google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 日本各地の美しい風土を巡ります。: 4月 2011

2011年4月30日土曜日

日本周遊紀行(123)深江 「唖然、深江の道の駅」

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『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真主体)
九州紀行」; http://orimasa2009.web.fc2.com/kyusyu.htm
九州紀行」; http://sky.geocities.jp/orimasa2010/




 日本周遊紀行(123)深江 「唖然、深江の道の駅」   、




ドーム内の原型のままの被災保存家屋




国道脇の「道の駅」に、火砕流で埋まった生々しい家々の痕跡が保存されている・・、

普賢岳と大火砕流跡を観察して深江町の道の駅で一服した。
水無川(火砕流痕)の袂、国道に沿って「道の駅;みずなし本陣ふかえ」があり、平成新山を一望できる比較的新しい「道の駅」で日本最大級の敷地を誇るという。(その理由は・・?) 

島原市から口之津に向かう国道251号線そばにある道の駅で、最近海岸側にバイパスができているが、旧道のそばにあり普賢岳の噴火で多大な被害を出した水無川に隣接してある。
ここからはその普賢岳が正面に見え、道の駅展望台には望遠鏡も備わっていた。 

この道の駅は通常の施設の他に特徴的なのが、被災家屋を現状保存する「土石流被災家屋保存公園」という一角(施設としては、こちらの方が遥かに広大)が在ることである。園内にはドーム状の建物があり、これは風化しないための処置だろうが大きなテントを設けてその中で保存展示しているのである。
そこには、被災家屋が3軒そのままの形で保存されている。その他にも屋外に8棟、合計11棟の被災家屋が保存されている。

それは、見るからにゾッとする光景で、全ての保存家屋が一階の屋根付近まで部屋の内外を問わず土砂にうもれている。 
屋根だけ残して土に埋もれた家々は余りに奇怪で、ある家は瓦葺の広めの日本式家屋で、渡り廊下の上まで大小の土砂、火山灰が流れ込んでいる。
一方では家の一階部分の台所は完全に土砂に埋まり、窓からなだれ込んだ土砂が玄関、居間、子供部屋、寝室と土砂で一杯なのである。 

これら土石流のものすごさを物語っていて、真に痛々しい限りである。
ここにはリアルに訴えて来るものがあり、その凄まじい光景にただ唖然・・!、火山の威力をこれほど雄弁に語るものはないだろう。

この保存家屋群は主に土石流によって起こった災害であり、云わば二次的災害とも言えるだろう。 
土石流とは谷に積もった石や土砂などが長雨などが大量に流出することいい、流れは数十トンもある大きな岩でさえ石ころのように押し流してしまうほど大きな破壊力をもち、日本各地でさまざまな被害をもたらしていることは知られている。

普賢岳では、火砕流で山腹に大量に積もった火山灰などが、梅雨の長雨や台風などが続き、何回も土石流が発生した結果、火砕流が届かなかった下流地域にまで及び民家や橋、道路、鉄道などを飲み込み押し流し、耕作地を土砂で埋めつくしたのである。 
普賢岳の山麓地域は元々、酪農や葉たばこの産地として知られていたが、土石流や火砕流で大きな被害をもたらしたのである。


保存家屋の前に大きな説明版があった。 
今回の被害の状況が詳しく写真付きで(上空写真)説明してあり、これを見る限り火砕流、土石流の被害範囲は太い幾筋もの線ではなく、広大な面となって被害が及んでいることが判る。

道の駅「みずなし本陣ふかえ」は雲仙・普賢岳噴火災害後に、島原地域再生計画の基ずき平成11年4月に開業したもので、普賢岳の噴火災害のすさまじさを後世に伝えるために、土石流によって被災した家屋が、そのまま保存されているこの地に造られたものであった。



道の駅を島原方面に少し行った右手に、広大な公園が在り、この一角に「雲仙岳災害記念館・がまだすドーム」というのが在った。ゆるやかにドーム状をなした、広―い建敷きの近代的建物である。 

がまだすドーム」という奇妙な名は、「がんばる」ドームという意味らしい!。
地元の言葉で「精を出せ」、「がんばろう」という意味だそうで、普賢岳の噴火で大災害を被ったところから復興に向けた合言葉だったそうである。
内部は、「大噴火シアター」の臨場感ある巨大なスクリーンや 被災した文物を集めて当時の町並みを再現した部屋、折れ曲がったバス停や自転車、最後まで陣取っていたマスコミのカメラや車両等々の災害遺品の展示。 


又、「島原大変シアター」は、江戸時代に起きた噴火の際に、島原が壊滅状態になったことに加え、山が崩れて海に流れ込みんだことから対岸の肥後(熊本)に大津波が押し寄せたことを「島原大変、肥後迷惑」(後述します)と言い、その時の様子、エピソードも紹介している。
隣の敷地には、当時の大火砕流で殉職した消防団員の顕彰碑文の立派な石碑が建っている。


刻文の内容は・・、 
『 碑文 1990年(平成2年)11月17日、雲仙・普賢岳が山頂から白煙を上げ、198年ぶりに噴火活動を開始した。始めの頃は、穏やかであった活動が、徐々に活発になり土石流や火砕流が発生したため、避難勧告が発令され、消防団員が昼夜を問わず、監視活動や住民の避難誘導に当っていた。 翌年6月3日、午後4時8分発生した、予想もしなかった大火砕流に飲み込まれ、監視活動に当っていた消防団員12名を含む43名の尊い人命が奪われるという大惨事となった。 我々消防団員は、同胞の団員が殉職したことに対し、悲痛な衝撃を受け、残された遺族のことを思うと心痛めるばかりである。 我々は殉職した消防団員の崇高な郷土愛と不屈の消防精神を消防人の鑑として受け継いでいかねばならないと改めて決意した。 殉職した団員に対しては、二階級特進がされ、国からは著しい功績が認められ死亡叙勲が授与された。 1996年(平成8年)6月、雲仙・普賢岳の噴火活動の終息を迎え、この功績を末永く顕彰し、安らかなご冥福をお祈りするとともに、後に続ずく消防人の心を奮い立たせるため、この慰霊碑を建立する。 なお、この慰霊碑は全国の消防関係等の皆様から寄せられた心温まる義捐金を浄財にさせて頂いた。 1999年(平成11年)11月17日 島原消防団長 下田信夫 』 とあった・・合掌礼拝・・!!。

碑石の直前には、当時救急、救助に活躍した装甲車とヘリコプターが保存展示されている。又、被災した消防車やパトカー、半鐘などが「農業研修所跡」に保存されているという。

大火砕流で被災死亡した人々は、消防団12人、警察官2人、住民6人、タクシー運転手4人、火山学者3人、報道関係者16人の43名が死亡・行方不明となった。 
尚、深江町での被害は死者・行方不明者・44名、建物の損壊・2,511棟、被害額・2,299億円



深江町(ふかえちょう)2006年3月31日、南高来郡加津佐町、口之津町、南有馬町、北有馬町、西有家町、有家町、布津町の八町と対等合併して市制を施行し、「南島原市」となった。
従って、島原半島は、雲仙市、島原市、そして南島原市の三市のみになった。(一部諫早市が含まれる)。

次回は、「島原




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2011年4月29日金曜日

日本周遊紀行(123)深江 「雲仙・普賢岳」

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『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真主体)
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 日本周遊紀行(123)深江 「雲仙・普賢岳」   、



  普賢岳と火砕流跡



雲仙・普賢岳は噴火で山様が一変し、新たに「平成新山」と名付けられた・・、

雲仙の新湯温泉に浸かり、身も心もさっぱりして雲仙高原を後にした。
下る途中、直に仁田峠へ向かう「仁田峠循環有料道路」というのがあり、厳(いかめしい)しい通用ゲートがあって聞くところ700円が通行料として必要らしい。

二度と来る機会が無いかもしれないので大枚を叩いて訪ねることにした。
さすがに良く整備された道路で、まさしく観光地の峠である。雲仙の真っ只中にあり、標高は1080mと半島の中にある峠にしては思ったより高い。
展望地は深江町と小浜町の境にあり、どうやら、急速に天候も回復したようで、島原半島から九州阿蘇方面までを一望できる。
正面に大迫力の普賢岳、反対側には島原湾方面の雄大な景色が堪能できる。

仁田峠の展望所にはロープウェイもあり、更に絶景を楽しむことができるようだが、さすがこちらは遠慮した。
有料道路を一回りして国道57から深江町方面へ下ってゆく、その後、島原から熊本へ向かう予定である。


ヘアーピンカーブが連続する急坂を慎重に下る。
途中、小さな園地があって「新観光100選の地」と記した石碑が建っていた。 下界は島原の沿岸から、熊本、阿蘇の山並みが遠望できる。下る合間にあの普賢岳の荒々しい姿が樹木の間から確認できるようになった。 

下るに従って雲仙山麓の東側の深江町からは、普賢岳(ふげんだけ)の全容が一望できるようになった、道路を選びながら当山と火砕流の跡が克明に見通せる場所を辿った。R57のやや上部、文字通り水の無い「水無川」沿いに車を止めた。


この「水無川」こそ、火砕流の本源・本拠地であった。
普賢岳の山頂付近は、溶岩ドームと言われるどす黒い岩肌が折り重なり、白い噴煙が今も吐き続けている。その下の所謂、富士山型の錐形には流れ皺(しわ)を造って赤茶けた山肌が異様であり、威容である。 

その麓から火砕流、土石流、泥流、地すべり等の様相で眉山、その他の山裾を削りながら流れ落ちている鮮やかな痕跡が今もハッキリ見て取れる。 
直下の小山で二方向に分かれた流れは、下部で再び合体して本来の水無川を乗り越え、大幅な流域を広げながら下部に達している。 

流域幅は、数百米もあろうか・・?、
今も延々とした堰堤、土留め工事が進行中のようである。 

流跡は上部では赤茶けた土砂に大石がゴロゴロ浮き出ているような荒涼たる風景で草木の緑は全く見受けられない。ただ下部堰堤付近では所々、短い草の青が確かめられ、多少の年月は感じられる。 


普賢岳は1990年11月に噴火、91年6月3日に大火砕流が発生、大災害となったのは記憶に残る。 
地質学上の調査では推測される現象でしかなかったと云われる火砕流が、現実のものになったのである。
当初発生した小規模であるが、現実の火砕流が発生したということ事態、衝撃的だったことから取材競争が過熱し、ここで世界で初めて鮮明な映像として記録された火山としても有名になった。 
そして、その後に発生した大規模な「大火砕流」に、取材陣や警備担当者が巻き込まれた関係者も多く、本当の衝撃的事故が発生したのである。



火砕流とは・・・。
一言で云うと、「高温のマグマの細かい破片が、気体と混合しながら流れ下る現象」。
普賢岳の溶岩は粘度が高く、溶岩流となって流れ落ちるかわりに火口付近に大きな溶岩ドームを形成する。
この巨大溶岩ドームが堪えきれずに崩壊する現象が火砕流である。 

火砕流は高熱の火山岩塊、火山灰、軽石などが高温の火山ガス、そして周囲の空気を取り込み反応爆発を繰り返しながら山の斜面を流れ下る現象で、流下速度は時速100kmを越えることもあるという。
また、極めて高温なため火山の噴火現象の中でももっとも危険なものの一つだという。

雲仙・普賢岳の最初の火砕流は、溶岩ドームが現れた平成3年5月20日から4日後に発生している。 
次の平成3年6月3日に発生した大火砕流は、巨大な黒煙を上げながら水無川に沿って猛スピードで流れ落ち、北上木場地区を飲み込んだ。
避難勧告地区内で警戒中の消防団員、警察官、取材中の報道関係者などが巻き込まれ、死者40人、行方不明3人という犠牲者を出した。

また、人家や農地、山林などを広範囲に焼き尽くした。
火砕流が非常な高温だったため、火砕流の本流に飲み込まれた人々は骨までも溶かされてしまったらしく、行方不明者は大半が遺体さえ見つけられないという珍しいケースとなった。


火砕流はその後も続き、6月8日には更に大規模な火砕流が発生、人的な被害はなかったものの火口から6km下流の国道57号付近まで到達し、207棟の家屋が焼失、倒壊した。
9月15日には普賢岳北東斜面で最大規模の火砕流が発生、「おしが谷」を下り先端は上木場地区に到り、白谷町まで達したという。

又、火砕流に伴う広範囲な熱風によって、深江町大野木場地区、島原市上木場地区で住宅・山林火災が発生し218棟が焼失、倒壊した。

その後も火砕流は頻繁に発生し、噴火活動が終息するまで実に9432回の火砕流が発生したという。一日最多の記録では平成6年8月25日の68回が数えられるという。
溶岩の総噴出量は2億4千万立方メートル、福岡ドームの135杯分、東京ドームの190杯分。島原市民は何時果てるともしれない火砕流の恐怖とともに生活が続けられた。



雲仙山系の主峰・普賢岳(1359m)が、山域上部から噴火活動を開始したのは平成2年11月17日頃であった。 
その後、断続的に噴火が起こり溶岩ドームを盛り上げ、新山を形成していった。後に「平成新山」と命名、こちらの方は旧山のそれより高く1489mもある。

現在、噴火活動はようやく収まり溶岩ドームも雄大な景観を持つ雲仙岳の一部となった。
今はまだ両者は別々の山体のように見えるが、やがて新山の方も雑木で覆われて、見る角度によっては双耳峰の様相を呈するようになるのではといわれる。


島原市は小浜町とともに、最初の溶岩ドームが出現して5年目を迎えた平成8年の5月20日に、このドーム部分を「平成新山」と名付け、長く続いた災害と新たな復興の記念としている。 

平成新山の標高は、平成7年6月の1488mをピークに、現在はやや縮小して1482.7m(国土地理院火山基本図より)であり、それでも普賢岳の1359mを抜いて雲仙山系の最高峰になっている。 
平成新山は火口から吹き出した溶岩が冷えて固まったもので、その容積は約1億立方メートル、実に東京ドーム84杯分と言われる熱い岩の固まりが出現したことになる。
噴火活動は終息したが、平成新山の内部はいまだに高温を保っているという。

次回は、火砕流の赤裸々な被害痕跡が保存されてる、深江町「道の駅」





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2011年4月28日木曜日

日本周遊紀行(122)雲仙 「雲仙地獄」

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 日本周遊紀行(122)雲仙 「雲仙地獄」   、



雲仙地獄
















雲仙温泉の新湯(共同湯)




雲仙には、雲仙地獄を挟んで古湯と新湯がある・・、

昨夜、雨の音を聞いたようだ・・!、 
目覚めて気がつくと、やはり小雨が降っている。 
自宅をスタートしてから10日以上になるが、雨の日を迎えたのは初めてであった。 
何となく水不足、雨を期待している四国、特に瀬戸内拠りのことを思い出した。 
久方ぶりのお湿りで結構なことなんだが、今日の行程は実は雲仙の山地へ向かうため余り有難くはなかった。 
雨模様なので慌てず、ゆっくり出かけることにした。


先ずは、いつものように朝湯、浴衣姿でのんびり朝食そしてテレビニュース。 
来年のサッカー・ワールドカップ・ドイツ大会に向けて、数日後に迫った日本チームの最終予選の情報等盛んに報じていた。 
いやはや実にのんびりで9時少々前の出発であり、体調も充分休んだせいか良好のようである。

宿舎のすぐ手前に、山上の雲仙から反対側山麓の島原方面へ抜ける国道51号線を走る。 
雨に濡れて一段と濃さを増した緑の壁を気持ち良く車は進む。 
フルタイムの四輪駆動車なので山道や濡れた路面、チョットの悪路は平気である。 

ヘアーピンカーブが連続する難路も快調に走りぬく、頼りがいのあるマイカーも出発して既に3500kmを越えていた。 気が付くと空模様も何時しか山中の雲が切れ掛かって明るさを取り戻しているようだ、このまま晴れてくれ・・!。
山歩きを長年経験してきた小生であり、山の天気にかけては敏感である・・、と自認しているが。 

一般に天気が下る時は高い方(山上の方)より、回復する時も高所より・・と山の頂上付近を観察する事により或る程度の予報が叶うと思っている。 
端的に言うと富士山の山頂の天気は、近畿地方の天気と同質であるといわれる。 自宅でも窓から見える丹沢山系の東端・大山の様子を見てて或る程度の予測できる。  

ここは標高700m前後の雲仙山系で、既に山腹から山上尾根に達しようとしていた。 
灰色の雲の動きも急がしそうで、その上に白雲がたなびいている、回復の兆しである。 

どうやら人家が見え始め別荘風の瀟洒な建物も見える。 
既に火山性の硫黄臭が漂う国道をそのまま進むと雲仙のメインタウン・温泉街へ来たようである。 華やかさ、派手さはないが、土産屋や旅館が雰囲気よく並んでいる。 

インフォメイション・センターで様子を伺いながら観光案内書を頂く、雨は上がったようであるがこの様子だと雲仙岳や標高1359m、あの普賢岳、妙見岳一帯の景観は残念ながら望めないだろう。



雲仙温泉には、古湯ゾーンと新湯ゾーンがあるらしい。 
又、温泉街を取り巻くように火山性噴煙の上がる地獄が有り、「地獄めぐり」が楽しめるという、その地獄を覗にいこう。 
新湯方面の最奥部、新湯ホテルの近くの駐車場に車を置く。朝早いせいか、広い置き場も小生の車のみであった。

この駐車場の奥が、地獄巡りの入り口でもあるようだ。
雨に濡れたドウダンツツジや、蓮華ツツジの林の間に石畳が敷かれて、歩き易く良く整備されている。 
進むと火山性のガスが燻って(くすぶって)荒涼とした岩肌が現れた、先ずは「邪見地獄」と銘打ってある。 見学路以外のところは進入防止、危険防止のため柵が施してある。 

続いて「大叫喚地獄」という大層な名前の地獄に来た、鋭い噴気音と共に高々と白煙をたちのぼらせ、風によって左右になびき、こちらに向かってくるときは咽(むせ)そうになる。 
灰色の熱湯地極池はゴボゴボと間歇的に吹き上がる、ここは雲仙で最も噴気活動が活発な地獄であろう。他にも数箇所の地獄があるが、展望地より周囲を眺めながら一旦戻ることにする。


次に古湯側から巡ってみよう・・、 
この辺りは国道を挟んで両サイドが地獄の様相を呈していた。 
すぐ横の「湯けむり橋」からは岩の間からシューシューと噴煙が立ち上る。 
その先には「清七地獄」というのが在った。江戸時代初期のキリシタン弾圧によって、キリシタン信仰の厚かった「清七」が、この雲仙の地において拷問されたときに噴出したといわれる地獄だという。 

この地は江戸期にキリスト教が禁止されていた時代、大叫喚地獄と合わせて異教徒の刑場として使われたところであり、キリシタン殉教の地でもあるという。 
「真知子岩」というのもあった・・、昭和29年、この年は雲仙が国立公園に指定されてから20年の記念の年であった。

当時、最大の話題でもあった映画「君の名は」のロケが雲仙であり、佐田啓二、岸恵子という美男美女が来雲して、この地で撮影があったらしく、これらを記念して命名されたらしい。 菊田一夫の小説・「君の名は」で大ヒットした映画で、我々往年の世代は昭和初期のラジオドラマで、放送が始まると銭湯が空になったという曰く付きの物語であった。岩には記念の石版が埋め込まれている。 

お糸地獄」は江戸時代、お糸という女性が不義密通をし、更に亭主殺したという事件が起こった。このドロドロした状態をなぞらえて命名したのだろう・・?、罰として、亭主殺しの「お糸は」こんな地獄に落されたのかも・・?。 
遊歩道の山肌には、品形良く「ミヤマキリシマ(雲仙ツツジ)」が枝を伸ばしていた。 本来なら今が花の見頃であるはずだが、噴気地獄で気温が高いせいか、既に赤紫の小振りな花は終わっていた。 



温泉街の北の外れ、左に向けると、「鴛鴦の池」(おしどりのいけ)とも呼ばれる静観の地があった。人っ子一人いない静寂の地、池は鏡面のように光っていて、周囲は靄(もや)が漂っている。 
鴛鴦の池と書いて何て読むのか、薄学の小生が疑問に思ったが「おしどり」の池と称するらしい。さすがに“おしどり”こそ見受けられないが、この湖畔に立ち静かに瞑想をするとき、先ほどまで地球の胎動、地獄の噴出しを真近に接したので、この「寂」とした自然の好対照さに驚きながらも安堵を覚えるのである。 まもなくやって来るだろうと思われる、湖水に浮かぶ「おしどり」に思いを馳せる。



この後は、初めに訪れた「新湯」の共同浴場で噴煙の垢を落そう。 
雲仙にある3か所の共同浴場の一つでもある。一見したところ民家のような建物で、湯番は常駐しているが、あらかじめ近くの小店で入浴券を買うシステムになっている、入浴料は100円で激安。 

素朴な石張りの浴室に長方形の湯船があり、白濁したお湯が満たされている。
地獄から引き湯したものだそうで、強い硫化水素臭が心地良い。源泉は噴気泉を直接利用しているらしく、ろ過して使用しているので肌ざわりが柔らかい。主に、地元の人々が利用しているらしいが、我々観光客も気軽に利用できる。



雲仙の歴史について・・、
雲仙山系は古くは「肥前国風土記」で「高来峰」(古来より現在まで、この地方を高来郡と称し、島原半島を南高来郡、諫早・大村地方は北高来郡である)と呼ばれていた山であり、温泉についての記述もある。雲仙は、元々はただ「温泉」と表記され「うんぜん」と読ませていたらしいが、国立公園指定の際に現在の表記に改められたという。 

奈良期(701年)に行基(奈良時代の高僧)が大乗院満明寺を開いたことが伝えられている。この満明寺の号が「温泉(うんぜん)山」であることからも、以後、温泉(うんぜん)つまり雲仙は、霊山として山岳信仰(修験道)でも多いに栄えたところでもある。 

又、行基は同時に四面宮(現、温泉の主神・雲仙神社)を開いたといわれている。 祭神は、「古事記」によれば筑紫島(九州)の神をあらわす「一身四面」の神だという。この神社は上古(大和朝廷から奈良期)には温泉神社、中古(平安期)には四面宮と称されていたが、1869年(明治2年)の神社改正により筑紫国魂神社と改称され、1915年(大正4年)の県社昇格に際して温泉神社に戻したという。

四面宮(しめんぐう)とは、 地元民より「お四面様、お四面さん」と呼ばれて親しまれている。 四面宮と称したのは、日別命(ヒワケノミコト)と言われる一つの神体に、其々四つの神の面をもつことから言われる。

古事記には、島々の生成説話に伊耶那岐命、伊耶那美命の国生み譚があり、これによると淡路島、四国、隠岐の島の次に「九州島」を生んだとある。
つまり「面四つ」あるとし、筑紫を白日別、豊の国を豐日別、肥の国を建日向日豊土比泥別、熊曾の国を建日別と言うとある。
日別命は、筑紫の国魂であるとされる由縁である。 又、日別命というのは出雲系の神々であり、大国主に関係が有ると言われる。大国主の誕生地は有明海に臨む島原半島、雲仙岳の麓であると言う説もあるらしい・・?。

菩薩と言われる「行基」が満明寺を開いた後、同地に出雲の神に遭遇したことから、畏れながら「四面宮」を造営したともいわれる。 
島原半島の中には出雲系の大国主神を祀る「諫早神社」(四面宮の勧請といわれる)をはじめ、10数の分社があるという。 
邪推であるが、雲仙より出し大国主が、「出雲」と命名して国を拓いたというのは、何か共通性を感ずるが・・?、尤も、出雲を開いたのは大国主の父神であるスサノウであるが・・!。
 

その温泉神社は雲仙温泉郷のまっただ中、隣は噴気の沸き出している地獄巡りの散歩道があるところに鎮座してる。 
此れより少し離れたところに摂社・木花開耶姫神社( コノハナサクヤヒメ:天孫・ニニギの妻)が座している。 当社には男女の巨大なシンボルが鎮座しているといい。この社は元禄の頃より祀られたもので向かって右に女陰、左に男根があって思わずギョッとさせられるという。

男は挙(こぞ)って自分の持ち物が大きく、太く、逞しくあるように祈り、また女性は「あなオソロシ」とため息をつきながら祈る、そうするとご利益が有るとされる。 
この男根女陰崇拝の風習は長く伝えらてきて、参拝者は家内安全、男女和合、子宝また良縁の神として拝むべしと記されている。


国道を隔てた向かい側に古刹「満明寺」がある。
勅許を受けて僧・行基は「大乗院満明寺」を開基し、四面宮(温泉神社)をあわせて祀り山号を「温泉山」としたとされている。
高僧・行基は宝平元年(749年)、雲仙の地で入寂(寂滅に入ること、僧の死をいう)したと伝えられている。 

満明寺は一時、比叡山、高野山とともに天下の三山と云われ、千人の僧を集め、雲仙一帯を霊場として世の崇敬を集めていたともいわれる。 
寛永14年(1637) 島原の乱では、僧の中にも一揆に加わるものが出たため、島原藩主・松倉重政によって滅ぼされたという。「地獄」はキリシタンの弾圧の舞台にもなり、多くの命が失われたのもこの地、この頃だと云われてる。


実際、雲仙温泉の事始は1653年(承応2年)に加藤善右衛門が開湯したとされ、民衆の共同湯として初めて「延暦の湯」を起こしたと石碑にはある。 
雲仙は水蒸気が噴出して硫黄の臭いがたちこめる光景が地獄と形容され、昭和2年頃、日本新八景山岳の部で1位になり、昭和9年には我が国で最初の国立公園に指定された。 

天然記念物の群落である地獄一帯のシロドウダン群落、池の原のミヤマキリシマ群落ウンゼンツツジ)や野岳のイヌツゲ群落と活火山特有の植物など、まるで自然の大図鑑である。 

又、明治以降、ヨーロッパや上海の長崎に住む外国人の避暑地としても賑わった歴史も有る。 の雲仙はピンク色のミヤマキリシマに埋め尽くされ、夏は当たり一面緑の息吹、秋は燃えるような鮮やかな紅葉が山肌を染め、冬は真っ白の世界に輝き、太陽に映えまる。


雲仙は、四季それそれの日本の自然の美しさを楽しませてくれる パノラマスクリーンであり、 又、どの季節も心地好い温泉に浸りながら、存分にリラックスできる世界でもある。

次回は平成の新山「雲仙・普賢岳




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2011年4月27日水曜日

日本周遊紀行(121)小浜 「小浜温泉」




『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真主体)
九州紀行」; http://orimasa2009.web.fc2.com/kyusyu.htm
九州紀行」; http://sky.geocities.jp/orimasa2010/




 日本周遊紀行(121)小浜 「小浜温泉」   、



湯煙がただよう「小浜温泉」の街並



海岸に沿った街中から、100度の源泉が湧く肥前・小浜温泉・・、

千々石町は国見町、瑞穂町、吾妻町、愛野町、小浜町、南串山町の同程度の7町域が大同合体の構成組織となり、平成17年10月11日に「雲仙市」となった。

一走りで小浜の温泉地へ着いたようである、珍しく海岸に湧く温泉地である。
海岸沿いに国道がほぼ直線に走り、海辺に良く整備された公園が細長く道路と平行している、その右はもう波打ち際の海岸線である。 


小浜温泉は、街のいたるところに白煙(水蒸気)が上がっている。 
近付いて視ると民家の(小規模な旅館・・?)すぐ前に、コンクリートとブロックを二階の窓くらいの高さまで造り上げた四角いタワーが在り、そこからモウモウと蒸気が漏れて吹き上がっている。(タワーは温泉水と蒸気を分離する施設)上部から耐熱用の赤い塩ビ管が数本、取り出し用に設置してあり、地中に潜っている。

下には湯溜りが有って、そこには「タマゴ、湯とおしはご自由に、どうぞ・・」とある。 

この小浜には源泉が20数ヵ所確認されているといい、ここはその中の一つであろう。 
商店街の通りから一つ入った小さな路地であるが、水蒸気をあげた源泉のすさまじさに圧倒される。 小浜温泉街は「源泉巡り」の散歩も楽しみの一つかもしれない。


この温泉町には、所謂、高級・大規模のホテルや旅館はあまり見当たらず、観光地化されてない比較的庶民的な温泉、湯治場風の面影を残しているようである。 

源泉温度100度、一日の湧出量15,000トン、泉質はナトリウム含有泉。神経系疾患、婦人病、リウマチ、胃腸病、呼吸器病などに効果があるという。 

昭和37年には既に国民保養温泉地に指定されていて、雲仙温泉の指定範囲拡大の際に小浜温泉も同時に指定されたという。 
尤も、島原半島そのものが、雲仙火山群(昨今では普賢岳の大爆発が記憶に新らしい、後記)で形成されたもので、大活火山の島なのであるから。


町中をゆっくり周遊して、お目当ての共同浴場へ向かう。 
海岸沿いの町営「浜の湯」を訪ねてみた。

自動販売機で150円の入湯券を購入広い浴室内へ、夕刻で適当な時間帯のせいか結構な人数が湯浴みを楽しんでいる。 
浴室はかなり広く、浴槽は二つがつながっている。
左側が「ぬるめの湯」、右側が「あつめの湯」と表示され、源泉の流入口の脇にそれぞれ水道の蛇口があって、水で薄めて浴槽の温度調節をしているようである。
何しろ源泉温度が100度では水で薄めざるをえない。 
小生は、ぬるめの湯のほうが常に適温である、舐めるとやや塩っぱいのは海に近いせいかもしれない、無色透明で無臭のようである。



雲仙岳山麓の橘湾に面した海岸に湧出する小浜海浜温泉の歴史は「肥前風土記」(713年)にも記されているほど古く、既に、江戸時代には湯治場として利用されるようになったと言われている。 
大正12年から昭和13年までは鉄道が開通(小浜鉄道は、1932年に廃線)、多くの観光客がこの地を訪れ、山上の雲仙温泉街までの道路(現、国道57号線)が整備されてきたのもこの時代。

全国の温泉の中でも湧き出す温度が高く源泉も数多い。 
昔は海辺の砂浜を掘ると温泉が湧き出たというが、 かの長崎居留のシーボルトは、著書「ニッポン」の中で、「温泉嶽の麓、島原の西海岸に接して病を癒す効力ありとして名なる温泉あり。その近くなる漁村の名を取りて小浜という。ここは満潮時には海水来り、被うを特異とす。ひびきも立てず沸き立つこともなく、岩の底より湧くを浴場に導き来るなり。温度はおよそ華氏の90度にして色は清く泉水の如く透明なり」と記している。
長崎大学医学部にいた歌人・斉藤茂吉は、この地で湯楽・愉楽しながら橘湾に沈む夕日の美しい風景を詠んでいる。
   
『 ここに来て 落日を見るを 常とせり 
           海の落日も 忘れざるべし 
』 茂吉



海岸国道を更に行った小浜の中心街から、やや外れの海沿いに今夜の目的地・国民宿舎「望洋荘」があった。 
部屋から眺める夕日が素晴らしい! 

風呂は、大浴場、穴風呂(単なるトンネル?)、ジェットバス、うたせ湯、露天風呂等があり賑やかである。 
一通りの湯浴みをし、食事は勿論海鮮料理を主体とした「御造り」で、お酒と一緒に美味しく頂きました。

気が付かなかったが温泉街中の海辺に、「波の湯・茜」という新しく出来た町営の温泉場があり、海上露天風呂も在って料金300円で入れるらしい。

次回、今度は雲上の温泉・「雲仙




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2011年4月24日日曜日

日本周遊紀行(120)諫早 「干拓事業」

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『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真主体)
九州紀行」; http://orimasa2009.web.fc2.com/kyusyu.htm
九州紀行」; http://sky.geocities.jp/orimasa2010/
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 日本周遊紀行(120)諫早 「干拓事業」 



諫早干拓の潮受堤防(左が内浦、右が外浦)と可動式水門



諫早干拓の堤防はやはり巨大だった
、しかし、・・、

眼鏡橋から一旦出島まで戻って、付近の市立病院横に入口がある「出島長崎道」で一路諫早に向かう。 諫早は県の中央部というか・・?、
市域は逆T形の中心に位置し、西側に長崎半島、南側は島原半島それに北側は大村半島・・?のそれぞれ三半島の付け根にあたる。

又、西側に大村湾、東側に有明海(諫早湾)そして南側には橘湾の、何と海域も三つの海に囲まれている。
これはもう、地形的には相当珍しい部類に入るだろう。


そして諫早と言ったら、やはり有明・諫早湾の干拓で、この事業で物議を提供している所でもある。
あの水門が、ギロチンの様に端から閉じられる映像は衝撃的だった・・!」


諫早湾の状態やギロチン水門を見ようと思い、地図を見ながら行ったがなかなか海岸線にはたどり着けない。
国道から海岸線までは遠く、勿論、過去に干拓された広大な農地が広がっているためで、それに海岸・・?へ行くための道は余り整備されていないようだ、場所が違ったかな・・?。 

近所の人に伺うと「この先、車じゃ行けないし、行っても、それからかなりあり堤防は見えないよ、堤防見るにゃ湾の向こう側、国道251を行くだよ」と言う。

言われるままその国道を行く。半島先端の島原へ通じている島原鉄道が並行して走っている。吾妻町の平江地区まで来て、コンビニで堰堤の様子を聞くと・・、
「踏み切り渡って、真直ぐ行くと直ぐだよ」
「車で行けますか・・?」
「車ですって。 堰堤には立派な道路が付いていて、向こう岸の高来町まで行けるようになりますよ」


言われた踏み切りを渡ると真ッ直線に延びた堤防があった。
上部には立派な道路も取り付けられている。入口部には工事用のバリケードが置いてあったが、何とか通れそうなので進めてみた、途中水門近くに大きな駐車場があり、ここまでは進入できたが、水門から先は未だ工事中なのか、完全に通行止めであった。(2007年12月に全面開通)


この堰堤道路は全長7km、この道路は農産物輸送の合理化、新たな観光ルートの開発、地域間交流の促進を目的に潮受堤防を一般交通として利用するもので、島原半島一帯と多良岳山麓一帯を連絡するものであるという。

しかし、ここでは道路の話ではなく、堤防と干拓のことであ。
両海面を見ると明らかにその差異が判る、外洋は普通の青く澄んだ海であるが、閉ざされた内海は灰色に澱んでいた。これらの海水はやがて干拓され広大な新規の土地が出現するのだろう・・?。

堰堤工事は1989年より「国営諫早湾干拓事業」として行われ、1997年に潮受け堤防が完全に閉じられた、例のギロチン閉門である。 
干拓計画では、農用地面積は約816ha(東京ドーム200個分)、作農種は露地野菜、施設野菜、花木、酪農、肉用牛など(やはり米は含まれないようだ)、他に調整池が約2,600ha で事業費は凡そ2,500億円といわれる。

水門が閉鎖されたその後、かつては「宝の海」と言われた有明海は海底への泥の沈殿、水質汚染が生じて有明海全体が死の海と化し、二枚貝タイラギが死滅、奇形魚の増加、海苔の色落ちなど重大な漁業被害が発生したとして、自然保護団体のみならず沿岸の各漁協の猛反対にあっている。

しかし魚類の漁獲減少や水質汚濁には、海苔養殖業者が消毒目的に散布した酸や化学肥料による影響との主張もあり、海苔養殖業者と他の漁業者との紛争も発生しているという。
克っての海だったところで干上がった地面には、海の生物の腐った匂い、白いフジツボの死骸、放置されて漁船、養殖用の朽ちた立杭、地面は干からびて、ひびが走っていた。 



有明湾干拓について・
・、
干拓の目的は防災と優良農地の造成なのだそうだが、防災は高潮などに伴う低地の浸水を防ぐこと、農地については長崎県は三方を海に囲まれ、まとまった平野がないため水田・畑作のための農地不足の解消が長年の課題であった。 

諫早の干拓事業の歴史古く、江戸時代や明治~昭和期には既に行われていて今は農業用地、住宅等に既に利用されている。 
最も古い干拓は、推古天皇の頃(593~629年)に開かれたともいわれている。 

平成の干拓は国の公共事業の一つで非常に大規模なものであり、「潮受堤防」は全長が約7キロもあるという。 
同湾の堤防が閉め切られてから9年(1997年)となるが、閉め切り当初は沿岸から堤防までの海域は6 ,7kmあったが、現時点では1km前後と干潟が発達してきているという。

有明海・諫早湾の潮の干満変動差は日本でも有数で、最大約6m(我が国最大といわれる)もあるという。
因みに、東京湾では2m程度しかない。
このため、諫早湾は日本においても独特な海域であり美しい自然と海の幸を提供してきた反面、この干満の大きさと遠浅な地形のために湾奥部では有明海から運ばれる土・粒子が堆積しやすく、干潟が発達しやすい。 

干潮時には海岸線から5~7kmの沖合にまで干潟となって露出し、干潟は多いところでは年に約5cm、平均でも数cm成長するという。

因みに、「干拓」と「埋立て」の違いは新たに土を持ってくるか、来ないかにあるとされる。

干拓は字の如く新たな土壌を持ってくるのではなく、海底土を乾かして耕土にする、そのため海水の塩分を多く含んでおり除塩の為の土壌改良が必要になる。 
一時騒がれた海苔の不作、有明海の環境変化など、この干拓事業との因果関係については様々な説が飛び交い、一時期、工事停止の司法判断でも「関係がないとは言い切れない」ということで、誰も、はっきりとした事は判らないといわれる。
平成の諫早干拓は、まだまだ物議が出そうである・・!。



諫早干拓の地、堤防を後にして国道57号(国道251と一部併用)まで戻り、今夜の泊まり小浜温泉へ向かう。
国道57号は、長崎市から大分県大分市へ至る一般国道で、島原半島の雲仙山域から島原市へ到り、熊本県宇城市三角町までは有明・島原湾の海上ルートを通っている。 
小生が辿る予定の小浜から、明日の熊本方面への予定のコースでもある。

愛野町の橘湾の海岸近くから251号線がY字路になって合流し、このまま小浜方面へ向かう。

気が付くとこの辺りは霧島半島(島原半島)の付け根にあたり、この国道(R251・島原街道)は半島をグルッと一周りして、又この地へ戻っているのである。 久しぶりに、奇麗な砂浜の千々石海岸を見た。
今朝から、激しい入り江や出島の入り組んだ海辺や高低差のある断崖の所謂、リアス形の海岸を見慣れてきただけに、小波が寄せる、輝く白砂の海岸は気持ちが広やかになる。


千々石と書いて「チチイシ」と読むと思ったが実は「チジワ」と読むらしい、難解である。 
海岸から一時、内陸、山間へ向かうようである。ここから望む霧島山系の高峰が美しい。 
気がつくと霧島の火山岩であろうか石を積み上げ、垣を造り上げ、きれいに整備された棚田群である。 
田圃の畦や段差は今ではすぐにコンクリートで固めてしまうのが普通であろうが、こちらではほぼ同じ大きさの石を積み上げることで土地を上手に使っているのが分かる。 
一望すると民家の周りはほとんど棚田の田圃で、かなり高方まで山の端をかけあがているのが判る。 

棚田の田圃は緑の稲波が風にそよいでいる、一部畑もあるようだが。
清流にも恵まれた「棚田」では、山あいの昼夜の気温差が大きく、美味な米が収穫されるという、特に千々石町の「棚田米」は県内でも高い評価を得ているという。 

また、「じゃが芋」は北海道に次いで全国第2位の生産量を誇る。長崎県では「ばれいしょ」と称しているらしいが、ここ千々石町においても春と秋の二期作を基本として育成に取り組み、ほぼ一年中おいしい「ばれいしょ」を提供できるという。


千々石の棚田は水田枚数約6500枚、傾斜度は20度から40度、大体180年の歴史が有るという。「日本の棚田百選」に認定され、岳地区の棚田、清水の棚田とある。

棚田は食料を生産する場としてだけではなく、山から流れ込む水を蓄え、ダムの代わりをなし土砂崩壊防止も果たしている。 
同時に山の斜面や丘陵地に段々と折り重なり、側溝からは、せせらぎを見聞きすること出来、四季折々の風物を見せてくれる。 
棚田の美しさは、心にやすらぎを与えてくれる日本人の原風景でもあろう。

次回は、「小浜温泉


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諫早干拓の潮受堤防(左が内浦、右が外浦)と可動式水門



諫早干拓の堤防はやはり巨大だった
、しかし、・・、

眼鏡橋から一旦出島まで戻って、付近の市立病院横に入口がある「出島長崎道」で一路諫早に向かう。 諫早は県の中央部というか・・?、
市域は逆T形の中心に位置し、西側に長崎半島、南側は島原半島それに北側は大村半島・・?のそれぞれ三半島の付け根にあたる。

又、西側に大村湾、東側に有明海(諫早湾)そして南側には橘湾の、何と海域も三つの海に囲まれている。
これはもう、地形的には相当珍しい部類に入るだろう。


そして諫早と言ったら、やはり有明・諫早湾の干拓で、この事業で物議を提供している所でもある。
あの水門が、ギロチンの様に端から閉じられる映像は衝撃的だった・・!」


諫早湾の状態やギロチン水門を見ようと思い、地図を見ながら行ったがなかなか海岸線にはたどり着けない。
国道から海岸線までは遠く、勿論、過去に干拓された広大な農地が広がっているためで、それに海岸・・?へ行くための道は余り整備されていないようだ、場所が違ったかな・・?。 

近所の人に伺うと「この先、車じゃ行けないし、行っても、それからかなりあり堤防は見えないよ、堤防見るにゃ湾の向こう側、国道251を行くだよ」と言う。

言われるままその国道を行く。半島先端の島原へ通じている島原鉄道が並行して走っている。吾妻町の平江地区まで来て、コンビニで堰堤の様子を聞くと・・、
「踏み切り渡って、真直ぐ行くと直ぐだよ」
「車で行けますか・・?」
「車ですって。 堰堤には立派な道路が付いていて、向こう岸の高来町まで行けるようになりますよ」


言われた踏み切りを渡ると真ッ直線に延びた堤防があった。
上部には立派な道路も取り付けられている。入口部には工事用のバリケードが置いてあったが、何とか通れそうなので進めてみた、途中水門近くに大きな駐車場があり、ここまでは進入できたが、水門から先は未だ工事中なのか、完全に通行止めであった。(2007年12月に全面開通)


この堰堤道路は全長7km、この道路は農産物輸送の合理化、新たな観光ルートの開発、地域間交流の促進を目的に潮受堤防を一般交通として利用するもので、島原半島一帯と多良岳山麓一帯を連絡するものであるという。

しかし、ここでは道路の話ではなく、堤防と干拓のことであ。
両海面を見ると明らかにその差異が判る、外洋は普通の青く澄んだ海であるが、閉ざされた内海は灰色に澱んでいた。これらの海水はやがて干拓され広大な新規の土地が出現するのだろう・・?。

堰堤工事は1989年より「国営諫早湾干拓事業」として行われ、1997年に潮受け堤防が完全に閉じられた、例のギロチン閉門である。 
干拓計画では、農用地面積は約816ha(東京ドーム200個分)、作農種は露地野菜、施設野菜、花木、酪農、肉用牛など(やはり米は含まれないようだ)、他に調整池が約2,600ha で事業費は凡そ2,500億円といわれる。

水門が閉鎖されたその後、かつては「宝の海」と言われた有明海は海底への泥の沈殿、水質汚染が生じて有明海全体が死の海と化し、二枚貝タイラギが死滅、奇形魚の増加、海苔の色落ちなど重大な漁業被害が発生したとして、自然保護団体のみならず沿岸の各漁協の猛反対にあっている。

しかし魚類の漁獲減少や水質汚濁には、海苔養殖業者が消毒目的に散布した酸や化学肥料による影響との主張もあり、海苔養殖業者と他の漁業者との紛争も発生しているという。
克っての海だったところで干上がった地面には、海の生物の腐った匂い、白いフジツボの死骸、放置されて漁船、養殖用の朽ちた立杭、地面は干からびて、ひびが走っていた。 



有明湾干拓について・
・、
干拓の目的は防災と優良農地の造成なのだそうだが、防災は高潮などに伴う低地の浸水を防ぐこと、農地については長崎県は三方を海に囲まれ、まとまった平野がないため水田・畑作のための農地不足の解消が長年の課題であった。 

諫早の干拓事業の歴史古く、江戸時代や明治~昭和期には既に行われていて今は農業用地、住宅等に既に利用されている。 
最も古い干拓は、推古天皇の頃(593~629年)に開かれたともいわれている。 

平成の干拓は国の公共事業の一つで非常に大規模なものであり、「潮受堤防」は全長が約7キロもあるという。 
同湾の堤防が閉め切られてから9年(1997年)となるが、閉め切り当初は沿岸から堤防までの海域は6 ,7kmあったが、現時点では1km前後と干潟が発達してきているという。

有明海・諫早湾の潮の干満変動差は日本でも有数で、最大約6m(我が国最大といわれる)もあるという。
因みに、東京湾では2m程度しかない。
このため、諫早湾は日本においても独特な海域であり美しい自然と海の幸を提供してきた反面、この干満の大きさと遠浅な地形のために湾奥部では有明海から運ばれる土・粒子が堆積しやすく、干潟が発達しやすい。 

干潮時には海岸線から5~7kmの沖合にまで干潟となって露出し、干潟は多いところでは年に約5cm、平均でも数cm成長するという。

因みに、「干拓」と「埋立て」の違いは新たに土を持ってくるか、来ないかにあるとされる。

干拓は字の如く新たな土壌を持ってくるのではなく、海底土を乾かして耕土にする、そのため海水の塩分を多く含んでおり除塩の為の土壌改良が必要になる。 
一時騒がれた海苔の不作、有明海の環境変化など、この干拓事業との因果関係については様々な説が飛び交い、一時期、工事停止の司法判断でも「関係がないとは言い切れない」ということで、誰も、はっきりとした事は判らないといわれる。
平成の諫早干拓は、まだまだ物議が出そうである・・!。



諫早干拓の地、堤防を後にして国道57号(国道251と一部併用)まで戻り、今夜の泊まり小浜温泉へ向かう。
国道57号は、長崎市から大分県大分市へ至る一般国道で、島原半島の雲仙山域から島原市へ到り、熊本県宇城市三角町までは有明・島原湾の海上ルートを通っている。 
小生が辿る予定の小浜から、明日の熊本方面への予定のコースでもある。

愛野町の橘湾の海岸近くから251号線がY字路になって合流し、このまま小浜方面へ向かう。

気が付くとこの辺りは霧島半島(島原半島)の付け根にあたり、この国道(R251・島原街道)は半島をグルッと一周りして、又この地へ戻っているのである。 久しぶりに、奇麗な砂浜の千々石海岸を見た。
今朝から、激しい入り江や出島の入り組んだ海辺や高低差のある断崖の所謂、リアス形の海岸を見慣れてきただけに、小波が寄せる、輝く白砂の海岸は気持ちが広やかになる。


千々石と書いて「チチイシ」と読むと思ったが実は「チジワ」と読むらしい、難解である。 
海岸から一時、内陸、山間へ向かうようである。ここから望む霧島山系の高峰が美しい。 
気がつくと霧島の火山岩であろうか石を積み上げ、垣を造り上げ、きれいに整備された棚田群である。 
田圃の畦や段差は今ではすぐにコンクリートで固めてしまうのが普通であろうが、こちらではほぼ同じ大きさの石を積み上げることで土地を上手に使っているのが分かる。 
一望すると民家の周りはほとんど棚田の田圃で、かなり高方まで山の端をかけあがているのが判る。 

棚田の田圃は緑の稲波が風にそよいでいる、一部畑もあるようだが。
清流にも恵まれた「棚田」では、山あいの昼夜の気温差が大きく、美味な米が収穫されるという、特に千々石町の「棚田米」は県内でも高い評価を得ているという。 

また、「じゃが芋」は北海道に次いで全国第2位の生産量を誇る。長崎県では「ばれいしょ」と称しているらしいが、ここ千々石町においても春と秋の二期作を基本として育成に取り組み、ほぼ一年中おいしい「ばれいしょ」を提供できるという。


千々石の棚田は水田枚数約6500枚、傾斜度は20度から40度、大体180年の歴史が有るという。「日本の棚田百選」に認定され、岳地区の棚田、清水の棚田とある。

棚田は食料を生産する場としてだけではなく、山から流れ込む水を蓄え、ダムの代わりをなし土砂崩壊防止も果たしている。 
同時に山の斜面や丘陵地に段々と折り重なり、側溝からは、せせらぎを見聞きすること出来、四季折々の風物を見せてくれる。 
棚田の美しさは、心にやすらぎを与えてくれる日本人の原風景でもあろう。

次回は、「小浜温泉


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2011年4月20日水曜日

日本周遊紀行(119)長崎 「石橋(眼鏡橋)と寺院群」

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『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真主体)
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 日本周遊紀行(119)長崎 「石橋(眼鏡橋)と寺院群」   、



  眼鏡橋



 長崎名所「眼鏡橋」(下部「袋橋」から望む)と磁器版の案内図




眼鏡橋をはじめ各石橋は、寺町の各寺院に直結していた・・、

先ず、長崎中華街へ・・、
出島の直ぐ隣に新地・長崎中華街がある。横浜中華街、神戸南京町とともに日本三大中華街と称される。 
江戸時代の鎖国下でも長崎はオランダの他、対中貿易港としても認められていて、最盛時には約1万人の福建省出身者を中心とした中国人が長崎市中に住居していた。
の人口は7万人であったから、いかに華僑(かきょう・外地に住みながら、中国の国籍を持つ漢民族)が多かったかが判る。

中国人の住居は丘陵地の唐人屋敷に限定されたが、1698年の大火のため焼失、唐人屋敷前面の海を埋め立てて倉庫区域を造成した。
そして在住中国人は海岸に近い新地に移り住むようになった、これが長崎新地中華街の起源という。

近代になって福建省福州市の協力によって石畳が敷かれ、中華料理店や中国雑貨店など約40軒が軒を連ねる中華街となり、四方には中華門も立てられた。
長崎は中国色が濃いのは中華街だけに限らず、長崎の町には長崎くんち、精霊流し、ペーロンなど中国色の強い祭りが行われ、孔子廟や崇福寺(寺町にある長崎唐風三福寺の一つ)のような唐寺も多いのである。


出島が面する「中島川」の、その上流に長崎名物「眼鏡橋」が在る。
出島から、長崎軌道(市電)に沿って中島川を上流方向へ、「賑橋」まで車を進めてみた。



その前に・・、
中島川の東側の風頭山山麓に寺町通りと称して、十幾つの立派な寺院がほぼ横一列に並んで建っている。
中でも中国唐風の黄檗宗(臨済宗、曹洞宗に次ぐ禅宗の一つで明朝風様式を伝えている。
大本山は、京都府宇治市の黄檗山・萬福寺)の寺院で興福寺、崇福寺、福済寺という異色あふれる壮大な寺院は「長崎三福寺」ともいわている。 

寺院建設には訳が有って、幕府によるキリシタン弾圧のための策略があったといわれる。
鎖国令が発布される少し前、キリスト教禁止令を出した幕府は、それまであった11のキリスト教の教会・寺院をことごとく取り壊し、変わりに仏教寺院を建てまくったといわれる。
(明治期における廃仏毀釈に類似する・・?)
長崎の仏教は、幕府から手厚い保護を受けてきたようで日蓮宗をはじめ浄土宗の寺など、それぞれに堂々とした門構えで建っている。


序ながら、この寺院群の奥まったところ、深崇寺という寺の横の斜面(「竜馬通り」の名が付く)に沿った場所に、坂本龍馬の「亀山社中」の跡にたどり着く。

慶応元年、龍馬は浪士たちを集めて船舶貿易の社中(結社、会社)を結成する。これは日本最初の商社、兼、私設海軍で、後の海援隊である。亀山というのは、その山の一角の名前なのだろう。(竜馬については、土佐の高知に詳細あり・・、)

又、長崎の寺町通りの入り口辺りが歌でも有名になった「思案橋」があり、路面電車に思案橋という駅もある。 
江戸の吉原、京の島原とともに、日本三大遊郭(三場所)の一つとして知られている長崎の「丸山」はこの辺りである。 

丸山には主に長崎の町民や上方の商人が多く出入りしていたらしいが、特に丸山の遊女は唐人屋敷やオランダ出島への出入りが許され、異国人との交流があったともいう。 

思案橋」の名は、“行こうか戻ろか”と思案しながら思案橋を渡り、男達は遊郭の入口「二重門」が見える場所にあった「思切橋」で立ち止まり、この橋の欄干に刻まれてある“思切”の文字で迷いを打ち消し、決意を固めこの橋を渡り二重門を潜ったという。 
思案橋と思切橋がバランスをとって架かっているのがまた洒落ていて、良い・・?。



さて、長崎の主な町人の街は今の賑町、栄町、魚町、桜町といった辺りであろうが、寺町の各寺院へ参詣に行くには真ん中に中島川が流れ、通行を遮断していたのである。 
その為、江戸初期には克って架かっていた木橋、木廊橋(屋根付きの橋)が次々と石橋に架け替えられたという。

この長崎の石橋は中国人が多く関わっているといわれる。先ず「高一覧」(日本・中国語の通詞、通訳)が独力で1650年に大手橋を架けて以来、中国人同士の競争意識が働き石橋群が生まれたという。
これらの唐風石橋群は長崎町人たちの生活の道であり、寺町の仏寺院に参詣に行く参道としての重要な役割を果たしてきた。


中島川の上流から下流まで石橋群は18橋ほどあるが5キロほどの短い川に架けられた数としては他に例を見ないという。
過剰気味のこれらの橋は僧侶、通詞(外交官、通訳)、商人などの個人の財力で造られたといい、長崎が鎖国時代唯一の外国貿易港であり、天領であった豊さを物語っているともいえる。

その眼鏡橋であるが・・、
長崎市電(長崎電軌線)の賑橋駅(にぎわいはし)から直に、その「眼鏡橋」が架かっている。
中島川に架かる第10橋で、眼鏡橋の名称は川面に映った影が双円を描き、眼鏡のように見えることから、その名の由来といわれている。 
昔より「錦帯橋」(山口県岩国)、「日本橋」(東京)とともに日本三名橋の一つとして名高い。


眼鏡橋は1634年(寛永11)、興福寺二代住持、唐僧の黙子如定(もくす にょじょう:江西省出身)の技術指導で架設されたともいわれ、日本最初のアーチ式石橋でその石橋建造技術は全国の規範となったといわれる。
昭和35年に眼鏡橋は国指定重要文化財となっている。 

その他の石橋も昭和46年には阿弥陀橋、高麗橋、桃渓橋など、10の橋が市指定文化財に指定されている。 だが元々、橋銘は今のような名前はなく、阿弥陀橋を「第一橋」として上流から順に「第二橋」、「第三橋」と番号で呼んでいたらしい。

現在の橋銘は明治15年頃に長崎の儒学者(漢学)の西道仙(にし どうせん:明治時代のジャーナリスト・政治家・教育家・医者)が付けたものが大部分と言われる。
眼鏡橋の傍には磁器焼き物で設えた「石橋群案内図」があり、これを見ると各石橋は寺町の其々の寺院に直結しているのが判る。


因みに、この国宝・眼鏡橋を真直ぐ寺町方向へ進むと多くの寺が建ち並んでいる一角である「晧大寺」( こうだいじ)に突き当たる。 
長崎でも名の知れた寺らしく、晧大寺のすぐ右が大音寺(だいおんじ)であり、それに、長崎駅近辺(筑後町)の「本蓮寺」(勝海舟が長崎海軍伝習所時代にここに住んでいた)の三寺院を合わせて長崎の三大寺院とも言われているようである。

そして晧大寺を特に有名にしているのは先の大浦天主堂の項でも記したが、イエズス会宣教師・クリストヴァン・フェレイラ教父が、時の政権に改宗するように「穴吊り」の拷問をうけ、棄教して仏門に入ったとされ。 
仏教徒に無理矢理に転宗させられた後の彼の檀那寺(自分の家が帰依して檀家となっている寺)が「晧大寺」であったという。



長崎市内見物を終えて・・?、と言いたいところだが表面的な周遊観光したに過ぎない。
長崎という街は、実際はまだまだ歴史的見所が多く奥が深いのである。 
何せ、原爆被爆という、とてつもない体験をしている事に加え、顕著なのが長崎は日本で唯一、開国の天領だったところでもある。

江戸期のわが国は鎖国時代で、外部外国の情報やら物資は一切見聞きすることは無かった。
ところがここ長崎は、アジアに代表される中国、ヨーロッパに代表されるオランダとの交流交易が堂々たる認可の下で行われていたのである。
そして、それらに関する歴史的遺構、現存施設や建物が町中に集積、又は拡散しているのである。
これらに興味があって長崎市内を隈なく観光、観察するには、とても3、4日では巡りきれないのではないか・・?とも思われ、実感した次第である。

次回は「諫早



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2011年4月19日火曜日

日本周遊紀行(119)長崎 「チャンポンと思案橋」



『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真主体)
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 日本周遊紀行(119)長崎 「チャンポンと思案橋」   、



長崎は、チャンポン文化の先駆けであった・・?、

長崎・チャンポン」・・、というと「リンガーハット」でもあり、この事は先にも触れた。

我が家の近くにも「リンガーハット」という中華風の食事屋さんがある。 
実はこの会社・食事屋さんの株を少々持っているので、食事の株主優待券が定期的に送られてくる。
この券を利用して家族・身内と会食するのだが、注文する定番が、チャンポンや皿ウドンといったものである。 


チャンポンとは、元々「長崎チャンポン」で銘打って、全国に展開している長崎名物の中華風料理のことである。 
大元の元祖は大浦地区にある「四海樓」であると言われている。 
長崎チャンポンとは明治32年、長崎の中国料理店にて生まれた国民食で、初代・陳平順氏が長崎にやってくる中国人留学生のために、「うまくてボリュームがあり、栄養価が高く安価なメニューを」と始めたのがルーツだという。



長崎は江戸期、鎖国制を敷く中、日本で唯一の国際貿易港であった。 
従って、諸外国より多様な生活文化が長崎を通して、日本に移入、伝播、定着していった。 
例で言うと、いかにも純日本風の「天婦羅」は、蘭語(オランダ語)で獣肉、魚類、卵を加工したものあり、似た様な物で、長崎で作られ後に江戸に伝わった「すきやき」も長崎である。  

日本人は昔は牛肉を食べなかったことはよく聞く話だが、外国人(欧州、中国等・・)の多かった長崎では日本人も一緒になって食していたという。 
そして、現在、全国で名の通った長崎名物「チャンポン」や「皿ウドン」は中国の料理を元に明治期に作られたオリジナルであるという。 
チャンポン」という名称は、中国語説、ポルトガル語説、日本語説と未だ定説ではなく、所謂、チャンポン説である。 

チャンポンは肉類、魚介類、野菜を混ぜ合わして調理する、つまりチャンポン状態にする、混ぜ合わせるという意味で、今では、“お酒をチャンポンで飲んだ・・”という、形容詞的日本語にもなっている。

尚、この「ちゃんぽん」なる単語は朝鮮語にもあり、同じく「混ぜる」、「混ぜたもの(料理)」という意味を持つという。
また沖縄県で同じ意味の「チャンプルー」はインドネシア語やマレー語にも存在するが、「チャンポン」と「チャンプルー」は同語源と考えられ、由来としては諸説ある。
また、沖縄では「チャンプルー」をご飯の上に盛った料理を「ちゃんぽん」と呼ぶこともあるという。

この他に、長崎を通じて全国に広まった外来語はペンキ(先に述べた)、ボウリング、ビリヤード、ソロバン、ボタン・・と、お馴染みの品々で多種にわたる。

方言・長崎弁の代表格である「ばってん」(しかしながら・・、だがしかし・・)は「But、Then」からきているし、「くらすける」(殴る・・)は「Crush」からきているというが・・?
長崎は、外国文化と日本文化が入り混じった、云わば、「チャンポン文化」の先駆けであった。



往時の丸山界隈(案内版より)と跡形のみの「思案橋」


長崎ぶらぶら節」・・、

長崎・「出島」に隣接して、長崎チャンポンの中華街が在り、丸山、思案橋のタウンがある。「長崎に丸山といふ処なくば 上方の金銀無事に帰宅すべし」(長崎に丸山という場所さえ無ければおエライさん方も 金を使わないで無事家に帰れただろうに・・)と、かつて井原西鶴が言ったというくらい当時、大変な賑わいぶりだったらしい。 

幕末の志士(坂本竜馬、高杉晋作…)や長崎にやってきた外国人(シーボルト…)など歴史上の多くの有名人がここで遊んだという。(次回にも述べます)
その跡地を見て回ろうというのが、「長崎丸山ぶらぶら散策」である。  


はじめは「思案橋」から・・、
当時、丸山の入り口には橋が掛かっており、色欲に駆られた男どもは、「行こうか?、行くまいか・・?」と橋の手前でさんざん迷ったため、付いた名前が「思案橋」という。

この丸山界隈を描いた作家(作詞家)・なかにし礼が「長崎ぶらぶら節」を著し、直木賞を受賞している。2000年(平成12年)、オランダとの交流400周年という記念すべき年を迎える長崎でのロケを経て、東映で映画化もされた。 

「長崎ぶらぶら節」とは、江戸・嘉永年間に流行したといわれる長崎の歌の名前のことで、(長崎民謡)大正というデモクラシーの時代において、この失われつつある長崎の歌を発掘し、後の世に語り伝えようとした一人の学者と一人の芸者が登場している。 

愛八(あげはち:本名・松尾サダ)は、明治から昭和初期にかけて実在した女性である。 
小さい頃から男まさりで、器量もけっして良いとは言えない女性であったが、それを補って余りある歌唱力と三味線の腕によって、五十歳を目前にしながら今もなお丸山のなかで五指に入るほどの名妓として、その名をはせていた。 

愛八が人生で初めて本当の恋を見出した相手は、長崎の歴史研究に全てをかけた学者・古賀十二郎であった。 古賀は、遊び人でありながら、同時に長崎の対外交渉史の研究に関する第一人者であり、芸者の総揚げなどという馬鹿をやって家の財産を浪費するかと思えば、学問に対する情熱を熱く語ったりする無邪気さ、高尚さがあった。 古賀と愛八が二人きりで、長崎に眠る数々の名もなき歌を探す旅・・、世の中から忘れ去られた名曲「長崎ぶらぶら節」との出会い・・、そして両親のいない貧しい少女・お雪をはじめ、全ての人々に捧げた無償の愛・・。
なかにし礼氏が描いた数奇な女の一生を「吉永小百合」が、古賀を渡哲也演じている。
歌というのは、詩と音楽によって生み出される芸術であり、詩だけでも、また音楽だけでもけっして成り立たない、」という、古賀十二郎と原作のなかにし氏とが重なる。       

長崎ぶらぶら節』  長崎県民謡
長崎名物 凧(はた)あげ盆まつり
秋はお諏訪(すわ)の シャギリで
氏子が ぶうらぶら
ぶらり ぶらりと
言うたもんだいちゅう

遊びに行くなら 花月(かげつ)か仲の茶屋
梅園(うめぞの)裏門 たたいて
丸山 ぶうらぶら
ぶらり ぶらりと
言うたもんだいちゅう

引き続き、長崎名物「眼鏡橋



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2011年4月18日月曜日

日本周遊紀行(119)長崎 「出島」




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 日本周遊紀行(119)長崎 「出島」   。



出島の概要図(資料)



鎖国時代の江戸期、長崎・出島は日本で唯一の貿易の拠点だった・・、

長崎市街の中心部、深く入り組んだ長崎港の最奥部に中島川が流れ込む。
その湾口部の中島川に沿って再建中で新装成りつつある「出島」があった。  
この一角だけフェンスに囲まれて一種異様な雰囲気を出している。出入り口は2箇所あって小生は海側から入門することにした。
車の駐車に難儀したが電車道の向こうにローソンが在ったので、こっそり置いてもらいことにした。
洒落た石畳が施された通路の両側の建物群は古いようで新しく、奇妙な感じでもある。

出島資料館、一番蔵、二番蔵、一番船船頭部屋建物群などは殆どが復元、再現されていて当時の西欧人(オランダ人)たちの生活が少しでも垣間見ることが出来る。
一番の注目は、やはり出島の長として君臨したオランダ商館長の「カピタンの屋敷」であろう、日本の大名や役人を接待した部屋など、さすがに最大規模を誇る。 

順次見て回った左奥に日本人好みの庭園が設えてあった。
その一角に「ミニ出島」といって縮尺15分の1で当時の出島の様子を再現した模型であった。 
復元された表門は、出島への出入りがいかに厳しいものであったかを窺わせる立派な構えである。


出島の規模、広さは資料によると幅・約70メートル、長さ190メートル、周囲約563メートルの扇形で、総面積は約15,000平方メートルで東京ドームの3分の1、日本武道館とほぼ同じ大きさだという。
意外と小さく狭い区域であった、この狭い地に半ば拘束されながら住んでいた欧人達に、同情の念をも感じてしまうが・・?。



周知のごとく江戸期は鎖国の時代であり、日本は他の外国との外交、通商は一切行っていなかった。しかし、長崎だけは例外であった。 
日本は秀吉の安土桃山時代にはポルトガルとの間の南蛮貿易(ポルトガル、スペイン)が行われ、引き続き江戸時代に入り鎖国が成立した後もポルトガル、オランダなどとは貿易が行われていた。
貿易拠点は平戸と長崎の「出島」であった。 


出島はオランダ商館と幕府の共同の貿易拠点であり、貿易に従事するオランダ商館員の居住空間でもあった。
寛永13年(1636)、幕府はポルトガル人によるキリスト教の布教を禁止するために、長崎の有力町人に命じて人工の島を築き、そこにポルトガル人を住まわせた、この島が「出島」である。

幕府の出島築造の目的は、キリシタンの取り締まりを行うと同時に、貿易が掌握できるという二つの利点もあった。
一方、出島の完成の翌年に、キリシタンによる「島原の乱」(後に記載・・、)が勃発する。
その為、キリシタンに苦慮した幕府は鎖国を強固に進め、そして、商売と宗教が一致して政策を進めようとするポルトガルとは縁を切り、商教分離した策をとるオランダに乗り換えたのである。
この間、出島は一旦、無人の島になったが、その後、平戸のオランダ商館が出島に移転してきたのであった。

出島は鎖国時代にあって唯一、日本が様々な海外文化や技術を取り入れるカルチャーセンターとしての機能を持っていた。
それはオランダにとっても同様であり、ここを窓口に日本の文物・情報を集め、広く西欧に伝えた。
出島はまさに日本と西欧の国際交流の場として大きな役割を担っていたのである。

因みに、オランダ商館長は大名の参勤交代と同様、江戸の将軍に出向いて正式に挨拶を交わす習わしがあった、貿易が許されていることのお礼と珍品の献上をするためであった。
道中は出島を出発し、小倉から船で瀬戸内海を渡り、大阪を経て京都、江戸へ向かったという。
オランダ人や通訳、長崎奉行所の役人など数百人を超える行列であった。

芭蕉の句に・・、

『 かぴたんも  つくばいにけり  江戸の春 』 とある。


だが、明治の半ば、長崎の出島は忽然とその姿を消してしまった。
長崎港の港湾工事によって出島はその原型を無くしてしまったのである。

出島は元々、長崎湾に突き出た扇形の出っ張った人工の島であった。
その扇の形は貿易の発展を願う末広がりの意味をもち、その坪数は3,924坪で、これも三千世界二十四節季九星人(気学に基づく:人間一生の運気の学問)として、人の世の運勢、世の吉凶を占ったものという。
出入り口には検問所も設けられオランダ人との交渉や監視を行い、又、原則、日本人も公用以外の出入りが禁止され、オランダ人も例外(医師・学者としての信頼が厚かったシーボルトなど)を除いて狭い出島に押し込められた。 
それが、近代になって出島周辺は完全に埋め立てられ、その姿も埋没してしまった。

今では、かつての出島の範囲を示すため、道路上に出島の縁を示す鋲が打たれているという。
そして今、その歴史的価値が見直され、一世紀の時を超えて出島の姿が長崎市によって復元され出現しつつあり、見学も可能になっている。

現在、出島資料館(本館、分館)、出島シアターに一番蔵(輸入品倉庫)、二番蔵(貿易館)、一番船船頭部屋(オランダ商船船長や商館員の部屋)、へトル部屋(商館長次席の部屋)、料理部屋などが完成したという。
そして2010年までに中央、東部分の計15棟を復元した後、周囲に堀を巡らして扇形の輪郭を復元する予定だという。

次回は、長崎名物「チャンポン



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2011年4月17日日曜日

日本周遊紀行(119)長崎 「グラバー園」

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 日本周遊紀行(119)長崎 「グラバー園」 



幕末のイギリス企業家・トーマスグラバーの邸宅



邸内に、竜馬のための隠し部屋と称する特殊な部屋が存在した・・、

大浦天主堂の隣には「グラバー園(邸)」が在る。
一般に長崎の有名どころ「グラバー邸」と言われるが、長崎港が一望できる高台にある園内には他の施設や建物(洋館群)があり、周囲は洒落た庭園が広がる。
グラバー邸は一戸の邸宅であり、広義にはグラバー園と呼ぶほうが適切かもしれない。 

園内は山の斜面を利用して拓かれた施設で、見学するには先ず最上部へ上がってその後、順繰り見て回りながら下へ降りていくようになっている。
その頂上へは便利なエスカレーターが整っていた。

尤も、入口はもう一箇所あり、市電の5番系統の電車に乗って終点の石橋で下車し、ここから細い路地を入ったところに「グラバースカイロード」と呼ばれる斜行エレベーターがある。 
最上部に到ると既に長崎の細長く入り組んだ港が一望である。特に、「旧三菱第2ドックハウス」(三菱の洋館、昭和47年にグラバー園に移築)という建物のベランダから見る景観は絶景そのもの。前面は、洋式庭園が品よく配されている。子供達は池の鯉に大はしゃぎ・・!。

下るにしたがって、旧オルト住宅、旧リンガー住宅、伝統芸能館、旧自由館(日本初の西洋料理店として造られた)といった洋館が次々と現れる。 
又、長崎を題材にしたプッチーニ作曲のオペラ「蝶々夫人」で、生涯を通し主役を演じつづけた「三浦環」の銅像もある。

三浦環という女性は当時世界的に有名なオペラ歌手で、ここグラバー園はマダム・バタフライのモデルになった土地柄ともいう。 
そして、更に下部の方に一段と大きなL形に配した旧グラバー住宅が据わっていた。


これらの貴重な建築物は全て明治期の洋館であり、園内に移築、復元したものだという。この三旧宅はいずれも国指定重要文化財であり、そして園内一帯、建物を取り巻くように、四季を通じて様々な花が咲き誇る、緑に囲まれた園地に成っている。
尤も、この辺り一帯の南山手、隣接の東山手一帯は、日本でも最も古い洋館が多く残る貴重な場所で、国の重要伝統的建造物保存地区になっているという。



さて、グラバー邸の住人・「トーマス・ブレイク・グラバー氏」のことである。
英・スコットランド人の彼が21才の時、天保9年(1838)に長崎へ来航し、三年後の1862年には「グラバー商会」を設立している。 

グラバーは坂本龍馬をはじめとする、長州や薩摩などの藩士達と交流を深め、幕府や各藩に武器や船舶、機械類などを大量に販売し、莫大な富を得た。
そして、近代的ドック建設、高島炭鉱の開発、大浦海岸でわが国初の蒸気機関車を走らせたり、海底ケーブルを長崎と高島間に敷設して電話の使用ができるようにしたりと、 様々な最新技術を日本に伝えた偉大な功労者であった。

又、「ジャパン・ブルワリ・カンパニー」(後のキリン麦酒株式会社)が横浜に設立される際にも指導的に活躍したという。 
グラバー自身は岩崎弥太郎経営の三菱の顧問となって、明治30年(1897)には東京に移転し、裕福な余生を送ったという。 
明治41年(1908)外国人として初めての勲二等旭日重光章を受ける。 
東京の自宅で明治44年(1911)、73歳の生涯を閉じたグラバーは、家族と共に坂本国際墓地(爆心地の近く、長崎大に隣接)に埋葬されている。


グラバー邸内に一対の「狛犬」が飾ってある。
キリンビールの前身となる会社を作った人はグラバーであるが、お馴染みのキリンビールのマークの麒麟のモデルになったのはこの狛犬だそうで、グラバーの提案でデザインされたと言われている。
何、キリンじゃなくて狛犬?と思うが、想像上の動物だから良しとしよう。 

尚、狛犬やモデルの麒麟に髭が生えているのは、グラバー自身の口髭からきているという。 同じく、グラバー邸内の屋根裏には隠れ部屋と称する特殊な部屋が存在する。
邸を訪ねてきた志士達を幕府の取締りから逃れさせるため、逃げ道を作っていたらしい。


グラバーは坂本竜馬と友好を持ち、「亀山社中」との貿易相手でもあった。
長州が、薩長同盟後亀山社中を通し最新式の西洋銃を購入したのもこのグラバーからで、竜馬亡き後も、高杉晋作自身がグラバー邸に出向き交渉を行ったという。 

かっての幕末、長州藩は幕府から睨まれており武器を購入することができなかった。 
坂本竜馬は自分のつくった日本最初の株式会社と言われている「亀山社中」を通して最新銃4300丁と旧式銃3000丁を薩摩藩名義で購入し、長州藩に横流しする方法を思いついた。

グラバー商会から購入した銃が、第二次長州征伐で大活躍し長州藩を勝利に導き、明治維新を成し遂げる大きな原動力となったのである。 
このグラバー邸は坂本龍馬や伊藤俊輔(博文)、井上聞多(馨)などが出入りした記念すべき建物でもある。



ところで、前項で記したが、「長崎チャンポン」で銘打って「リンガーハット」という飲食店が全国に展開している、長崎名物の中華風料理のことである。

社名は長崎で幕末から明治初期の頃に活躍したイギリス人実業家で、旧リンガー邸の住人・フレデリック・リンガー(1840年-1908年)の氏名から取っており、それに明るく・響きのいい小さな家(ハット・HUT)を絡ませて「リンガーハット」としたという。
思えば、リンガーハットの店舗の形が、何か洒落た洋風を感じる。
リンガーは若くして中国に渡り、茶の検査官として働いている時にグラバーと出会い、乞われてグラバー商会に入社し製茶事業技術顧問として活躍したという。


長崎は「日本三大夜景」の一つで、特に長崎の夜景は千万ドルの夜景ともいわれ、長崎港を囲むように宝石をちりばめたように街全体が光輝くという。
夜景の見学スポットとしては「稲佐山」(長崎湾を隔てた対岸の山で、頂上までにロープウェイ、展望台がある。 標高333メートル=東京タワー)からの夜景が一番有名であるが、このグラバー園のグラバー庭園や旧三菱ハウスからの町の夜景もピカイチといわれる。
尚、日本三大夜景とは 長崎、神戸、函館である。


次回は、長崎といえば「出島



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2011年4月16日土曜日

日本周遊紀行(119)長崎 「大浦天主堂」



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 日本周遊紀行(119)長崎 「大浦天主堂」   、


階段参道の上に毅然と建つ「大浦天主堂」



長崎はキリシタン受難の地であった・・! 、

長崎市の地域は山、坂の街であることは、小生の知識の中である程度は心得ていた。
改めて、長崎市を上部鳥瞰的に観ると町は変形Y字を逆さまにしたようにも見える。
Yの字の右側の線は、先端が長崎造船をはじめとする工業地、そして稲佐山斜面に沿って町並みが覗える。
Yの字の左側は、先端にグラバー亭のある大浦地区から県、市庁舎の在る市内で最も賑やかな長崎タウン、そしてY字形の下部がJR長崎駅から、浦上川に沿って先ほど訪れた原爆記念碑・平和公園のあるタウンであろう。 
無論、Y字の凹みは長崎港である。 

長崎の街の周囲は、ほぼ南北に並ぶ山並みに囲まれ、市の形状は全国的に見ても数少ない「すり鉢」状となっている。つまり市の中心部は三方を山に囲まれており、特に、住宅地の多くは山の斜面を利用しているようである。そのため「階段の街」、「坂の街」として有名である。この辺りは広島の「尾道」に共通しているようだ。


さて、次にY字下部の平和公園から、Yの字の左側先端の大浦地区へ向かった。
市営の松ヶ枝という立派な駐車場に車を預ける。それにしても駐車勧誘のおじさん、おばさんがチョッとしつこいくらいである。
平和公園でタクシーの運ちゃんが、小生の車のナンバーPを見て先ず驚き(相模・・・)、「市内を観光するには駐車場が無くて大変だよ・・!」と仰っていたが、どうもそうでもないらしい・・?。


例によって、石畳の品のいい坂道をおもむろに上ってゆく、両脇に長崎カステラをはじめよく飾りつけた土産屋さんが並んでいる。
そして、その正面に白で配し、ステンドグラスが綺麗な教会が階段の上部に悠然と立っていた。 そう、長崎には有名な天主堂がもう一つあった、長崎湾を見下ろす「大浦天主堂」である。女子学生が入館料・・?を何がしか払って堂内見学をするようである。

カトリックの教会堂で、日本最古の現存するキリスト教建築物(1952年に修理が完成)で、1945年の原爆投下で破損したが爆心地から比較的離れていたため焼失は免れたという。
国宝に指定された唯一の洋風建築でもある。



江戸期、封建制と鎖国とキリシタン禁制とは、幕藩体制の三本柱であった。

幕末と言えるだろう・・、
250 年間つづいたキリシタン禁制もどうやら終末が近づいたのである。 
それは、1857年(安政4年)、長崎での絵踏が廃止され、翌年の通商条約で外人のための聖堂(キリスト教会)の建立が認められた。 
こうして幕末の開国機運が高まる中、1865年(元治2年)大浦天主堂が建立され、異国風の建物に長崎の市民たちは目を見張ったという。 

天主堂という名はカトリックの聖堂を中国風に呼んだものであり当時は、俗に「フランス寺」と呼ばれ連日見物人でにぎわったという。 
フランス人によって設計され、天草出身の棟梁・小山秀之進という日本人の職人の手によって作られた。 建築当初は三本の塔を持つゴシック風のつくりながら、先ほどの浦上天主堂のレンガ色に対して、こちらは外壁が白色のナマコ壁という特殊なスタイルで、欧風建築でありながら日本建築の技術や材料が巧みに使われているという。

完成当初、先ず、長崎の浦上の一団のキリスト教徒が大浦天主堂にやってきた。 
彼らは大浦天主堂がカトリック教会であると判断すると、さらに、浦上や大浦だけでなく長崎地方全域に数万人のキリスト教徒(隠れキリシタン)がいることが判明、この「信徒発見」のニュースは「東洋の奇蹟」と言われたそうである。 


天主堂の「天主」とはキリスト教の神の意味であり、大浦天主堂は国宝に指定された唯一の洋風建築でもあった。 
人々にフランス寺と呼ばれたこの天主堂は、豊臣秀吉の弾圧以来250年間の禁教の時代を生き延びて奇跡と呼ばれたキリシタンと広島とともに原爆投下を投下された長崎の波乱に富んだ歴史を見つめてきたのである。



秀吉や徳川幕府は、何故強引なまでにキリスト教布教を禁止し、キリシタンを弾圧したか・・?。
一つの理由に、藩や武士にとっては家門を保つことこそ至上命題であった。
徳川宗家をはじめ、各藩の藩主は御家を安泰させるのに懸命で、もし、跡継ぎ、世継ぎがなければ「御家断絶」になりかねないのである。
そのため、正室との間に子が無ければ勿論、若い側室を迎えて一人でも多く子供を作って置くことは当然であり義務であった。
徳川家が巨大なハーレム(大奥)を築き上げるのも、武士の本能であり、ある意味必然であった。


キリシタンは一夫一婦制度が基本である。
キリスト教宣教師の眼には、日本の一夫多妻制度が「野蛮な畜生制度」にしか映らなかったはずで、実際に外国商人達が大勢の妾を囲っていることを激しく非難しているのである。

秀吉が黒田官兵衛に向かって「おぬしらキリシタンは側室を持たんそうじゃな。わしにはとても耐えられんわ。わっはっは!」と笑うシーンがあるが、武士の存続にも関わる重大問題だったともいえるのである。
キリシタン厳禁は、日本独特の「お家の事情」が絶対的に絡んでいたのである。



序ながら、JR長崎駅の直ぐ東側の西坂公園の一角に「聖ヒリッポ教会」というのがあり、この地は、二十六聖人殉教の地ともいわれる。 
遠藤周作の小説「沈黙」の書き出しに、『 ローマ教会に一つの報告がもたらされた。ポルトガルのイエズス会が日本に派遣していた宣教師・クリストヴァン・フェレイラ教父が長崎で「穴吊り」の拷問をうけ、棄教を誓ったというのである 』・・と。

司祭や信徒を棄教させようとして数々の拷問が行われたが、「穴吊り」は深い穴の中に人をグルグルに縛って逆さ吊りにする。
そのままでは頭に充血してすぐに死んでしまうので耳の後ろに穴を開けてそこから血がポタポタ落ちるようにして苦しみが長引くようにしたという。
強い信念を持った司祭や信徒達はこの苦しみに1週間前後も耐えた上、絶命したという。

二十六聖人殉教の地」は、 このキリスト教弾圧の最初の犠牲者達を追悼した場所である。
1597年、豊臣秀吉の命令により6名の外国人宣教師と20名の日本人信徒が耳と鼻を削ぎ落とされ京都・大阪から歩かされ長崎に到着。「西坂の丘」で彼らは十字架にかけられ、槍で突かれて処刑されたところである。
教会の側壁には彼ら26人のレリーフが彫刻され、展示されている。


1865年大浦天主堂が建てられた。
それを見て250年以上潜伏していた隠れキリシタンがようやく表に出てくることが出来た。
こんなに長い迫害に耐えて宗教を守り通した例は世界の奇跡とも言われる。

そして1981年、あのヨハネパウロ2世が、日本でのキリスト教迫害の歴史を聞き、この地を訪れた。これはキリスト教信者の方々にとっては最大の喜びだったらしい。
その日、浦上天主堂で「司祭叙階ミサ」が司式された。 
これを記念したパウロ2世の胸像が、教会正面に安置されている。

次回は、「グラバー亭(園)」
  、



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2011年4月15日金曜日

日本周遊紀行(119)長崎 「長崎の鐘」




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 日本周遊紀行(119)長崎 「長崎の鐘」   、



平和の像
長崎の象徴・御馴染みの「平和の像」



鎮魂の長崎、昭和20年8月9日午前11時2分・・、

この大村湾沿いを長崎市に向かって進む。 
大村湾は閉鎖性海域という内海であり、更に、入り江、島々が浮かぶリアス海岸は静かな紺碧の海面と緑のコントラストが一段と風光を成している。 

尤も、長崎県というのは面積(都道府県で下から11番目)それ自体はそんなに広くはないが、海岸線は日本一だという。
県域が複雑な形をしているのもさることながら、島々の数は 971 と圧倒的に全国一なのである。

実は、海岸線は北海道に次いで全国第2位であるが、北方領土を除いた場合の北海道の海岸線は大差で長崎県が第一位となるらしい。 
面積が、北海道の約20分の1である長崎県の海岸線がこれほど長大なのは島々が非常に多いことに加え、リアス式海岸で海岸線が複雑に入り組んでいる為でもある。 
因みに、長崎県内で、海から15km以上離れた地域・地点はないそうである。  


ところで、「日本にはいくつの島があるのだろうか・・?」、面積1平方km以上の島の数なら全国で340あるというのが一つの答えだという。 
日本沿岸における外周0.1km以上の島の数はというと6,852島というのが二つ目の答えである。

その時、日本で一番島の数が多い県は長崎県の971島、次いで鹿児島県が605島、北海道が508島となっている(海上保安庁海洋情報部調べ)。
更に、人が住んでいる島の数となると、少々古いデータであるが「日本島嶼一覧(昭和57年)」によれば425島だとか。 

更に、狭い海域にたくさんの島があることで有名なのは長崎県佐世保近辺の九十九島であろう、実際にはいくつの島があるのか・・?、
こんな疑問に答える「九十九島の数調査研究会」なるものが地元にあり、そこが調べたところ、ここだけで208の島が確認されたという。
名称の「九十九」より遥かに多い島数があることになる。

因みに、「九十九」という数字「百引く一」なので、漢字の百から一を取った「白」を九十九の意味で使うことがある。
数え九十九歳を「白寿」と呼ぶのは知られているが、逆にお年寄りの白髪を九十九髪(つくもがみ)と表現することもある。
ではなぜ九十九を「ツクモ」と読むのかというと、ツクモはツグモの訛で、「次は百(モ)、次ぐ(ツグ)百」からきたと広辞苑などには書いてある。
クジュウクやツクモなど読み方は分かれるが、九十九の付く固有名詞は意外に多く、たいていは「百に近い」ということから、「たくさん」、「多数」の意味で使われている。



さて、長崎である、 
時津の港を過ぎると長崎の町へ入ったようである。 
左右山肌の斜面を切り刻んで造成した住宅団地が八方に見られる。 
長崎は「階段の街」、「坂の街」として有名であるが、この辺りにも傾向が見られるようだ。 

余談だが、長崎は坂が多いため自転車に乗る人は少なく、他都市でしばしば問題になる放置自転車などの問題は少ないといい、年齢層を問わず自転車に乗れない人の割合も他の都市に比べて高いらしい。


市街地へ入ってきた、長崎市電であろうか路面電車が同路上を行く。
電車と言えども、やはり坂道はつらそうである。大きな敷地の長崎大学を過ぎると間もなく「平和記念公園」のガイド版が現れ、案内にそって訪ねてみることにする。 

国道のすぐ横にその公園はあった。 
いきなり、あの天を指す「平和記念像」の前に出た、像は天を指す右手が原爆の怖さ、左手が平和、閉じた目が犠牲者の冥福を祈ってるそうである。
すぐ横に白い荘厳な建物で「長崎市原子爆弾無縁死没者追悼祈念堂」と、チョット厳しく、長いお題目のお堂が在った。

ここは原爆によって亡くなった身元や氏名不詳の遺骨、氏名がわかっていても一家全滅などで引き取り手がない原爆無縁死没者の遺骨を安置しているという、小さく黙礼をする。
玄関付近に黒の御影石に白字で刻した石碑が、当時の生々しさを物語っている。


刻文は次のように記されてあった・・、

原爆殉難無縁者慰霊の記
「昭和20年8月9日午前11時2分米軍が原子爆弾を長崎に投下した。 この時、即死者70040余名および避難の途中或いは収容加療中に死亡した者のうち、一家全滅または身元不明のため無縁となった遺骨は市町村役場や寺院町内会その他一般篤志家の手で埋葬供養されていた。 長崎市民生児童委協議員会は、この不幸な方方のみをお慰めするため長崎市に協力して昭和30年7月から一年余にわたり内外の各地に散在していたこれら無縁遺骨を収集した。後、昭和34年3月市民の浄財をもってこの地が購入されたが、その寄贈を受けた長崎市はここに納骨堂を建立し、管理を長崎市民生児童委員会に委託した。よって本会はさきに収集した原爆殉難無縁遺骨7000余柱をここに安置し観音像を本尊として年々祭祀を行ないその冥福を祈ってきた。
その後、遺骨の氏名や近親者が判明して引き取られたものもあったが追加合祀された数もまた多く昭和50年8月現在8927柱が安置されている。 祭祀は長崎市仏教連盟のご奉仕を願い、長崎市原爆殉難者無縁仏慰霊奉賛会がこれに当たり、経費は長崎市民を始め広く全国各地から寄せられた浄財により賄われている。 ここに原爆被爆30周年を迎えるに当たり殉難者の冥福を祈念し、世界平和実現へ邁進する決意を新たにしつつ、謹んで以上の経過を記す。
長崎市民生児童委員協議会、長崎市原爆殉難者無縁仏慰霊奉賛会
昭和五十年八月一日」



原爆落下地点に建てられている公園内の各種施設、石碑群はこの上空500メートルの地点で爆発したのである。 
中央に「平和の泉」の噴水池があり、石碑には「のどが乾いてたまりませんでした。水にはあぶらのようなものが一面に浮いていました。どうしても水が欲しくてとうとう油の浮いたまま飲みました。」と刻文字が書かれている。 
木々の間に、各国からを贈られたという彫像が置かれている。ソビエト連邦、チェコスロバキア等、母子の像が多い。 



長崎の鐘、平和の鐘・・、
そして、その鐘の象徴でもあろうか、すぐ近くの小高い丘の上に赤レンガ造りの双塔の天主堂が天を指している、「浦上天主堂」である。
天主堂は明治6年(1873年)にキリシタン禁制が解かれ、信教の自由を得ると浦上のキリシタンたちは明治13年に庄屋屋敷を改修して教会とした。
この東洋一を誇るロマネスク様式大聖堂も爆心地に近かったため一瞬のうちに破壊されたという。 
しかし、昭和34年に見事に復元され、赤レンガ造りの美しい天主堂として長崎カトリック界の中心となっている。




その破壊された天主堂の鐘堂の一部が、丘の下の河原の路地際に放置され、無残(無念・・)な姿を晒している。 
否、放置ではない・・、当時は石垣で囲い台座の上に展示されていたはずが今は石垣も台座も草生して、まるで放置してある様に見えるのである。 しかし、見様によっては近い過去に惨劇と破壊があったことを示し、その影響で野地に崩れて落ちて来たような迫真さを物語っているのである。



長崎に原爆を落としたB29は「ボックス・カー」と呼ばれ、小島テニアンの基地から飛び立った。 広島に原爆を落としたB29は、「エノラ・ゲイ」と呼ばれ、同じくテニアンの基地から飛び立っているが・・。当初は福岡、小倉、長崎、佐世保が目標地であったとしているが天候、その他の事情で雲の隙間から見えた長崎市が最終目標になったという。
昭和20年(1945年)8月9日午前11時2分、遂に長崎上空に一発の原子爆弾が炸裂した、投下地点は長崎市北部に位置する松山町171番地(現松山町5番地)。 当時、長崎市の人口は24万人と推定されており、即死は推定3万5千名、負傷6万名、結局7万名以上が死亡し、街は一瞬のうちに壊滅的被害を受けた。 熱線は爆心地付近で4000度、1キロ離れていても1800度、ガラスが溶けてしまうほどである・・!!、猛烈な爆風は爆心地付近の建物が無くなるほど吹っ飛ばした。そして放射能は身体を通過し、内部の細胞を破壊する。 また数年経ってからも白血病やガンでなくなるなどの後遺症をも引き起こした。
本年、平成17年8月9日、60年前のあの夏の日を忘れないよう長崎市民は、「被爆60周年長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」を開催している。

長崎の鐘』 詞 サトウ・ハチロー  曲 古関裕而
こよなく晴れた 青空を
悲しと思う せつなさよ
うねりの波の 人の世に
はかなく生きる 野の花よ
なぐさめ はげまし 長崎の
あゝ 長崎の鐘が鳴る

次回は、大浦地区・「グラバー園」



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2011年4月14日木曜日

日本周遊紀行(118)佐世保 「軍港・佐世保」

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 日本周遊紀行(118)佐世保 「軍港・佐世保」   、


佐世保の地図と主要地




佐世保軍港で米軍兵士の“黒ちゃん”に捕まった・・!、

間もなく佐世保市へ入った模様である。 
佐世保は、2005年4月、吉井町、世知原町を編入し、新「佐世保市」になっているが、更に、来年、2006年3月31日を以って小佐々町、宇久町を佐世保市に編入する予定らしい。 
宇久町を地図上で佐世保周辺を見回したが、見つからず、はて、何処にあるもんか・・?と更に探し出すと在りまして、平戸島の西方の島(宇久島)の領域であった。


佐世保市街に到り、著名な軍港でもあるので港へ出て軍艦の一隻でも見物しようと車を進めると、突然、米軍基地の正門へ達してしまった。 
「シマッタ・・!」と思ったが遅かった、米軍の“黒ちゃん”に捕まってしまったのである。 
直ちに二人の日本人守衛に引き渡されて、免許証の提示や車内検査をやられ、軽い身体検査までさせられた。 
事情を丁寧に話すと、どうやら納得したようで、終いには「此れからどちらへ・・」とか「厚木の基地はどうですか・・」とか世間話にまで及んでしまった。 

相手は、中年相当の人で、盛んに“ばってん”とか・・“よかばってん”・・と地方訛、長崎弁をまくし立てられたが、最後に気持ち良く見送ってくれた。

どうやら軍艦は、一般の人は市中からは望めないらしい、それもそうだな、と変に納得した。いやはやとんだ目に合いました、出発初日、横須賀軍港で同じ事をやらかしたのを思い出した。



佐世保港は三方を高い山に囲まれ、水深が概ね10m以上あるため、天然の良港といわれ、ここに目をつけた旧帝国海軍は明治22年頃から軍港とし、第三海軍区佐世保鎮守府として戦事一色の港になった。 

昭和20年に終戦を迎え、一端は、軍港としての幕を閉じ、昭和23年には貿易港の指定を受けたが、同年6月に勃発した朝鮮戦争により、港湾施設の大半を米軍に接収され、再び軍港としての色合を濃くした。 

他の港にない特徴としては、港内の水域の約83%が「日米地位協定」に基づく、米軍への「提供水域」として米軍により管理され、日本の船が航行する場合にはいろんな規制や制限が課せられているという。


太平洋戦争末期、米軍は佐世保の市街地だけを爆撃し、広大な軍港の施設、巨大な弾薬庫や貯油施設をほぼ無傷で残した。
このことは通常の常識では考えられない全く逆の軍事攻撃を行ったのであり、そして、まんまと思惑通り軍事施設をそっくりそのまま手に入れたのである。 

戦後はそのまま米海軍第七艦隊の基地となり、朝鮮、ベトナム、湾岸、アフガンに出撃、現在はイラク戦争の最大の補給基地になっている。 
沖縄と佐世保の米軍基地がなければ、イラク戦争は遂行できなかったともいわれる。


軍港のイメージが強い佐世保であるが、もともとは西海国立公園の九十九島を始め、市街地北部に連なる弓張岳、烏帽子岳など景勝地も多く、これに西海橋や、昨今では「ハウステンボス」などのテーマタウンも加わわって、観光都市としての色彩も十分である。



さて、先へ進もう・・、
直に国道と港に面した佐世保駅前で暫し港を見物して(軍港ではない)一部、西九州道を乗り継いで、例のハウステンボスへ向かってみた。 
佐世保の南側の海域、陸域は,これまた複雑な地形になっている。 
琵琶湖よりも小ぶりな「大村湾」だが、この海域は細い二つの瀬戸(幅の狭い海峡になっていて、潮汐の干満によって激しい潮流を生ずるところ)で外洋に繋がっている。 

西側の西海町を隔てている「針尾の瀬戸」と東側の「早岐瀬戸」(はいきのせと)である。 
早岐瀬戸は、佐世保市早岐町付近を南北に通じているが、一見、川の様でもあるし、陸地を切り削って造った運河のようでもあるが、しかし、れっきとした海峡で海である。
長さ12キロ、平均幅50mで、日本でも最も狭い海峡と言われ、現に東側の陸地は針尾島という島であることから。

最狭部は早岐町の国道202号線に架かる、その名も「観潮橋」といい、僅かに10m足らずの幅で轟音を立てながら海水が流れているという。 
おまけに、川べり、でなく海べりに「潮音荘」という旅館が在り、潮を観るのではなく、潮の音を聞く旅館というのが味噌(醤油、味の素)である。
実は世界で最も狭い海峡として、小豆島の土淵海峡(どぶちかいきょう)がギネスに登録されているという。

因みに、針尾の瀬戸は、日本三大潮流(阿波の水門:鳴門海峡、早靹ノ瀬戸:関門海峡)の一つである。 
又、この大村湾の最奥部が諫早で、この地域は東側には例の干拓で物議のある有明湾に接してもいる。尚、諫早の干拓については後の記載いたします。

この「早岐の瀬戸」の大村湾寄りの針尾島側に、オランダの街並みを再現した「ハウステンボス」が所在する。

このヨーロピアン・タウンは、東京ドームの33個分という広大な敷地に17世紀のオランダの街並みが再現されたウォーターフロントリゾートである。 
ハウステンボスとは、オランダ語で「森の家」という意味で、街には船が行き交う全長6kmの運河が走り、ホテルを主体に様々なアミューズメント・ミュージアム施設をはじめ、ショッピングやレストランも充実している。郵便局や銀行等生活する街としての機能も備えているという。

変わったところでは高貴な「迎賓館」というオランダ王室等のVIP宿泊用に設けられたホテルもある。
過去に宿泊した主なVIP は天皇・皇后両陛下(2002年11月、「全国豊かな海づくり大会臨席時」)ベアトリクス女王(オランダ女王)、秋篠宮文仁親王・紀子妃夫妻、有名人にはマイケル・ジャクソンなどもいる。



西九州道よりR205へ、早岐瀬戸大橋を渡り(当日は、正直、この地が早岐瀬戸とは全く気ずかず、普通の川でと思って通過している)、案内板に従ってハウステンボス方面へ向かと、間もなく、緑の中に煌びやかな建物群が現れた。

様子を伺いながら奥のほうのガラガラの駐車場へ車を置いて全貌を眺める。
手前の水辺に回遊船であろうか、十数隻の船が、暇そうに係留されている、尤も、今日あたりはウィークデイの平日である。

その向こう遠方にシンボルタワーの『ドムトールン』とかいう十字架が天を指す高層の建物が聳えている。 
高さ105mのタワーは、敷地内のどこからでも見える“道しるべ”的存在であろうか。 
それにしても平日のせいとはいえ、人の姿は殆ど見受けられない。


この「ハウステンボス」は1992年3月25日にオープンし、建設などにかかった費用は総額2千数百億円といわれる。
巨額の投資でオープンした、さしものテーマパークも、時勢というか不況の煽りで、2003年2月26日、遂に会社更生法を適用し事実上倒産した。
負債総額は2289億円といわれる・・が、更生法適用後はスポンサー企業の申し出も殺到しているそうである。 総合保養地域整備法(リゾート法)の適用も受けているらしいが、ガンバレ・・!!「ハウステンボス」。


西海パールライン、眺めのいい針尾の瀬戸の西海橋をわたり、国道202から更に国道206南下する。
大村湾の西部、西彼半島の北部に位置する西彼町(せいひちょう)にやって来たところで、今度は赤レンガの洒落た洋風の建物群が現れた、こちらは「オランダ村」である。 
ところが、ハウステンボスとは違って、ここは人気は全く感じられず静まり返っている。
それもそのはず、当地は2001年に閉鎖していたのである。

長崎オランダ村は、町役場職員の神近義邦氏によってバブル(泡、気泡、泡沫、転じて実体のない見せかけだけのものという意味)景気絶頂の時期の1983年に開園している。 
彼は「長崎県にゆかりの深いオランダの街並みを、路面に敷かれたレンガ一つまで忠実にそっくりそのまま大村湾の入江に再現する」という大胆な意気込みで、国内旅行需要増加も手伝い長崎観光の新しい目玉にした。佐世保市のテーマーパークのハウステンボスのルーツとなった施設でもある。 
だが、バブルの波が去った2001年には閉園し、現在も跡地利用のめどは立っていないといわれる。

最終日の10月21日には、新聞報道によると6500人という入場者があったそうである。 
乗り物や釣などもみんな無料で、土産屋は安売りなどもされていたが、ちょっと寂し気であった・・、と来場者は語っていた。
その日は生憎の雨となり、オランダ村がなくなるのを惜しんでいるようでもあったという。

西彼町は大瀬戸町、西海町、大島町(島部)、崎戸町(島部)の計5町は2005年4月に合併して、新しく西海市(さいかいし)が誕生している。

次回から、「長崎市



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