主の「国譲り」で知られる。

出雲王朝(大国主)は旧来の縄文人とも喩えられのである。 
大陸や半島からの渡来人である弥生人(大和王朝)が出雲地方にやって来て出雲を平定し、出雲の民である縄文人の一部の彼らが東北地方へ落ち延びたこととされている。

弥生人に駆逐された出雲の縄文人は、その中心を今の東北に移したとも考察され、従って、ズーズー弁である縄文語と呼ばれる言葉は、東北地方に広まっていても何の不思議もないのである。

ズーズー弁の元祖は、出雲地方(石見地方)の縄文人で、その親玉が「大国主命」だったという推論である・・?。


又、同質の説も可能である。
縄文太古の時代の東西の文化、物資の交流は日本海を中心に行われていた。
例えば、青森の「三内丸山遺跡」から北陸越後の装飾用の「翡翠」(ヒスイ;古代からの装飾物)が大量に発見されているという歴史的事実がある。 

記紀(古事記、日本書紀)には、大国主が「翡翠」を求めて能登地方を巡りながら越後へ達している。
この時、越後の女王・奴奈河姫と結婚して、かの建御名方(タケミナカタ:諏訪大社の大神)という一子をもうけている。
同時に、大国主は越後の開拓や農耕技術砂鉄の精錬技術などを伝えたといわれる。
この事は、あくまで考古学的裏づけがない神話、伝承に過ぎないが、古代出雲王朝の広がりが想像できるのである。

出雲王朝は東北の縄文以来連綿と続いてきた文化と同じで、端的に言えば古代出雲王朝は東北地方まで広がる巨大な王朝であったと考えられ、つまり、同質の文化圏を有していた。
縄文語であるズーズー弁は、出雲から東北に至るまで標準語だったのである・


ところで、ズーズー弁の出雲弁は、現在でも出雲地方の山間の一部地域に残っているとも云われる。
何故孤立しているのか・・?、

ズーズー弁が縄文人たちの言葉とすれば、関西弁は弥生人の言葉かもしれない。 
大和王朝の勢力拡大に伴って、日本海沿岸を中心に栄えていた出雲王朝、出雲文化圏の人々の勢力圏を圧迫した。
そして遂には王朝の首都であった出雲を囲むように分断し、出雲弁が孤立するようになったと・・?!

これは歴史の面白さであろう・・!!

小生の「日本一周記」より、
出雲大社:「石見銀山」の後に記載します。 

奴奈川姫と翡翠: 
http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/nn-27-7.htm 


次回も引続き「石見地方




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2011年10月24日月曜日

日本周遊紀行;世界遺産・石見銀山 「はじめに」

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 日本周遊紀行;世界遺産・石見銀山 「はじめに」   、




写真:世界遺産の「龍源寺間歩」、公開中の坑内



世界遺産・石見銀山遺跡(1) 「はじめに」

2007年(平成19年)6月末、「石見銀山史跡」は世界遺産に正式に登録された。
正式名称は『石見銀山遺跡とその文化的景観』としている。

年当初、一旦は綿密な調査が必要などとして「登録延期」(事実上の凍結、落選)の勧告を受けたが、6月末のニュージーランド(クライストチャーチ)で開催されている第31回世界遺産委員会において、更に審議の結果、階級特進の「世界文化遺産」(産業遺産)として正式に登録のはこびとなった。

石見銀山は16世紀以降のもので『産業遺産』としては世界の遺産の中で最も古く、勿論日本では始めての登録となる。 
世界遺産についてのエリアは一般にコアゾーンといわれる核心(中心)部分とそれらを取り巻くバッファゾーンの緩衝地帯に別れている。



「石見銀山遺跡」の核心部分

一つ目に、「銀山柵内」(江戸時代初め柵で厳重に囲まれていたことからこの名がある)といわれる主に大森地区で、16世紀前半から本格的に開発され20世紀まで操業された銀鉱山遺跡の本体、銀の生産活動における生活、流通、信仰、支配に関わる遺構、遺物などなど・・名称として代官所跡、宮ノ前地区銀精錬工房跡、文化遺産的建造物、羅漢寺五百羅漢、それに石見銀山を防御するための山城遺構として石見城跡、矢筈城跡、矢滝城跡などがある。

二つ目に、石見銀山街道といわれる二つの港湾に向けてつながる、銀・銀鉱石と諸物資の輸送路で「温泉津・沖泊道」や「鞆ヶ浦道」で、何れも16世紀前半から銀、銀鉱石を博多への積み出しや銀山への物資補給、軍事基地として機能した街道である。

三つ目に、それらの港と港町・・、銀山で産出した銀・銀鉱石の積み出しに利用された二つの港湾とこれに隣接して発達した港町および港湾集落で、「鞆ヶ浦」や「沖泊」、両港は船を留める「鼻ぐり岩」などが往時を偲ばせる。
それに温泉のある港町・「温泉津」(ゆのつ)は、江戸時代以来の町割りをよく残し、町屋、廻船問屋、温泉旅館、社寺等の伝統的建造物である。

平成16年、温泉町としては日本で唯一の「国選定」(重要伝統的建造物群保存地区)を受けている。


それに、これら中心部分を取り巻くバッファゾーンといわれる緩衝地帯で、約3600haの周辺地域、山域である。


因みに、現在まで日本にあるユネスコ世界遺産は、知床、白神山地、屋久島の自然遺産が3物件。
日光の社寺、白川郷・五箇山の合掌造り集落、古都京都の文化財、古都奈良の文化財、法隆寺地域の仏教建築物、紀伊山地の霊場と参詣道、姫路城、原爆ドーム、厳島神社、琉球王国の城(沖縄では城をグスクという)及び関連遺産群の10物件の合計13物件である。


ユネスコについては次のように記されている。
ユネスコ」とは国際連合の一専門機関で、国際連合教育科学文化機関(こくさいれんごうきょういくかがくぶんかきかん)正式には、United Nations Educational, Scientific and Cultural Organizationといい、頭文字をとって「UNESCO」、通称ユネスコと称している。


次回は、「石見地方




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2011年10月20日木曜日

日本周遊紀行(180) 江津 「江の川」 

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日本周遊紀行(180) 江津 「江の川」  、






江の川河口と江津港(日本製紙の煙突)



江の川は、中国地方最大の川で、江川(ごうがわ)とも呼ばれる・・、

石見地方の浜田には高速道路が到達している。
瀬戸内・山陽道が大きく内陸へ入り込んでるあたり、広島の北に位置する千代田JCTから「浜田自動車道」が来ていて、更に、山陰道の江津まで延びているようである。 

案内板にしたがって浜田ICから乗ってみた。
まだ出来たてらしく真新しい道路は、ピカピカと黒光りしていて快適であったが、一っ走りで江津へ着いてしまった。 
左手に巨大な工場群が見えている、日本製紙とあった。



江津の主役は「江の川」であろう。 
別名を「中国太郎」ともいい、広島県域では可愛川(えのかわ)とも呼ばれているという。

江津、江の川と書いて“えつ又はえず”、“えのかわ”と読みがちであるが、実際は「ごうつ、ごうのかわ」と読み、地元では「ごうがわ」とも呼ばれているようである。 

高校野球の名門、江の川高校野球部のユニフォームの胸の文字は「GOGAWA」である。  
小生も「江の川」の野球チームが始めて出場した頃、読み方で妙に戸惑った覚えがある。 
いずれにしても、「江」を“こう”でなく“ごう”と読ませることに昔日を感じがするのである。


名のごとく江津は「江の川の港」を意味する地名で、既に、戦国時代以前には大陸との交易が行われ、中国の歴史書にも江津という地名が記されているという。 

河口の西側を占める中心部の江津町(江津本町)は、古くから江の川の舟運と日本海の海運の要所として栄えた。 
中国山地の三次(みよし)をはじめとする上流部の産物の積み出し、又、塩など上流部で必要とされる物資の搬入、併せて北前船の寄港地でもあって、江の川の舟運、海運業が盛んになり繁栄した。

現在も、この川岸から町中に向けて多くの廻船問屋の蔵屋敷が軒を並べ、石州赤瓦の光り輝く「天領の町」であった名残が見て取れる。 
この江津本町の一角を「甍街道」とも呼び、天領らしい風格を残している。


江津の駅から江の川に沿って「JR三江線」(こちらはサンコウセンと読みます)が走っている。 
江津の駅から中国山地を曲りくねって広島の三次(みよし)へ達していて、地図上で見ても、よくもまあと思うほど河川と鉄路がピッタリと寄り沿っているのである。 

JR三江線は、昭和50年8月に開通した比較的新しい路線である。 
陰陽連絡を目的として建設し開通したが、現在では、いつ廃線になってもおかしくないような状況にまで追い詰められているともいう。
しかも、JR西日本はローカル線には結構シビアに対応しているらしいが、実際には、今の所は三江線が廃止になるなどの具体的な動きは出ていないともいう。

三江線を実際に運転していた人は、『 三江線は、山間を走っているので、イノシシや鹿などの野生動物が線路内に入ることがよくあります。 以前、イノシシを四頭ひいてしまったことがあります。しかも、それは、三江線の最高速度(時速85キロ)で走っている時だったので、かなりの衝撃がありました。それで、保線区に問い合わせて処理してもらうように頼んで来てもらったところ、イノシシはどこかへ行ってしまったようで、イノシシの生命力には驚きました。 三江線に乗れば野生動物にお目にかかれるかもしれません 』・・と、PRも兼ねて話していた。


三江線は、人々の輸送もさる事ながら、かっての江の川の代役を果たし、山陰、山陽の物資流通の基幹線としての役目も果たしているのは確かである。 
江の川の河口には、日本国内最大規模の巨大製紙会社、「日本製紙」があった。


次の温泉津から大田までは、「世界遺産・石見銀山遺跡」という内容で記載します。 ご期待下さい。

次回は、「世界遺産・石見銀山遺跡




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2011年10月19日水曜日

日本周遊紀行(179) 浜田 「石州瓦」

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 日本周遊紀行(179) 浜田 「石州瓦」   .




朱色の石州瓦屋根が並ぶ町並み風景



石州瓦は、冬の風雪に耐えながら、この地方独特の風情と景観を醸し出している・・、

特に、島根県に入って目に入ったものは、海の青、山の緑に相まって、人家の屋根の色が赤茶色が主体となって独特のコントラストを描き、風情をなしている。 
この色鮮やかな瓦は、大阪の瓦職人が伝えたという「石州瓦」である。


日本に瓦が誕生したのは、仏教とともに百済国より伝来したのに始まるといわれ、奈良・飛鳥寺建設の時、日本初の瓦葺き屋根の建物が誕生したという。 

山陰地方では石見の国に因んで特に「石州瓦」といい、飛鳥時代の石見の国・国分寺(現、浜田市国分町、金蔵寺)の建立に始まり、江戸時代初期、浜田城築城や城下町建設に造られたのが基となったと言われる。 
石州瓦は独特の「赤瓦」として注目を浴び、山陰はおろか北前船によって北陸から北海道にまで運ばれたという。


粘土瓦の三大産地として三州瓦、石州瓦、淡路瓦がある。
三州瓦は、愛知県三河地方で生産されている瓦で、こちらの生産量は日本一である。 

石州瓦は島根県中西部、石見地方で生産されている瓦で、高い温度で焼き上げているため、硬くて耐寒性に優れた瓦だという。 
次に、淡路瓦は、兵庫県の淡路島で生産されている瓦で、いぶし瓦の生産量ではトップであるという。 

石州瓦と他産地の瓦との大きな違いは、原料となる粘土にあるといい、石州の粘土は鉄分の少ない粘土質(耐火性粘土・白土)のため、高温(1200度)で焼く事ができ、そのため焼き締まって硬く、水を吸いにくく、寒さにも強い瓦ができるという。 
特に、海岸付近に多い塩害にも強く、風化しにくいと。 


山陰地方では赤瓦の町並みが連なり、冬の風雪に耐えながら、この地方独特の風情と景観を醸し出しているのである。

2005年10月、浜田市、旭町、金城町、弥栄村と合併して新市制による浜田市が誕生している。

次回は、「江津、江の川





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2011年10月18日火曜日

日本周遊紀行(179) 浜田 「会津屋八右衛門」

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日本周遊紀行(179) 浜田 「会津屋八右衛門」 ,





道の駅・「夕日パーク浜田」から望む浜田港


浜田漁港に立つ「会津屋八右衛門」の頌徳碑(しょうとくひ)



江戸期、商人・会津屋の密貿易で浜田藩は窮乏から脱したという。 即ち、会津屋は藩の恩人であった。 だが、幕府の罪人でもあった・・?、

山間の三隅町から再び海岸へ出た所で「夕日パーク三隅」というのが在り、次に「夕日パーク浜田」という道の駅が在って、この地で小服する。 

気が付くと、先ほど展望休憩したところは“サンシャイン”と言っていたが、こちらは、“夕日・パーク”と和洋折衷の個名で、何れも下手な英名を名乗ったり、英名と国語(日本語)がチャンポンになったりで、忙(心が亡ぶ=忙)しい国である。


夕日パーク浜田」は浜田港を見渡せる高台にあり、港周辺の展望が抜群である。
港を往来する巨大船舶、小漁船と相まって、島へ渡る近代的な大橋が一つの風景となって見渡せる。 
橋は「マリン大橋」といい、島は「瀬戸ヶ島」といい。すぐ左にも同様の島々が有って美観を添えてる。

ただ、この巨大な架橋は国際貿易・水産都市浜田のシンボルとして、総工費約70億円を費けての竣工したものらしいが、一般地元の人の見る目は冷めていて、その意義や有益性については疑問視もあるという。 

浜田港は、島根県唯一の国際貿易港として今は三万トンクラスの船舶が利用可能となっているらしいが、将来は五万トンクラスの大型船舶が利用できる港として整備中とのこと。
平成13年には浜田港と韓国の釜山港を結ぶ国際コンテナ航路が週1便開設されていて、更に浜田港は、北東アジア地域の交流促進や県西部の活性化が期待されていという。


石見地方の中心都市・浜田が、本格的に城郭と城下町、そして湊町が築かれたのは江戸時代初期のことである。 
築城主は元和5年(1619)、伊勢・松坂から転封されてきた古田重治(ふるたしげはる:羽柴秀吉の家臣だった古田重則の三男)だった。 
浜田藩・5万5千石の本拠地として浜田城を整備し、この時、築城ならびに城下町整備のために重治が大坂から連れてきた瓦職人がいて、それらを伝えた技術が後の石州瓦発展の基礎になったそうである。

その後、浜田藩は古田家以降、五家十八代続き、長州(山口県)の毛利氏に対する最前線の抑えとしての役割を果たしてきた。

しかし、江戸末期の慶応2年(1866)、第2次長州征伐の際には山陰方面の幕府軍の拠点となったため村田蔵六(後の大村益次郎)率いる長州軍の猛攻を受けて落城する。 
藩主の松平武聡は城に火を放って鳥取へ逃亡し、250年近くに及んだ浜田藩の歴史は幕を閉じている。


江戸期における浜田港は、北前船の寄港による物資の集散地として栄えたが、一方では、密貿易も行っていて浜田藩は更に潤ったとされている。

江戸時代は鎖国時代であって、海外との貿易が許可されているのは幕府直轄の長崎港だけで、鎖国を破り海外との貿易を行うことは幕府への反逆行為として大罪であった。 
しかしながら、鎖国の本当の理由は、幕府が海外貿易の利益を独占するために行ったという説もあったようである。 
実のところ幕藩時代は、どの藩も財政が窮乏しており、江戸後期には内密で薩摩藩をはじめ、危険を冒してでもその密貿易に手を付けた藩や人物は結構いたようである。

浜田港は北前船の交易も盛んであったが、当節の浜田藩の財政難を見かねた藩の商人「会津屋八右衛門」は密かに朝鮮のウルルン島(当時は竹島)に船を出し交易を行い、数年で何十万両もの利益を上げ、それによって浜田藩は窮乏から脱したとのことであった。

しかし、それも幕府の隠密ともされた「間宮林蔵」(隠密説は・・・?)に摘発され、発覚して天保7年(1836年)に八右衛門は死罪となる。 又、責任者でもある藩の家老や年寄などの重職も切腹、藩主の松平家も福島に国替えとなっている。 
浜田藩庶民の安定した暮らしの中には、このような犠牲も有ったのである。


因みに、間宮林蔵は江戸後期の探検家で、伊能忠敬に測量術を学び、幕命によって北方、北樺太を探検、後の間宮海峡を発見し、地図上でもその名前を残していることは周知である。 

その林蔵は、幕府の隠密でもあったとされる。 
晩年には勘定奉行・遠山景晋(とおやまかげみち・北町奉行・遠山金四郎の父親)の部下になり、幕府の隠密として全国各地を調査する活動を行う。 

普通に見ると、探検家が隠密に転身したような見方もあるが、そもそも樺太探検自体が対ロシア・対清国の隠密行動であり、諜報活動でもあった。 

忠敬は石州・浜田藩の密貿易の実態を掴み、大坂町奉行に報告し検挙に至らしめている。 
彼は隠密らしく変装の名人であり、アイヌ民や乞食など様々な変装をこなしていたともいう。 
浜田藩の密貿易調査の際も、商人に変装して回船問屋・会津屋へ潜入に成功している。 
後に間宮は、「乞食に変装した時は、(着衣がボロボロなので)預かった資金を懐中に隠すのに苦労した」と述懐していたという。


浜田港の東方、一丘越えたところに浜田城址(城址公園)が在る。 
小生お好みの作家・司馬遼太郎氏は、大村益次郎の伝記小説「花神」の執筆の際、浜田城攻防の歴史を調査している。 
本丸城跡の上り口近くに、司馬氏の浜田藩追懐の碑文が記してある。

『 いま、城跡は苔と草木と石垣のみである。それらに積もる風霜こそ、歴史の記念碑といっていい 』
と締めくくっている。

松原浦を見下ろす岬の先端に、藩の恩人でもあった「会津屋八右衛門」の像が浦を見下ろしている。 また、浜田漁港には「会津屋八右衛門」の頌徳碑が立つ。


次回は、「石州瓦





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2011年10月17日月曜日

日本周遊紀行(178) 津和野 「千姫事件」 

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 日本周遊紀行(178) 津和野 「千姫事件」  .



津和野観光パンフより




津和野は、「つわぶきの生い茂る野」から、その名が生じたというが・・、

益田は、古代から山陰と山陽を結ぶ交通の要衝地であった。
現在でも主要幹線である国道9号線が京都を発って日本海を巡り、ここ益田で高津川沿いに内陸に向かい、「津和野」を経て、山口、山陽道の下関に達している。 
そして、並行してJR山口線が走っている。 

山口線は、山口市の新山口駅から益田市の益田駅に至るJR西日本であり、国道と同様に中国山地を斜めに横断する主要な陰陽連絡路線でもある。 


山口線で特筆されるのは、御存じSL(蒸気機関車)列車の運転であろう。 
ここのSLは、国鉄時代からの1975年12月を最後に姿を消していたが、地元や鉄道ファンの要望により、観光も兼ねて1979年8月に山口・小郡から山陰内陸の「津和野」まで運転されることになったという。 

貴婦人と呼ばれるC57(シゴヒチ)形蒸気機関車牽引で「SLやまぐち号」が走り、すっかり有名になり全国区にもなった。 
この事は「動態保存」という保存法の先駆けとなり、この列車の成功を受けて全国主要各地でJRの蒸気機関車の復活運転が行われるようになったのは周知である。


SL運転で有名になった内陸の地「津和野」は、元々、全国的にも有名な観光地であり、関東地区からも「萩・津和野」のツアー観光などで常時、紹介されている。 

山峡の地で、谷あいに赤い石州瓦の家々が密集する小さな町であるが、一言で言えば「萩の縮小版」とも言われる。 
人によっては、山に囲まれて、のんびり長閑なところは萩よりも風情が有り落ち着けてよろしいともいう。 
町屋は歴史的建造物や史跡なども多く、「山陰の小京都」と言われる所以である。


津和野は「つわぶきの生い茂る野」をその名のルーツにもつといわれる。
遠い昔、山紫水明のこの地に住みついた人々は、群生する「つわぶき」の可憐な花に目をとどめ、その清楚で高雅な風情に魅せられ、自分たちの住む里を「つわぶきの野」、つまり「つわの」と呼ぶようになったという。 

因みに、「つわぶき」(石蕗)とは、フキに似た植物で、葉に艶(つや)があることから「つやぶき」、転じて 「つわぶき」になったといい、晩秋に黄色い頭花を 咲かせる。 観賞用のほか、茎は食用にまた葉や根茎は民間薬として利用されているという。



津和野は、既に縄文の頃より人が住み着いていたという痕跡もあるが、鎌倉期になって本格的な城つくり、町つくりが始まる。 
鎌倉期、鎌倉幕府の御家人・吉見頼行(河内源氏の棟梁・源義朝の六男で、鎌倉幕府初代将軍源頼朝の庶弟にあたる)が地頭として任じられ、文永・弘安の役の直後だっただけに、日本海の海岸防備に当たらせた。 
この時期、吉見氏は本城・津和野城を津和野に築き、当時は三本松城と呼ばれていた。 

戦国期、吉見氏は、主君である大内義隆を滅ぼした陶晴賢(すえはるかた)や益田氏らの大軍に山麓を包囲され猛攻撃を受けたが、100日余の籠城戦での末に毛利元就の援助を受け陶晴賢を退却させている。
この戦いは、世に「三本松城の役」と呼ばれ、この山城の要害堅固さを天下に知らしめたという。 

津和野・吉見氏は、この後14代続いたが、慶長五年(1600年)「関が原の役」にあたり、毛利氏に組して西軍に味方したため、敗れて長州へ移されてしまう。 
その後に入部したのが坂崎出羽守成正であった。 

関ケ原の合戦の後、軍功のあった坂崎出羽守直盛が津和野城主となり、城の大修築を行ない、高石垣の近世山城を築き上げ、現在見られるような津和野城跡の原型を造りあげた。
この坂崎出羽守も、かの「千姫事件」のため一代でお家断絶となった。



「千姫事件」とは・・、

元和元年(1615)の「大坂夏の陣」に際して、坂崎出羽守は炎上する大坂城内から徳川家康の孫である千姫(7歳の時に豊臣秀頼に嫁ぐ)を満身創痍となって助け出した。 
これには、千姫を助けた者には嫁にして与えるという、家康の言葉を信じたからであった。 

ところが意に反して千姫は、今で言うイケメンだった本多忠刻(ただとき;ちちは忠政、祖父は徳川四天王として名高い本多忠勝)のもとに嫁ぐことになってしまう。
これを知った出羽守は千姫の輿(こし)を奪い取り、刺し違えようとまで思いつめる。 
だが、このことは幕府の露見するところとなり、千姫の父・二代将軍徳川秀忠は坂崎直盛に対し、幕府への反逆として断固たる処置を命じた。 

この時、騒動の張本人である家康はすでに亡く、老中評議の結果、坂崎出羽守の自決で決着させようとした。 しかし、出羽守はこれを聞き入れず、結局、坂崎家の家老が出羽守を殺害し、その首を幕府に差し出して一件落着となった。 
これには将軍家の指南役・柳生宗矩の諫言に感じ入って自害したとも言われている。 
この事件のため坂崎家は、津和野城主となってわずか16年でお家断絶となっている。


2005年9月25日、津和野町、日原町が合併し、現在の「津和野町」が発足している。山口や萩と関連が深いが、れっきとした出雲・島根県の所在である。


次回は、「浜田



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2011年10月16日日曜日

日本周遊紀行(177) 益田 「柿本人麿呂」

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 日本周遊紀行(177) 益田 「柿本人麿呂」   .




高津柿本神社(益田市)



「足日木乃 山鳥之尾乃 四垂尾之 長永夜乎 一鴨將宿」・・?、

阿武町から須佐町、田万川町は海岸にへばりつく様に、鉄路(山陰本線)と道路が並行して走る。 
午前の頃、モヤで余り視界も効かなかったけど、今はスッカリ晴れ渡り日本海の青が目に眩しいくらいである。

ところで、海岸線に沿って開けている阿武町は、自然豊かな海の町で海の幸も豊富であろう・・?。 
ただ、周辺の近隣地域であった須佐町、田万川町、むつみ村、福栄村の町村は、萩市と合併して新市制の萩市になっているのに、この一町の阿武町だけが新萩市に完全に囲まれるようにして独立自尊を決め込み、見たところ孤立して宙に浮いている感じは否めない。 

他事(ひとごと)ながら、萩市から合併の話は有ったのかどうか、又、有ったとしても阿武町自身が、それを断ったのかどうか・・?、定かではないが妙な感じは受ける。 
何事か理由があっての、単独町政を行うことを表明したのだろうか・・?。 


後になって判ったが、同町の町長は始めから合併を拒み単独町政を選んだといい、「阿武町の基金は阿武町で使いたい」などとして、広域合併の拒否を貫いたという。
だが、人口約4000人の町の現実は厳しいとされ、国と地方の税財制を見直す三位一体改革によって、この間、同交付税が大幅に減った。
それでも町の担当者は「合併でも、単独でも都市部から離れた周縁部という町の置かれた立場は同じ。合併を巡って揺れたお陰で、住民に自立意識が芽生えた。今後は町の独自性を出したい」 と意気込んでいるらしい。


田万川町の「道の駅・ゆとりパークたまがわ」で一服した後、仏峠と言われるトンネルを越えると、ここは既に「島根県」であった。 
海岸に突き出たように「サンシャインP・A」があり、余りの展望の良さに車を寄せてみた。 

寄せ木で造られた床地に、品よく石のモニュメントが施してあり、開放感ある大海原を目前に思わず深呼吸する。 
日本海の荒海と言うけれど、今は砂浜に小波が静かに打ち寄せていて、すぐ其処に浮かぶ島々も、紺碧一色に模様と彩りを添えている。


益田の町に入った。 高津川の大橋を渡ると益田市街である。
益田は、急峻な山陰の山々に囲まれている地域に高津川及び益田川が主要河川となり日本海に注いでおり、そこに、小さな益田平野が三角州状に広がっていて、その中心に益田の市街地が開けている。 

その市の西部、高津川の袂に「高津柿本神社」があり、歌人として知られる「柿本人麿呂」を祀っているという。 
どっしりとした風格の入母屋造の本殿を持つ神社で、地元の人は「人丸さん」と呼んでいるようで、読み方によっては「ひとまる・火止まる」で、火災よけの神様、「 ひとうまる・人産まる」で、安産の神様と開運、火難除け、商売繁盛、安産の神様として人々の信仰を集めているとか。

元来、柿本人麿呂は歌聖であることから、学業成就を願う学生も多く、人麻呂を偲ぶ参拝客が後を絶たないという。


『 足日木乃 山鳥之尾乃 四垂尾之 長永夜乎 一鴨將宿 』
-----万葉集歌

「 あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む 」
-----百人一首

【 夜になると谷を隔てて独りさびしく寝るという山鳥の長く垂れた尾のように 長い長いこの夜を、私は独りさびしく寝るのだろう 】
-----現代訳  


この歌は、小生たちが高校生頃、習い覚えたもので、百人一首を嗜(たしなむ)む人達は、どなたも御存じの一句である。 
柿本人麿呂(かきのもとのひとまろ)は万葉集のみならず和歌史を代表し、しいては日本文学史をも代表する人物で、奈良朝以前の飛鳥時代の歌人である。 

生涯で300首以上の歌を詠み、「万葉集」に人麻呂作歌75首、および柿本朝臣人麻呂歌集として歌25首、計100首を載せてる。 
又、百人一首・百人秀歌の中で三番目に置かれている。


柿本人麻呂」といえば、我々にも馴染みのある歌人で、せいぜい平安期ぐらいの人物と想像していたが、これほど大昔の人とは存じなかった。 
上記、韓文字歌(万葉集歌)は一見したところ、何のことやら判らぬが、飛鳥時代には未だ平文字は無く、韓文字で書かれた原文、原歌なのである。


因みに、「万葉集」が発刊されたのは、奈良中期ごろで、集歌内容は天皇、貴族から名もない防人(さきもり;古代、北九州の守備に当った兵士のこと)、遊女ら様々な身分の人間が詠んだ歌を4500首以上も集めたものという。 

人麻呂についての人物史書や記録記載はあまり無く、その生涯については謎とされている。 宮廷での皇室讃歌や皇子・皇女の挽歌を歌うという仕事の内容や重要性からみても、政府筋の高官であったことは伺えるが。


人麻呂は、石見ノ国へ国府の役人として下向したのであろうと言われているが、その痕跡、足跡は確かでなく、当時の国府がどこにあったのかも諸説あり、現在の浜田市ともされている。 
人麻呂の終焉の地も定かではないとしながらも、有力な説として現在の島根県益田市(石見国)であるとされる。

地元では人麻呂の終焉の地を既成事実としてとらえ、「柿本神社」としてその偉業を称えている。 そして人麻呂が没したとされる場所は、益田市沖合にあった「鴨島」であるとされている・・が、現在はその鴨島そのものも存在していない。 

万葉集に残されている死を目前にした人麻呂の歌など「鴨山五首」から、人麻呂が石見の「鴨山」で亡くなったこと、そして、そこには「石川」(現在の高津川・・?)という川が流れていたらしいが、いまだこの鴨山がどこなのか確定されていないという。 

平安期、11世紀初頭の大津波で流失したともいい、海中からその遺痕が発見され、神社に奉納してあるとも云われるが、これも定かではないと・・?。

益田市は2004年11月1日に、内陸部の美都町・匹見町と編入合併し、新益田市が誕生している。


次回は、「津和野






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2011年10月15日土曜日

日本周遊紀行(176) 萩 「村田清風」

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 日本周遊紀行(176) 萩 「村田清風」   、





萩城址と指月山公園



「 来て見れば 聞くより低し 富士の山 
         釈迦や孔子も かくやあるらん
 」 清風

萩城・毛利藩は1604年(慶長9年)萩城建造に着手して以来、幕末の1863年(文久3年)、時の藩主・毛利敬親が幕府に無許可で藩庁を山口政事堂(山口市)に移すまで、萩城は260年間の藩庁としての役目を果たした。

その幕末、700万石とされた徳川宗家(幕府)の石高は別格としても、長州藩の経済規模である石高・37万石は、300諸侯と呼ばれた諸藩の中では10傑のどんじりあたりである。 
これは、将軍を出す資格のある御三家の水戸藩(35万石)や外様の広島藩(42.6万石)、佐賀藩(35.7万石)などと同規模となる。 


因みに、薩摩藩(77.1万石)は長州藩の二倍、佐幕派の雄・会津藩は28万石、大老・井伊直弼が藩主を勤めた彦根藩は35万石だった。

尤も、これらの数字は「表高」であり、18世紀後半、長州藩の実際の収入である「内高」は既に90万石に達していたとも言う。 
しかし、藩内情は、借金まみれの大赤字財政であったといい、藩の表高の数倍に当たる150万両の借金まみれの大藩であった。 
この借金財政の建て直しを行ったのが「村田清風」、この人であった。


清風は幼少時から優秀で、藩校・明倫館に入学し、ここで優秀な成績を修め、学費免除のうえ、明倫館書物方となった。 
以後、藩主・斉房から五代の毛利敬親の代まで要職を歴任し、さらに、江戸に上って兵法や海防策を学び知識を広げた。

彼は、江戸に上るときの秀句を詠んでいる、

『 来て見れば 聞くより低し 富士の山 
          釈迦や孔子も かくやあるらん
 』

その後、彼が55歳の時、表番頭と江戸仕組掛を兼任して藩政の実権を掌握する。
そして、藩主・毛利敬親の下で長州版・天保の改革に取り組んだ。


この敬親は政治的にはやや暗愚で消極的であったらしく、事に及んで何事も「そうせい」といい、「そうせい侯」とまで呼ばれたが、それが逆に幸いして清風は何一つ遠慮すること無く、藩政改革に手腕を振るうことになるのである。 

財政の再建、軍制改革と、贅沢に慣れた士風の建て直しに着手する。 
倹約」、「勤勉」そして「能力主義」などを全面に押し出し抜本的改革を、やや強引に思えるほど断行する。 
こうなると当然、藩士から反感をかうことになり、暗殺を企てる者も一人や二人ではなかったという。


しかし清風は、改革の途中で中風に倒れ、家老職は後継に譲って隠退した。 
その後、病から回復した彼は子弟教育に力を注ぐ。 

彼という先人によって、「吉田松陰」のような藩士としては身分は高くはないが、有能で志のある後進・後輩が台頭する道が大きく開けることも繋がった。 
後に一時、長州藩を絶望のふちに追いやるが、倒幕、維新を成し遂げる原動力ともなるのである。 

この時期、松蔭と清風は47年の歳の開きがある。 
藩の軍政をになう俊才であった松蔭は、少年の頃から清風とは面識があったようだが、この祖父と孫ほどの二人が手を携えて行ったのが、藩校・明倫館の改革、拡張でもあった。

明倫館(めいりんかん)は、水戸藩の弘道館、岡山藩の閑谷黌と並び、日本三大学府の一つと称される。 

1718年(享保3年)、萩藩6代藩主(毛利吉元)が萩城・三の丸追廻し筋に創建、後に、14代藩主毛利敬親が藩政改革に伴い萩城下に移している。 
萩・明倫館は、現在、萩市立明倫小学校の敷地内となっており、有備館、水練池、聖賢堂などの遺構が残っている。1919年、国指定史跡を受けている



城址からの海沿いの道を行くと菊ヶ浜という松緑、白い砂浜が現れ、遠くに城址のこんもりした指月山の姿と相まって実に秀美である。 

気が付けば「」の町には至る所に松ノ木が有り、これが古跡の町の風情に良く似合っているのである。 

町外れの国道沿いに、萩・反射炉の遺構がある。 
1858年(安政5)に萩藩が鋼鉄製の大砲製作のために建設した西洋式金属溶解炉(史跡)である。 
薩摩藩や水戸藩などがあいついで建設したが、現存するのは、ここと静岡県伊豆韮山の2基のみという。


2005年3月6日、旧萩市が阿武郡川上村、田万川町、むつみ村、須佐町、旭村、福栄村と対等合併し、新市制による「萩市」となっている。


次回は、「益田」 






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2011年10月14日金曜日

日本周遊紀行(176) 萩 「長州・毛利氏」

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日本周遊紀行(176) 萩 「長州・毛利氏」 ,




『 一年の計は元旦にあり、 一月の計は朔(ついたち)にあり、 一日の計は鶏鳴にあり』・・、

萩の歴史の本山・「萩城址」へ向かう。
町の西の端から今度は、東の端の位置にある。
10分も経たず着いてしまったが、城下町や松蔭ゆかり地と違って、静寂たる所で全く人の気配は無かった。 

微風に揺らぐ壕池の小波と、通用路入り口に立つ「萩城址」と彫られた石柱が一本、物悲しく存在している。 
しかし、壕池に浮かぶ、そう高くはないが横幅一杯に広がっている城石垣は豪快で、往時の姿が想像できる。 

壕池は日本海の海に通じていて、元々は指月島といって砂洲で繋がっていた島であり、日本海の波が直接洗う城だった。 
指月島の東側の場所は、石垣の下まで波が来ているという。


右方に、こんもりした丸山・指月山(標高143m)が、天然林緑に覆われている。 
嘗て城は、詰の丸(本丸の中に別の区画として構築したもの)を指月山に築き、山麓に本の丸・二の丸を設け、五層の大天守があったという。 
明治維新の主役・長州藩が山陰の萩から山口へ政庁を移すまで、毛利氏14代の居城であった。


関が原の合戦」において長州藩は、東軍に内通していた一族の「吉川広家」の取り成しで粛清や改易こそ免れたが、周防・長門の2国36万石に減封された。 
又、この萩城築城に当たっても、三方を山に囲まれ一方は日本海に面していて当時、交通の便が比較的悪い萩に築城する事を徳川幕府に命じられている。 
これらの経緯から、徳川氏への恨みは深く、毎年正月には幕府への恨みを確認する儀式を行うのが慣わしであった。


毛利氏に関しては、処々方々で記載してきたが、最後に長州・毛利氏について、おさらいをして見よう。  

毛利氏は、鎌倉幕府の名臣・大江広元(おおえひろもと:学問の大家・京で朝廷に仕えた冷静で明哲な実務官僚)の四男・大江季光(おおえすえみつ)を祖とする一族である。 

名字の「毛利」の起こりは、四男・季光が父・広元から受け継いだ所領の相模国愛甲郡毛利庄(もりのしょう、現在の小生の居住地・神奈川県厚木市周辺)に由来する。 
「毛利」の元来の読みは「もり」だが、後に「もうり」と読まれるようになった。
毛利家は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけて、安芸国高田郡吉田(現在の安芸高田市)へ移った後に国人領主として成長し、戦国時代には国人領主から戦国大名への脱皮を遂げ、中国地方最大の勢力となった。 

しかし1600年の関ヶ原の戦いでは、西軍の総大将(藩主・毛利輝元)に祭り上げられ、西軍敗戦の結果で周防国・長門国の二ヶ国に減封されるも、江戸時代を通じて安泰であった。 
そして、江戸時代末期には数々の優秀な志士を輩出し、明治維新を成就させる原動力となる。  
戦国時代、安芸国の国人として土着した毛利氏は一族庶家を輩出し、中でも毛利元就が当主となると、元就はその知略を尽くし一族の反乱や横暴な家臣を粛清、安芸国の吉川氏と備後国の小早川氏を乗っ取り、次第に勢力を拡大してゆく。 

尼子氏に対しては策略を以って誅殺させ、そして大内義隆に謀反した陶晴賢を1555年の「厳島の戦い」で破り、大内氏の旧領をほぼ手中にする。
その後は北九州に侵入し、筑前国や豊前国の秋月氏や高橋氏を味方に付け、豊後・大友氏とも争った。 

1566年、仇敵の尼子氏を滅ぼして、中国地方(安芸・周防・長門・備中・備後・因幡・伯耆・出雲・隠岐・石見)を領有した。 
毛利元就の子である長男の毛利隆元、次男の吉川元春、三男の小早川隆景らは皆優秀であり、有名な「三本の矢」に喩えられる。

因みに、「小早川氏」については・・、
小早川氏の祖は、相模国土肥郷(神奈川県湯河原町土肥)を本拠地とした頼朝の第一の忠臣・「土肥実平」の子とされる。
その子の遠平が小田原の早川の地を与えられ、小早川を名乗ったことに始まる。

源頼朝が守護・地頭を置いた時に、遠平は旧平家氏領の安芸国沼田庄(広島県三原市周辺)の地頭職に任じられる。
戦国時代に入ると中国を支配した大内家傘下の国人領主となるが、その後、大内氏が毛利に亡ぼされると、1544年に毛利元就の三男・隆景が小早川家の養子に迎えられた。

小早川隆景は、兄の吉川元春とともに毛利家を支える「両川」と呼ばれる筆頭家老になる。(毛利両川体制、所謂、毛利・「三本の矢」:本家、吉川、小早川家の三強体制のこと)

本能寺の変後、羽柴秀吉が織田信長の後継者としての地位を確立すると、毛利家は豊臣政権下では五大老にまでなる。
だが、隆景には子供がいなかったため、家督は豊臣秀吉の甥・羽柴秀俊(後の小早川秀秋)が養子として継ぎ、小早川本家は毛利一門と併せて、豊臣一門にもなった。

小早川秀秋は関ヶ原の戦い(秀吉の正妻・北の政所の影響で西軍から東軍に寝返ったとされる)での功績により、備前51万石に加増移封されたが、嗣子なくして病没し、小早川家は名実ともに断絶したというのが定説である。

ただし、近年の2007年10月、秀秋には側室の子・土肥秀行がおり、足守木下家に仕えて存続したとする家伝が、隆景像とともに子孫である足守藩士(備中岡山)の家から発見されたという。

この家系が他の秀秋の兄弟による跡目の継承によって復活したものでない秀秋の血統であるとすると、豊臣姓・小早川(土肥)氏は現在も存続していることになるともいう。



当主元就が毎年元旦に、家臣に伝えた言葉として・・、
『 一年の計は元旦にあり、 一月の計は朔(ついたち)にあり、 一日の計は鶏鳴にあり 』 と訓示している。

戦国期、毛利元就の孫の毛利輝元は、豊臣秀吉に属し、安芸、周防、長門、備中半国、備後、伯耆半国、出雲、隠岐、石見を領し、吉田・郡山城から地の利の良い瀬戸内海に面した広島城を築城し本拠を移している。 

輝元は、後に秀吉政権下、五大老に就任し、秀吉亡き後、関ヶ原の戦いでは西軍の名目上の総大将に担ぎ上げられる。 
西軍は結局敗れるが、吉川広家の内通により毛利家の所領は安泰のはずであったが、徳川家康は約束を反故にし、輝元は責任を問われて周防国・長門国(長州藩)の二カ国に減封させられた。 

領土が120万石から37万石に減封され、新規に藩庁を「」に置き、萩城を築城して移住したのである。
偉大なる叔父と祖父に囲まれ、やや甘やかされて育てられた輝元は、器量と覇気に欠けたお坊ちゃまであったとも言われている。 
決断力に欠け、ここぞという時に判断が下せない場合が多く、結果として毛利氏は「中国地方の太守の座」を転がり落ちることとなる。


後年の江戸期の毛利藩は、新年の会において家臣より・・、

『 本年は、倒幕の機は如何に・・?  』    
と藩主に伺いを立て、それに対し・・、

『 時期尚早・・! 』

と藩主が答えるのが毎年の習わしだったという。


江戸末期の毛利敬親(もうりたかちか)の時、長州征伐等により幕府から圧迫を受けたが、吉田松陰や高杉晋作、桂小五郎(木戸孝允)等の有能な人材を輩出し、明治維新を成就させている。


次回、「長州の藩政改革





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2011年10月13日木曜日

日本周遊紀行(176) 萩 「吉田松陰」(6)

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 日本周遊紀行(176) 萩 「吉田松陰」(6)  .




吉田松陰像(wiki 山口県文書館蔵)


吉田松陰の基本思想と松下村塾の関わり・・、

安政6年(1859年)、松蔭は老中暗殺計画を自供して自らの思想を語り、江戸伝馬町の獄において斬首刑に処された。 享年30(満29歳没)。

吉田松陰の幼名は杉虎之助。 吉田家に養子入りの後、吉田寅次郎。 松陰の号は寛政の三奇人の一人で尊皇家の高山彦九郎(上州新田郡;江戸時代後期の尊皇思想家)のおくり名にちなんでつけられた。 

号の松陰の他、二十一回猛士とも称した。 
「二十一回」については、名字の「杉」の字を「十」「八」「三」に分解し、これらを合計した数字が「二十一」となること、および、「吉田」の「吉」を「十一口」、「田」を「十口」に分解でき、これらを組み合わせると「二十一回」となることにより付けられている。



吉田松陰は、幕末に生きた非常に情熱的な人で、30年という短い生涯ながらも、自身の情熱で多くの人たちの心を揺り動かし影響を与えた。
その松蔭の教えの中に、基本思想、「尊皇・・」の至誠が非常に強かったのは言うでもない。

江戸期幕末、明治維新の先駆けになったのがの尊皇の志士達であり、彼等の筆頭にいたのが吉田松陰であった。 
松蔭の実家である杉家は、仏教を捨てて「神道」を信仰していた。 
合わせて長州藩・毛利家の始祖は、(相模の国の厚木の庄の出身で、おおもとは都の大江広元である)古代期より濃い天皇家の血が混じっているとされ(平城天皇以来・・?、)、歴代藩主は勤皇に励んできていた。


松蔭は武士(長州藩士)である。
従って、藩主や幕府に対する忠誠心は当然であったし。
だが、それ以上に皇室への忠誠心があった。 

松蔭や杉家は歴代毛利家に倣ったのは当然であり、「尊皇」は松蔭にとって、既に皮膚に染み付いているのである。 
自書の中に、「天下は天朝(朝廷)の天下にして即ち、天下の天下なり、幕府の私有にあらず」、として「神々が大八洲(日本列島)や山川草木、人民と天下の主なる皇祖・天照大神(アマテラスオオミカミ)をお生みになった。それ以来天皇が国土、自然、人民を保護してきたのである」としている。 

天皇と国民の絆(きずな)の「真の性質」は、(1)に「神話的血縁関係」、(2)に「道徳的紐帯(ちゅうたい)」それに(3)、「法的義務」としている。 
維新の推進役となった彼等尊皇の志士達には、松蔭の影響も有り、このような基本思想が有ったのである。 
やがてその中から明治維新で、尊王の志士達が活躍する人物が多く輩出するのである。


因みに、松蔭をめぐる主な人たちは・・、
松下村塾の弟子】 高杉晋作、久坂玄瑞(くさか げんずい、妻は吉田松陰の妹、尊皇攘夷派の中心人物)、吉田稔麿(よしだ としまろ、長州藩の活動家、久坂玄瑞、高杉晋作、そしてこの吉田稔麿を称して松陰門下の三秀という)入江杉蔵、金子重之助等など(以上、維新前活躍)・・、伊藤博文、品川弥二郎、野村和作、前原一誠等など(以上、維新後活躍)。

明倫館の弟子】 桂小五郎(木戸 孝允:きど たかよし、長州閥の巨頭、尊王攘夷派の中心人物で、薩摩の西郷隆盛、大久保利通とともに維新の三傑といわれる)、毛利敬親(もうりたかちか・長州藩・第14代藩主)、益田弾正(藩家老)。

松蔭の師】 玉木文之進(長州藩士・教育者・山鹿流の兵学者、松下村塾の創立者、吉田松陰の叔父に当たる)、佐久間象山(しょうざん・兵学者・思想家、松代三山の一人)、村田清風(後述)、


松蔭は、愛弟子の高杉晋作に・・、
『 人間というものは、生死を度外視して、何かを成し遂げる心構えこそ大切なのだ 』
と説いている。


「松下村塾」の南に位置して「伊藤博文旧宅」が建つ、木造茅葺き平屋建の小さなものである。 彼は7歳の時に、既に松下村塾に入門していた。
松陰は伊藤を・・
『 利助(博文)亦(又、また)進む、中々周旋家(仲介・口入れを業とする者、きもいり)になりそうな 』
と評していた。

彼・伊藤博文は尊皇攘夷の志士として活躍し、英国に留学して西洋列強の実力を体感し、開国・富国強兵論に転じ、武力倒幕運動に積極的に参加する。 
明治新政府においては、明治18年(1885)12月に初代内閣総理大臣の地位につき、大日本帝国憲法制定(明治憲法)に際し主導的役割を果たした。 
明治42年10月26日、極東問題で赴いた満州ハルビン駅にて暗殺された。 隣に東京より移築した「伊藤博文別邸」がある。


山裾北側に「護国山・東光寺」がある。
全国屈指の黄檗宗(おうばくしゅう)の寺院で、黄檗宗に帰依した三代藩主毛利吉就による創建で総門、三門、鐘楼、大雄宝殿はいずれも国の重要文化財に指定されており、名刹の面影を残している。

黄檗宗は、日本における仏教の宗派であり、臨済宗、曹洞宗に次ぐ禅宗の一つである。 
現在、臨済宗、曹洞宗が日本風に姿を変えた現在でも、黄檗宗は中国・明朝風様式を伝えている。
有名なのが「隠元」の開いた、総本山・京都府宇治市の黄檗山・萬福寺(おうばくさん まんぷくじ)である。
この寺院の圧巻は藩士が寄進した500余基の石灯籠が立ち並び、このほか殉難十一烈士墓、維新志士慰霊墓八基などが並ぶ。




以上、吉田松陰に関する著述は、過日の産経新聞連載・関 厚夫氏著筆の「吉田松陰・ひとすじの蛍火」を参照にしてます。 

吉田松陰に関する「関 厚夫」氏の著書

吉田松陰・ひとすじの蛍火 人とことば
http://www.bk1.jp/product/02912250 

http://www.bunshun.co.jp/book_db/6/60/58/9784166605859.shtml 

吉田松陰 魂をゆさぶる言葉
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4569704409.html 


次回は、「長州・毛利氏」



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2011年10月12日水曜日

日本周遊紀行(176) 萩 「吉田松陰」(5)

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日本周遊紀行(176) 萩 「吉田松陰」(5) ,




『 身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 
               留め置かまし 大和魂
 』  松蔭

松蔭は、萩の獄舎で囚われの身となっているが・・、
野山獄」は現在の北古萩町、萩城址とJR山陰線の東萩駅を結ぶ主要道路の中間地・本行寺付近に在って、今も「獄舎跡」として記念碑などとともに残されている。 

野山獄の向い側には、「岩倉獄」という獄舎もあって同様に獄舎跡があり、隣同士向かい合った二つの獄舎址を目にすることが出来るという。

野山獄・岩倉獄の発祥のいきさつは、江戸・天保年間初期、岩倉という藩士が隣家の藩士である野山宅に酔って押し入り、家族を刀で殺傷する事件が起こった。 
この事件で藩士・岩倉は死罪、一方、切り込まれた藩士・野山家も取潰しになってしまい、それ以降この両家の屋敷は萩藩の獄舎になったという。 
野山獄は上牢と呼ばれ、藩士、武士の身分の者が入獄する、一方、岩倉獄は下牢と呼ばれ、庶民が入獄するものとされていた。 


さて、松蔭とともに密航を計画し、行動をともにした「金子重輔」のことであるが、彼はこの岩倉獄で結核のため病死している、松蔭より1つ年下の享年25歳であった。

金子は松蔭と違って足軽の出であった。 そのため江戸伝馬町の獄でも、“ごろつき”などを主として収容する下級階層の牢獄にいた。 
環境はきわめて劣悪で、屈強な金子もさすがにこの環境には勝てず次第に心身が蝕まれ、労咳(結核)におちいった。 
しかも、江戸から萩への護送は冬の最中に行はれ、寒風の吹きすさぶ中、更に体調は悪化していった。 

松蔭は盛んに金子に気配りをしたが、獄舎の違いもあって充分にその意思は伝わらず、金子は岩倉獄の獄舎で静かに息を引きとったという。
金子は松蔭に、「もう私は永くなく、日本の行く末を見ることは適わんでしょう。だが、先生と渡海を決めた時から命は捨てておりました。今生きているのは“おまけ”のようなものです。後は一目、父母の顔さえ見れれば、全て良しとします。」 

松蔭は間際の金子に、釈迦の前世、現世、来世の教えを説いた。
現世は一瞬である、前世は一瞬の前の長い過去であり、来世は一瞬の後の長い未来である。 現世の永さなど、どれほどのものか・・!、この道理を理解せず、短い苦に耐えかねて永遠の喜びを失う者のいかに多いことか。 君は幸せなり・・!!」、これが師弟の最後の便りとなった。

獄吏のはからいで、金子は父母と「末期の再会」を果たす事ができ、体力の消耗は激しかったが意識は明瞭であったという。


幕末の安政年間、この時期、井伊直弼が大老に就任、開国思想を持つ大老は攘夷派に対して弾圧を始める。 
所謂、「安政の大獄」が進行してゆくのである。 

大老の懐刀・長野主膳は、松蔭の動きをつぶさに観察している。 
松陰は5年前、渡海(未遂)という、死罪に値する国禁違反をおかしたが、「実家で蟄居」という寛刑ですんでいる。 にも拘わらず過激な尊皇思想を説き、御政道に異見をさしはさんでいるとして「吉田松陰は悪謀の働き抜群」と直弼に報告している。 

そして、井伊政権は、「吉田松陰、更に御吟味の筋これあり」として、遂に吉田松陰の江戸召喚を決定した。


野山獄にいる松陰に、「江戸移送」の報を最初にもたらしたのは兄・杉梅太郎だった。 
この時、松蔭は「拙者このたび、江戸に移送されるとのことで、すでに覚悟を決めております。たとえ一命を捨てても国家のためになるのならば本望というもの。ただ、父上と母上には不孝の限りですが、」と、したため併せて、死を予知していた松蔭は臆することなく遺書を書き始め、それは翌日の暮れにまでおよんだという。


冒頭に・・、

『 身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 
              留め置かまし 大和魂
 』

の歌を置き、全編を「留魂録」と命名した。


安政6(1859)年5月14日、松陰を乗せた篭は萩・松本村の杉家を出立した。
萩城から南へ約5キロ、山道に1本の大きな松の木が立っていた。 

他国に向かう旅人はここで見えなくなる萩の景色と名残を惜しみ、帰国する人は長い旅の終わりを知る。 
いつしかこの木は「涙松」と呼ばれるようになったという。 

松陰を乗せた篭がその前を通りすぎようとしたとき、松陰は護送役に声をかけた。「これが萩の見納めじゃ。ちょっと外を見せてはくれまいか」 罪人用の駕籠であるが、護送官は承知して戸を開けた。 
「忝(かたじけ)ない、これで大安心」、そして萩の城下町が遠くなっていった。


6月25日、長州藩江戸藩邸に到着している。 直後から尋問がはじまる。
尋問中松蔭は、「私には死罪に値する罪が二つあります。死罪の一つは、藩主・毛利敬親に勤皇策を説こうとしたこと、もう一つは同志とともに京都に上り、朝廷を惑乱していたご老中・間部詮勝(あきかつ)を詰(なじ)ろうとしたこと」、

「しめた!」と尋問者たちは思惑を抱きながら、快哉(かいさい・痛快なこと)を心中で叫んだ。 
そして、「そちには国を思う真心がある。しかし、大官であるご老中を斬ろうとした。大胆にもほどがある、覚悟しろ・・、吟味中、伝馬町獄入りを申し付ける・・!」。

暫くして遂に松蔭に「」が下った。 
不届きにつき打首申し付ける・・!」。

安政6(1859)年10月27日、この日の正午ごろ吉田松陰は江戸・伝馬町獄の刑場で打ち首に処せられた。  
享年・若干満29歳であった。



松陰刑死」の報を聞いたとき高杉晋作は号泣し、「仇討ち」を誓った。 
その後、師・松陰と同じように「」(たけだけしさ)を発し続けてきた。

元治元年(1864年)、松陰が火をつけた尊皇攘夷の炎は、ここで最初の頂点に達しようとしていた。 
藩は、いくつかの小変を経て「幕府と対決してでも京都に上り、尊皇攘夷を実現すべし」という「暴発論」が長州藩の大勢をしめるようになっていった。 

京では新撰組が三条の池田屋を急襲し、「武装蜂起を決行しようとした」として斬り殺された尊皇派志士の中に、松陰のまな弟子、吉田稔麿や親友だった宮部鼎蔵がいた。 

この事件が引き金となり、長州藩は暴発する。 
翌7月、長州軍は三方から京に攻め上がったが、幕府、薩摩、会津の連合軍に撃退される。
所謂、「蛤御門の変」である。

この時から彼らは一つになり、特に晋作は、身分制度を打破した「奇兵隊」を創生し、旧体制に挑んだ。 
そしてその後、その推進力によって吉田松陰が夢見た新しい政治体制が確立され、「新しい日本」が誕生するのである。  

松陰の一生は、豊作だった


次回、「松蔭と松下村塾




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