google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 日本各地の美しい風土を巡ります。: 1月 2011

2011年1月31日月曜日

日本周遊紀行(72)中村 「四万十川」

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日本周遊紀行(72)中村 「四万十川」 ,




写真:四万十川の「遊覧船」;澄んだ水の青さに季節によって顔を変える四万十川、この船で食事やお酒を飲みながら遊覧する。



日本最後の清流と言われる「四万十川」

中村市」、とはいっても旧中村市のことで、本年4月に北部・山間地、西土佐村と合併し新市「四万十市」として発足したばかりである。 
四万十川の町として知られる土佐中村は、河口よりやや内陸に入った河畔、四万十川と支流河川の中洲に広がる町並みである。

中村の町並みは、15世紀半ばの室町期、朝廷の関白家の一条氏が応仁の乱の混乱を避け、所領であった土佐幡多の荘(現在の中村・四万十市)に京都から下向してきたことから始まる。 一条氏は、雅やかな京都に対する思慕の念から、この土地に京風の町造り、町並み造りを実施し、中村御所(現在は一条神社)を中心に碁盤目状の街並みや祇園神社、東山、鴨川といった地名を残している。
又、前関白という身分の高さもあり一条氏は土佐の人望を集め、国中の豪族もこれに臣従し「中村」は土佐の小京都とも呼ばれるほど、一方ならぬ賑わいを見せたという。
以降、土佐一条氏は新興勢力、長宗我部氏が幡多に侵攻するまで続くことになる。

実は、中村という名称は、長宗我部氏から始まるという。
土佐中村城は、土佐くろしお鉄道の中村駅から西北に3kmのところ古城山とその山麓を占めるところにある。
この城郭は現在、郷土資料館になっているが、当地は昔から交通の要衝であり、かっては、この地方の豪族、為松氏が城を造り居城としていた。 後に、為松氏は土佐国司となった一条家の家老として仕え、為松城は中村御所の詰の城として整備された。中村御所跡はいま中村一條神社となっている。


町並みを過ぎて、四万十川の渡川大橋を渡り、そのまま西側の河畔土手を走る、成る程、その名に聞こえた清流である。
川幅は1kmもあろうか、草生した洲だまりもあるが、広くは流水部が占めて悠々と移流している。 合流河川の所はさらに川幅は広くなり、雄大さを誇る。

河口付近は、巨大な中洲も発達しているようである。 
川岸に造形された船着場に、数艘の屋形船が着岸している。
中央の川面に漁であろうか・・?一艘の川船が佇んでいた。 四万十川らしい風景と雰囲気を感じ、思わずシャッターに手が延びた。 
川岸に沿って「四万十屋」や「うなぎ」と銘うった数件のドライブインと御土産屋があり、「遊覧船乗り場」の大きな看板も目につく。 各所に四万十川らしい生活景観を厭味無く演出しているのである。 

風物詩等テレビでお馴染みであるが、四万十川は特に生活に密着した川である。 
古くから独特の漁(りょう)が盛んに行われて、天然ウナギ、ゴリ(ハゼ類の淡水魚、チチブの方言)、ツガネ(モクズガニ)、テナガエビなどの魚介類のほか、青海苔の産地として知られている。
川漁で生計を立てている人が多いことでも、日本有数の河川といえる。

全長196km、吉野川に次ぐ四国第二の川で、本流に大規模なダムなどが建設されていないことから、「日本最後の清流」と呼ばれている。 
四万十川には、中上流域、支流も含めて47もの名物・沈下橋(もぐり橋)があり、高知県では生活文化遺産として保存する方針を1993年に決定している。

もぐり橋(潜水橋、潜没橋、潜流橋、沈み橋、潜り橋などともいう)とは、橋の上に欄干が無く、水面からの高さが高くないことが特徴である。
これは、増水時に、橋が水面下に没するようになっており、流木や土砂が橋桁に引っかかり橋が破壊されたり、川の水が塞止められ洪水になることを防ぐためでもあるという。
また、壊れても再建が簡単で費用が安いという利点もある。 その構造から建設費が安く抑えられるため山間部や住居の少ない地域など、比較的交通量の少ない地域で生活道路として多く作られた。 
しかし現在では山間部でも広い道路や本格的な橋が造られることから徐々に姿を消しつつあるという。

先にも記したが源流部は県内の東津野村(本年・2005・2月、葉山町と合併し津野町として発足している)の布施坂付近で、この辺りの水域は日本名水100選にも選ばれている。 その後、蛇行を繰り返しながら南下し、窪川、大正、十和の町村を西へ移行しながら、更に四万十市(西土佐村、中村市)を潤して南下し、土佐湾に到る。
本流は珍しく、高知一県のみを流れる一級大河川で、一つの都府県のみを流域とする河川としては、山形一県を流れる最上川本流(224km)に次ぐ長さであるとか。
 
次回は、土佐清水から足摺へ



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2011年1月26日水曜日

日本周遊紀行(70)横浪半島 「武市半平太」

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 日本周遊紀行(70)横浪半島 「武市半平太」   、



高知・横浪黒潮ラインに立つ「武市半平太」の像


至誠の人・武市半平太の像が横浪半島の丘に立つ 、

桂浜を後にして、海岸沿いの快適な県14、県23号線の通称「黒潮ビーチライン」を行く。 海岸のコンビニで大洋を眺めながら、チョット遅い朝食を摂る。そこからは、わずかに孤形を帯びた宇佐漁港、朱色の宇佐大橋、そして横浪三里といわれる景勝地の横浪半島が右手に見えている。

紀州・和歌山の項でも述べたが、宇佐漁港は「鰹(かつお)の漁法」、「鰹節」の発祥の地である。 
元々、紀州の印南町が鰹漁と鰹の一本釣りの発祥地といわれる。
かつては廻船問屋や漁船の基地として知られ、印南の漁夫たちは日本でもトップクラスの鰹漁の技術を持っていた。 ところが鰹船団で財をなした豪家、角屋甚三郎が、ある事件をきっかけに船団を率いて、土佐へ移ってしまったのである。 その地が「宇佐」であった。

カツオの漁法とともに、鰹節(熊野節)の製法を土佐国に伝えたのを、きっかけに土佐藩は鰹節を藩の貿易品にしようと考え、その製法を積極的に取り入れた。 
息子・甚太郎は焙乾(燻乾)の創始者でもあり、江戸中期の頃までに大きな改良が行われ、煮熟・焙乾・カビ付けに取り組み、これが改良節、土佐かつお節と呼ばれている。 
更に、宇佐在住の印南の職人が伊豆や薩摩に招かれ、作られたのが伊豆節、薩摩節といわれる。 明治時代に入って、伊豆節が目覚しい発展を遂げ、土佐節・薩摩節・伊豆節が三大名産品と称されるようになった。

日本沿岸で多量に捕れるカツオは干しカツオにし、さらに焙乾法の出現により鰹節に引き継がれ、日本人の保存用タンパク源、調味料として不動の地位を確立していくのである。
宇佐漁港は、現在、クジラ・ウォッチングの出航地として人気があり、また幕末、ジョン万次郎(中浜万次郎)が船出したという港でも知られる。 

万次郎は、土佐中浜に生まれ、その数奇な運命と独自の才覚によって、近代日本の夜明けともいえる時代に日米の架け橋となる幾多の業績を残した。 あの坂本竜馬にも多大に影響与えたという。「ジョン」という姓は、捕鯨船・ジョン-ハウランド号に由来するという。
万治郎は故郷へ錦を飾った後、地元の名を付けて、中浜万治郎(1827~1898)と名のった。アメリカで学んだ英語力を活かし、威臨丸に通訳として乗り込み、勝海舟、福沢諭吉らとともにアメリカに派遣されるなど活躍、維新後は学校の教師など、日本の英語教育の確立に貢献する。


宇佐漁港の外れから昭和49年に華美な橋が開通した。
その「宇佐大橋」を渡って、対岸の島のような横浪半島へ行く。 
すぐに36番霊場「青竜寺」があった、堂々たる山門をくぐり、長い石段を登ると正面に本堂、その左に大師堂、 右に薬師堂が並んでいる。
潮風を受ける本堂の軒下には宇佐の港にも象徴される、多くの船を描いた絵馬が奉納され、船人たちの本尊・波切不動明王への厚い信仰が伺える。

因みに、「不動明王」とは・・?、
仏教で云う「大日如来」とは、森羅万象全てを創造した宇宙の根本仏のことで、仏像には普通、大日如来を真ん中にして右側に観音様(壷を持つ=凹=水)、左側に不動明王(剣=凸=火)を配置するという。 つまり、観音様は肉体で、「不動明王は精神を現す」といわれる。 これは、人の腹、首、頭の三位一体を教えているともいう。

不動明王の精神は、仏道に導くために煩悩を打ち砕き、悪魔を下し、邪物を畏怖せしめ、菩提の心が揺るがないことから不動という。 押し寄せる大波(煩悩)を粉々に打ち砕く不動様を特に「波切不動明王」と信じ、この不動様を拝めば、どんな嵐でも船は安全であり、
大漁もまた間違いなしといわれる。  
朱色が鮮やかな三重塔が石段の途中の左側にある。



青龍寺・三重塔


青龍寺」は、弘法大師が唐の都・長安のにちなんで建立したという。  また、平成の大横綱と形容されるモンゴル出身の「朝青龍明徳」という「しこ名」は、四国霊場・青龍寺に因んで名づけられた。 明徳の名は、同寺の近くにある出身校であり、高校野球でも有名な明徳義塾高校の名をを付けたもの。
因みに、「朝青龍」の所属するの髙砂部屋は現、若松親方(元大関・朝潮太郎)で、出身は室戸市である。


横浪スカイラインへは、更に屈曲した道を登り、細長く伸びる横浪半島を縦走する。
高知県内一番の人気のドライブウェイというが、小生にとっては見慣れた風景でもある。 南に荒々しい太平洋、北には四国山脈と南国の保養地・入江三里といわれる鏡のように穏やかな内海(浦の内)を望め、半島全体が深緑におおわれて目にも優しい。 
横浪黒潮ライン途中に休憩所があり、ここに、龍馬と同じく土佐藩の幕末志士の一人、武市半平太(瑞山)の堂々とした像が立つ。

至誠の人・武市半平太瑞山(1829年~1865年)は桂浜、浦戸湾の近くで生まれている。
幕末・安政期、桜田門外の変(大老・井伊直弼の暗殺事件)の後、半平太は土佐藩の下級武士を集結させて土佐勤王党を結成する。龍馬も加盟するものの、早くから自らの土佐藩に見限りをつけ脱藩し、半平太と進むべき道を異にしたのである。龍馬の脱藩を知ったとき半平太は「土佐にはあだたぬ (狭い土佐にはおさまりきらない)奴よ」と言ったという。
半平太は、その後も土佐藩を勤王思想・尊皇攘夷で統一しようと活動を続け、一方の龍馬は勝海舟と出会い、開国論に目覚める。 二人は、其々違った道で世の変革を求めるが、半平太は公武合体派の山内容堂の弾圧にあい投獄され、慶応元年(1865)、道半ばにして36年間の生涯を閉じている。



辞世の歌は・・、
『 ふたゝひと 返らぬ歳を はかなくも 
           今は惜しまぬ 身となりにけり
  』

維新後、山内容堂は武市を殺してしまったことを何度も悔いていたという。 しかし、維新後、木戸孝允は旧土佐藩主山内容堂との酒の席で酔い「なぜ武市を斬った・・?」と容堂をなじったが、容堂は「藩令に従ったまでだ」と答えたとも言う。

勤王党仲間内でも、一死君国のため脱藩した志士達も、お互いを呼び合う時は全部土佐弁丸だしでオンシ、オラを使い、年齢の後先はなかったという。身分の上下を越えて、みんなオンシ、オラで、このオンシ、オラは勤皇志士の合言葉でもあった。ただ、武市瑞山は別で、一枚上であったという。皆は瑞山先生とか、武市先生とか呼んだという。「瑞山」とは号(ごう)で、武市を称える名称でもある。

「維新土佐勤皇史」には、次のような記述がある・・、
『身長は2m近い。すらりとした長身。顔は青白いといっていいほど白く、鼻が高く、顎の張った骨っぽい表情。その表情は、滅多なことでは動かず、目に尋常ならぬ鋭い輝きがある。ひとたび口を開けば、音吐高朗、人の肺腑に徹する。人格、また高潔、一枝の寒梅が春に先駆けて咲き香る趣があった。』
武市の人格を評するには「人望は西郷、政治は大久保、木戸(桂)に匹敵する人材」といった言葉が残されている事からも、高潔な人物であったことが伺える。

坂本龍馬と半平太の出会いは、龍馬が初めて江戸へ剣術修行(千葉道場)に出たとき、土佐藩下屋敷で一緒になったのが始まりで、半平太は龍馬より6歳年上、このとき龍馬は19歳、半平太は25歳であった。 
半平太は、城下でも謹厳実直できこえる器量人で、しかも几帳面。龍馬とは正反対のタイプで考え方においても、事あるごとに二人は対立したようであるが、どこかでウマが合い、竜馬を弟のように思い、仲が良かったと言われる。 尤も、龍馬とは遠縁にあたるともいう。

次回は、窪川町の「あぐり」・・?



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2011年1月25日火曜日

日本周遊紀行(69)高知 「いごっそう・龍馬」

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 日本周遊紀行(69)高知 「いごっそう・龍馬」  ,




写真:土佐の高知の「桂浜」

桂浜から大洋を見据える「坂本竜馬像」



“いごっそう” 土佐の龍馬は、政治家より経済人を夢見ていた・・! 、  

一旦、はりまや橋の大交差点に戻り、今度は右折して県道34号線を、やや浦戸湾に沿いながら「桂浜」へ向かう。途中、「横浜」という地名に出会った。 神奈川に住む小生にとっては懐かしい名前である。
思えば、東日本を周遊している時、青森の下北半島の付け根部分にあたる所に「横浜町」というのが在った、たしか、日本一の菜の花の名所と記憶しているが。 もっとも、横浜という名称はありふれた名で、浜の近辺なら何処にあってもふしぎではないが・・! 

横浜から瀬戸の住宅地を抜けると、突然、太平洋へぶち当たった。標識に従って、左折し、清々した海岸を行くと、間もなく高台の曲がりくねった道より大駐車場へ出た。
桂浜の駐車場で近くには、土産、物産の販売所がある。 
本日、土曜日であるが、朝まだ早いことから車や人影は殆ど無い。岬の先端の石段を下ると、箱庭のような桂浜の風景が目の前に広がった、土佐を代表する名勝・「桂浜」である。

大海原と青くこんもり突き出た岬(上龍頭岬)との配置景観が実に良く、ハートに響く・・!、満月の夜景を想像しながら「月の名所は桂浜・・」に納得である。 
砂浜に整備された遊歩道をゆく、高台の竜頭岬には土佐を代表する志士「坂本龍馬像」が遥か太平洋を望んで、堂々と建つ。

1866年(慶応2)、京都・薩摩藩邸、奥座敷の一室に長州藩代表の桂小五郎(木戸孝允)が控える。 別室に薩摩藩代表小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通が着座して居る。 竜馬が駆け込んで、西郷に向かって「おはん等、未だ思案しちょるんか、くだらん意地でこの同盟を、この日本を、だめにしてしまうんか・・!!」 大きな目を正視していた西郷は、一時して「分かりもした・・」と言って立ち上がり、別室の桂に歩み寄り、深く頭をたれて「よろしゅう、おたの申す・・」と、遂に、ここに坂本竜馬の努力によって薩長同盟が結ばれ、これが歴史の流れの大きな分岐点となり、倒幕・維新革命への大きな流れを起こすことになる。
後に竜馬は、西郷のことを「西郷は馬鹿だ!!しかし、馬鹿さの幅が分からない、小さく叩けば小さく響く。大きく叩けば大きく響く・・」と言わしめた。

坂本龍馬は、高知の城下町に住む郷土(※1)の次男として生まれ(1835年)ている。 青年時代江戸に出、千葉道場(千葉周作)で北辰一刀流を学んだ剣士でもある。
武市半平太(瑞山)卒いる土佐勤王党(※2)に参加し後、脱藩して勝海舟に師事して海軍建設を計画し又、長州・木戸孝允、薩摩・西郷隆盛を説いて、慶応2年(1866年)薩長両藩の同盟協約を成功させる。
龍馬は、この薩長同盟の勢力に土佐藩を加え、これを背景とする王政復古(天皇制)を考え、土佐藩の参政、後の藤象二郎を説き、立憲的な議会制度を基とする新政府の出現を期した。
主君・山内容堂(15代土佐藩主)は、後藤の提案を受け入れて慶応3年将軍徳川慶喜に大政奉還を建白した。 将軍も時勢を察し、京・二条城において、政権返上を朝廷に上奏した。 
龍馬は、これを喜び新政府創立に奔走したが、11月15日京都河原町「近江屋」で幕府方の刺客に襲われ、同志・中岡慎太郎とともに凶刃に倒れた。
時に龍馬は33歳、慎太郎は30歳であった。

海援隊を組織し、海事貿易も行っていた竜馬が、もし殺されずに明治時代を生き抜いていたら、岩崎のかわりに坂本家が日本一の財閥になっていたのでは・・?とも云われる。
元々、竜馬は国内の政治家としての立身は望んでいないようで、ゆくゆくは外国貿易に見え置き経済人として望みがあったともいわれる。 
それが大洋(外国、太平洋の先にはアメリカがある)に目を向けて建つ「竜馬像」の姿であり、志であった。

※1 長宗我部時代、一領具足という半農半士の制度を制定する。このことが上下関係のない自由で闊達な土佐人を生んだ。山内一豊が入府してからは、山内侍(上士)と旧士との間に区分が生まれ、旧士は上士に差別され、侮蔑され、馬鹿にされた。 そのうっ憤は、自然と文武両道の錬磨に打ち込み、旧士達は長年の間に土佐の反骨精神を高め、幕末維新の立役者となる原動力を身に付けたのであった。一般に土着の長宗我部時代の遺臣を郷士と称している。

※2 一藩勤王を唱え、攘夷に立ち上がるため、武市半平太(瑞山)が文久元年(1860年)8月に結成した結社。 坂本龍馬、中岡慎太郎といった面々も含め、190余名が加盟。そのメンバーのほとんどが郷士、下士、庄屋といった下士層で構成されている。武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎、吉村虎太郎は土佐勤王党の四天王といわれた。
 
『 みよやみよ みな月のみの 桂浜 
          海のおもより いづる月かげ
 』 

土佐出身の大町桂月が詠う。


裏山の浦戸城趾は戦国の昔、長宗我部元親の居城として四国統一の中心となったところである。また、山頂には国民宿舎桂浜荘、坂本龍馬記念館がある。 
桂浜を望む龍頭岬の北側対岸は、浦戸湾口を跨ぐ巨大な浦戸大橋で結ばれ、種崎の岬に到っている。
歌でも知られる「浦戸湾」は、入江状になって高知港を形成している天然の良港であるが、現在の浦戸湾は広範囲に埋め立てられ、かなり縮小しているといわれる。 だが、昔は高知の市街地を含んだ広大な湾域であり、流入河川も多く半汽水湖を形成して、魚の種類も多かったという。
「よさこい節」に言われる・・、

『 言うたちいかんちゃ おらんくの池にゃ
                 潮吹く魚が泳ぎより
』 

回遊する土佐湾名物の鯨が浦戸湾に入り込んできて、暫しの休息をしながら,多くの餌魚を漁っていた、こんな風景は、まんざら作り話しでもなさそうである。

次回は、宇佐、「横浪の道



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2011年1月24日月曜日

日本周遊紀行(69)高知 「山内一豊と千代」

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 日本周遊紀行(69)高知 「山内一豊と千代」   、


山内一豊の妻 千代は、土佐・「はちきん」の起源になっている・・? 、

戦国期、土佐及び四国一帯を治めていた長宗我部氏の居城は、現在の桂浜に沿った高台にあたる「浦戸城」であった。
往時は、ここが土佐の中心であり、地元で四国土佐の人物はといえば坂本龍馬を指すと思うが、地元の人は、実は「長宗我部元親」(ちょうそかべ もとちか)を指す場合が多いと言う。(理由は後ほど・・、) 

長曽我部氏は、泰氏の後裔と称している。秦氏の一族でとりわけ著名な秦河勝は、聖徳太子の信頼に応えて多大な功績を挙げ、恩賞として信濃国を賜っている、泰氏は信濃に住して豪族に成長していった。
平安末期の「保元の乱」、更には、鎌倉初期に起った「承久の乱」に、幕府方に味方した信濃の秦氏の子孫・秦能俊がその功により土佐国の地頭となり、長曽我部郷に移ったとする説が有力とされる。
長宗我部氏の初代とされる秦能俊が土佐に入り、はじめて居住したのは長岡郡宗部郷(宗我部郷)であり、能俊は地名をとって宗我部氏を称したが、長岡郡の一字をとって「長宗我部」と名乗ったという。 

長宗我部能俊の子孫は、官領・細川氏(土佐の荘園主)の庇護のもとに次第に勢力を拡大、戦国時代には大雄・長宗我部元親を輩出する。
元親は土佐を統一し、勢いで四国制覇を成し遂げる。 しかし、中央で制覇を確実なものとした秀吉や家康に刃向かったため、次第に没落していく。 
江戸期には、新興の山内武士団により圧迫されながらも、長宗我部の残存武士団は一領具足という半農民などに身分を変え、後に郷士となって幕末に坂本竜馬などの志士を生み、明治の革命を起こす原動力にもなる。 このあたりが歴史の妙味でもあるが。


関が原の合戦後、長宗我部氏に代わり徳川家康によって土佐一国を拝領したのは山内一豊であり、遠州・掛川からの移封し、1601年(慶長6年)に土佐へ入国した。
初め浦戸城入城であったが1603年、新城の普請工事を突貫で挙行、領民を総動員してこれに当たらせ、完成したのが現在の高知城である。
高知城は掛川城にそっくりだといわれる。
一豊が掛川城から高知へうつり、城を築くときに「掛川のとおりに築城せよ・・!」と命を下した。 現在のお城は、宝暦3年(1753年)に創建当時の姿のまま再建され、250年後の今日まで本物の城の持つ偉容を保ち、「南海道随一の名城」と呼ばれる優美な姿を残している。


山内一豊は戦国期の武将で、織田信長に仕え、その後豊臣秀吉に仕えている。
小田原の役の後、遠州掛川6万石となり、関ヶ原合戦では徳川家康につき、土佐24万石を拝領している。
妻の内助の功により、駿馬を買って信長の好意を得、出世する話は有名である。 その内助で知られる妻・千代ではある。
戦国時代の女性は「主人の無事を祈り、家を守る」という重大使命があり、特に重職にある妻は「陰の参謀」とまで言われ、これが夫の出世に多大な影響を及ぼしているのである。 
山内一豊は案外、真面目で凡庸な武士であったらしく、妻・千代の陰の力、思考力、洞察力、行動力が有ってこそ、一豊を大名たらしめたともいわれる。 

裁縫が得意な千代は、小袖を仕立てて秀吉に献上した。 所謂、小袖外交もその1つであるが、関が原合戦の直前、秀吉子飼の大名が西に付くか東に付くか思案している時、妻・千代は書簡を夫・一豊に送り、更に一豊は家康に差し出して、家康側(東側)に付くことを宣言する。 秀吉子飼の大名達もこれに倣ったという。 
合戦後、家康は「この度の合戦の功は、第一に一豊にあり・・!」と評されて、土佐一国を賜ることになるのである。
無論、妻の陰の力と愛があったわけで、家康も当然承知していたのであった。 


高知の女性を称えるのに「はちきん」という言葉があるという。
男勝りに働く女性を意味する言葉で、俗っぽい言い方をすれば、「 男には弐金付いていて、4人で八金である」。 つまり、「はちきん」というのは男4人分の仕事をする女性を表す。 この女性のはしりが「一豊の妻・千代」であると言われる。

ところで、山内一豊の妻 千代は、「千代紙」の名前の起源になっていることは、その真偽はともかく余り知られてない。 
一豊が未だ50石どりの貧乏小武士だったころ、千代は不要になった小袖を切り込み、四角い破切れにして縫い合わせ、継ぎ接ぎ小袖として着用していた。 周囲の女どもは、始め妙に眺めていたが、意外とそれが洒落てて見た目も綺麗に映った。
その内評判になり、やがて秀吉の妻・ねねや信長の妹・お市の方、そして秀吉自身にも創作、縫い合わせして進呈したというが・・?。 
この歯切れの形や色柄(今で言うパッチワーク)が、和紙にも普及し、これがやがて千代の名を付けて「千代紙」になったという。


因みに、「千代紙」と「色紙」について
分類すると千代紙は和紙、色紙は洋紙である。 日本古来の紙はむろん和紙であり、「千代紙」の折り紙は日本の伝統技術であり、千代紙自体、日本の伝統的な図柄として和服にも使われる事が多かった。 
洋紙が導入されるに及んで、和紙では比較的高価であり、厚薄の不揃いで折り目がつきにくい理由て次第に、単色の洋紙の「色紙」、折り紙が普及していったという。

風合いを楽しむ和紙・千代紙は障子紙や「色紙・しきし」等に使われている。  
因みに、和紙の効用として、埃を吸い取る(微小な隙間が、微弱電気を帯びてプラスのほこりを吸い取る)、湿度を調節する、臭いを吸着する、UV (紫外線)をカットする、目に優しい、和紙の服はいい、和紙の寝具等々・・。 
起源としては他に有力なのが京都で、千代紙のことを「京紙」とも称し、京都の伏見宮あるいは閑院宮の千代姫が愛好されたので名付けたという説もある。信憑性についてはどちらでもよいが、一豊の妻の「千代紙」が納得性があるかもしれない・・?

2006年、NHK大河ドラマ、司馬遼太郎原作の「功名が辻」・「山内一豊の妻」が放映された。
主人公・千代は、夫の立身出世を支えた「内助の功」の人物として有名。一豊が織田信長に仕えていた頃に、嫁入り支度のお金で夫のために馬を購入。心を込めて手入れをしたその馬が信長の目に留まり、夫の出世を助けたエピソードで知られている。
千代に仲間由紀恵、一豊に上川隆也。

一豊の家臣に武田鉄也演ずる「五藤吉兵衛」がいる。 先代から一豊のいわば守役として幼い時から仕え、放浪時代にもつき従ってきた。
賤ヶ岳(秀吉と柴田勝家)の合戦直前、伊勢亀山城攻めの際、主・一豊に手柄をとらせようと奮闘、壮絶な最期を遂げる。 
この吉兵衛の子孫が高知市内に在住で、古風格な居を構え現在、高知城近くで本屋を営んでいる、と噂できいたが・・?。

次回は、土佐の“いごっそう”・龍馬




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2011年1月23日日曜日

日本周遊紀行(69)高知 「よさこい節」

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 日本周遊紀行(69)高知 「よさこい節」  ,




現代の土佐の高知の「はりまや橋」と高知城


土佐の高知の はりまや橋で
土佐の高知の「よさこい節」は昭和30年代、ペギー葉山が「南国土佐を後にして」歌って大ヒットした曲で、南国土佐を全国に知らしめた。 そして、半世紀たった今日、今度は「よさこい・ソーラン祭り」で全国的に有名になった。

1991年、愛知出身の北海道大生(長谷川岳)が、高知の「よさこい祭り」を目にして感動。大学生は北海道にも「よさこい祭り」のようなお祭りを作れないかと、学生ばかり100名以上の仲間で「YOSAKOIソーラン祭り実行委員会」を発足している。
最近では(2007年)参加チームが340、観客動員数は200万という札幌では「札幌雪祭りに」に次ぐ大イベントになっている。
因みに、小生の娘と孫も東京・町田で「踊り連」を形成、練習に励んでいて、この度(2008年)の札幌の祭典に小生家族共々参加し、思い出に残している。


一方の高知では・・、
戦後の復興の中、徳島県の阿波踊りに負けない、市民の祭りをつくろうと高知市商工会議所が中心となり、昭和29年「第一回よさこい祭り」が開催された。
「阿波踊りの素手に対して、鳴子を手に持とう」と提案。 鳴子とは、稲に群がる鳥などを追い払うために、揺らして音を出す農具として作られたものを手に持つように改良されて、現在の形になったという。今日では両手に鳴子を持ち「よさこい鳴子踊り」のフレーズを曲に入れる以外、踊り方や衣装は全く自由というお祭りとして発展し、現在では130チーム以上、約1万5千人が参加しているという。

さて土佐の高知の「播磨屋橋」の現況は・・?、
高知港の入江運河とも思える、幅のある国分川の橋を渡ると高知市街のビル群が現れる。 
先ずは高知の名所・・?、「はりまや橋」(播磨屋橋)を目指す。 
高知市街の目抜き通りと思しき大きな交差点(はりまや橋)を右折すると高知駅へ向かうが、直ぐに「はりまや橋」と大きな標識が頭上にあった。 しかし、辺りを見回すとそれらしいものは見当たらない、探しながら気がつくと脇道の路地風の所に可愛い紅い橋が設けて在った。

小生が20代に訪れたときは、大通りに「欄干のみ」があって、そこに名前が付されてあった、と記憶しているが・・?。 
昔は、この大通りに欄干に見合う大きな、立派な、そして華麗な「播磨屋橋」が架けられてあったのだろう・・? 
現在の、はりまや橋は、取って付けたような、朱色の飾り橋で、俗人に言わせれば「日本三大ガッカリ名所」と嘯(うそぶく)かれているとか・・?。

「はりまや橋」の始まりについては、『 是ハ先年モ無之処、播磨屋宗徳北地ニ住居、南地ニ櫃屋道清住居、此通行之為仮橋ヲ掛通路ス、是ヨリ播磨屋橋ト申馴、其後ハ公儀ヨリ御作事也 』、と「高知風土記」述べられているらしく、播磨国播磨(兵庫県)の出身で江戸初期の豪商・播磨屋宗徳(播磨屋)と同じく商人の櫃屋道清(櫃屋)とを往来する為に、掘割川に架けた個人的な橋であったが、後に公橋になったようである。

序に、この辺りの「はりまや町」は、西武、大丸などのデパートや帯屋町・京町などの繁華街が並んでいる。
はりまや橋の交差点を中心に路面電車が、東西南北に運行し、北(JR高知駅)南(高知港)東(南国)西(伊野)と分岐している。やはりというか、「はりまや橋」、その名も、「はりまや町」は、高知市の中心でもあった。
 
よさこい節』 高知県民謡
土佐の高知の はりまや橋で
坊さん かんざし 買うを見た
ヨサコイ ヨサコイ
御畳瀬(みませ)見せましょ 浦戸をあけて
月の名所は 桂浜
    (以下、繰り返し)

南国土佐を後にして』 歌:ペギー葉山
南国土佐を 後にして
都へ来てから 幾歳ぞ
思い出します 故郷の友が
門出に歌った よさこい節を
「土佐の高知の ハリマヤ橋で
坊さんかんざし 買うをみた」

月の浜辺で 焚火を囲み
しばしの娯楽の 一時を
わたしも自慢の 声張り上げて
歌うよ土佐の よさこい節を
「みませ見せましょ 浦戸をあけて
月の名所は 桂浜」

国のおやじが室戸の沖で 
鯨釣ったと云うたより
僕も負けずに励んだ後で  
唄うよ土佐のよさこい節を
「云うたちいかんちゃ おらんくの池にゃ 
潮吹く鯨が泳ぎよる  よさこいよさこい」

南国土佐を後にして」の原曲は戦中、戦後まもないころ、四国、土佐地方の軍属関係者によって歌われていたが、昭和30年代なってNHK高知放送局の電波に乗りレコード化され、つぎにペギー葉山が歌って大ヒットしたものである。 元歌は「よさこい節」である。

「よさこい節」の歌詞〈一番〉については、一般に、五台山・竹林寺の御坊「純信」が、思いをかけた人「お馬」のために、「かんざし」を買って与えた、そこが、はりまや橋のたもとにあった小間物屋であったと言われている。 これがいつのまにか評判になり、よさこい節で歌われ有名になってしまったという。

当時、仏僧の色恋沙汰は御法度であり、二人は逃避行(かけおち)を選び、伊予へ逃れる。 土佐から伊予へ山深い峠を越えていくが、その峠の名が「予佐越」=よさこい峠であり、これが題名になっているという。
予佐越峠は高知の西隣・伊野町からR194号で北上し、本川村で県40号(石鎚公園線)で石鎚山方面に行く、この県境付近の石鎚山を望む峠のことで、ここ山深い峠に小さな標があり、哀しい物語の結末が書かれた小さな看板と共にひっそり佇んでいるという。
現在、予佐越峠は西日本では最高峰を誇る四国の名峰(日本100名山)・石鎚山の登山基地になっているとか。

ガッカリの名所”の「はりまや橋」を後にして、高知城へ向かう。はりまや橋の交差点を西に行くと、間もなく「高知城」である。
高知城正面に高知市役所が在り、更に、堀の内に県庁がある。 緑と史跡の城下公園内に無味無粋なコンクリートの高層建物が存在するのは、美観を甚だ損なっているが・・!!

市役所横から右方角へ行ったところに、高知城の玄関口「追手門」があった。
高知城の表門で、石垣の上に載せた櫓(やぐら)門が城の大手(正面)にふさわしい堂々たる構えをみせている。 
門を潜ると早速「板垣退助の像」がある、「板垣死すとも、自由は死せず・・」という名言は有名であるが、実際には死ななかったともいうが。 板垣は、土佐出身の自由民権の創始者であった。

気がつくと、後ろの木々の間から華麗な天守閣が覘いている。 
杉の段(「井戸の段」とも呼ばれた。藩主自らこの井戸段に出向いたという。また、藩主のお国入りや出駕の際には、ここに一族が出迎えや見送りに出向いてきた所)と呼ばれる広いスペースから 鉄門をへて本丸・天守閣へ向かう。
周囲土台を重層な石垣で築かれ、その上に堂々と城郭・天守閣が聳える。 
四重五階の望楼型天守で、最上階には廻縁(まわりぶち)の欄干が付けられている。 
華麗にして優美であり、ここから高知の市街が一望できる。
天守閣、追手門は築城当時の姿を留めている、数少ないお城の一つであるという。(本丸御殿、天守閣とも、国の重要文化財に指定されている。

次回は、山内一豊



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2011年1月22日土曜日

.日本周遊紀行(69)高知 「五台山と牧野富太郎」

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日本周遊紀行(69)高知 「五台山と牧野富太郎」  、



写真:高知県で唯一の竹林寺「五重塔」



高知県の偉人の一人・牧野富太郎

世間が、今日の活動を開始する前の早朝、出立する。 未だ人の気配もマバラな後免駅前に出た。
この駅は、旧来の土讃線に乗り入れている「ごめん-なはり線」(土佐くろしお鉄道)の始発駅でもある。駅舎は真新しく、やや円形を帯びたモダンな造りである。
それもその筈で土佐くろしお鉄道は、ごく近年の2002年(平成14年)7月に開業したばかりであった。


高知の市電であろうか・・?、行き先表示に「ごめん」と書いた黄色味を帯びた電車が、路面を滑るようにゴーゴーと音を立てて通り過ぎてゆく。 そう云えば、ここ後免町がやはり終点のようである。この電車道を横切るようにして、とりあえずへ出て、そして一路、高知市内を目指す。

すぐにT字路の大きな交差点が現れた。 こちらは高松へ通ずる国道32であり、高松市から高知市へ至る幹線国道である。 つまりは国道55はこの地が終点のようである。
思えばR55号は、四国へ上陸した直後の徳島から、ここ高知の後免町まで概ね辿ってきた道程であった。
徳島市から小松島、阿南、室戸岬を越えてこの地まで、所謂、現代の遍路道でもあり、多くのお遍路さんが利用する道にもなっている。 聞くところ日和佐の薬王寺から室戸岬の最御崎寺までの長い道のり、約75kmの間には札所寺院がないため、夏の暑い日などは、日中を避けて夜を徹して歩く遍路さんも多いようである。


以降、高知方面の32号線を走ることになる。
途中、標識に「五台山」、「牧野富太郎記念館」とあり、左方には小高い丘のような、小山のようなものがコンモリと見えている。 
五台山公園で頂上には第32霊場「竹林寺」があり、麓に牧野富太郎記念館があった。


五台山にある竹林寺
山門の階段下からの眺めはなかなかのもので、今頃の若葉の時節もいいが、紅葉の季節には京都寺社の風景にも負けないくらいの絵になる景色であろう。本堂・山門・本堂南側の赤色の社殿・五重塔などが見事に並んでいる。 
「五台山」とは、元もとは峨眉山、九華山、普陀山とともに中国仏教の四大聖地の一つで、(現、山西省五台県の東北部に位置する)奈良期、「行基禅師」が唐の五台山で修行、帰国後、諸国を修行中に当地を訪れ、地形が五台山に似ているので命名したという。 

ここにお堂を建て、文殊菩薩を納めたのが「竹林寺」の始まりであった。 
文殊菩薩は「三人寄れば文殊の知恵」の文殊で、知恵の菩薩様であることは周知であるが、この文殊の「高い知恵」に因んで、「高知」の地名が生まれたともわれる。

境内上部にチョッと派手色の赤味がかった「五重塔」が立つ。 
寺にはかつて三重塔があったが、明治32年の台風で倒壊してしい、現在、境内にある五重塔は高知県で唯一のものとして、昭和55年に完成したという。  高さ31mの木造の塔は国内でも珍しく、総檜造りで、鎌倉時代初期の様式に倣っているという。
又、竹林寺の庭園は、鎌倉から南北朝時代に学僧・夢窓国師の作とされ国の指定名勝となっている。
「文殊の知恵」にあやかろうと受験シーズンには合格祈願に大勢の人が訪れるという。

土佐の高知のはりまや橋で 、坊さんかんざし買うを見た、よさこいよさこい』、と「よさこい節」に唄われている。 実は、江戸時代に実在したお馬という女性と僧侶との悲恋物語が歌い込まれている。 その僧侶の名を純信といい、竹林寺脇坊・南の坊の修行僧であったという。(次回で詳細述べる予定)



五台山の東側に牧野富太郎植物園と記念館がある

『 草を褥(しとね)に 木の根を枕 花と恋して 九十年 』

「高知県の偉人は?」と尋ねられたならば、土佐の人は、迷わず牧野富太郎博士の名前をあげるという。
「牧野富太郎」は、著名な植物学者で知られる。 

私は生まれながら草木が好きである。何故に好きになったという動機は何にももない。5,6歳の時から町の上の山へ行き、草木を相手に遊ぶのが一番楽しかった。」幼少の頃より病弱で、ひとり動植物に親しんだという。

富太郎は、文久2年(1862)4月,高知県高岡郡佐川町(高知市佐川町)に生まれている。 小学校を中退し、家の資産を食いつぶして植物の採集と分類に没頭、財産を使い果たしたあとも、貧困に苦しみながら研究を続けた。 そのため、独学・苦学の研究者として有名である。上京して東京帝国大学理学部植物学教室に出入りを許され、谷田部良吉教授(明治時代の植物学者)らもと接している。

植物研究のため実家の財産も使い果たし、さらに妻が経営する料亭「いまむら」の収益もつぎ込んだ。 その料亭の件や、当時の大学の権威を無視した、「植物図鑑」等の出版が元で大学を追われたこともある。しかし、彼自身、名誉とか権威という自己欲には全く無頓着で、逆に、当時の帝大教授たちや学界の権威といったものの「愚かさ」を浮き彫りにさせたともいう。

『 何よりも 貴き宝 もつ身には 
         富みも誉れも 願はざりけり
 』

この時期、妻の壽衛(スエ)が54歳の若さで死去している。

『 朝な夕なに 草木を友にすれば さびしいひまがない 』

仙台にて新種の「ササ」を発見、翌年、ササに妻の名を入れた「スエコザサ」と命名している。
牧野富太郎は、植物の種類に精通し鑑定の的確なことでは他人の追随を許さず、日本の本草学を植物分類学へと転換した第一人者である。
その反面、近代生物学の理論的な面はほとんど理解しなかったという。
主著(1908年)は何度か改訂改題を重ね、現在は『原色牧野植物大図鑑』として刊行されている。

1948年、86歳の時、皇居を参内し天皇陛下に植物学を講義されている。 
日本学士院会員(1950年)、文化功労者(1951年)、東京都名誉都民(1953年)などに選ばれる。1957年(昭和32年)1月18日永眠、 没後、文化勲章を授与される。 
「日本の植物学の父」と呼ばれる牧野富太郎の生誕日(4月24日)を記念し,この日を「植物学の日」としている。

次回は、土佐の高知の「はりまや橋



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2011年1月21日金曜日

日本周遊紀行(68)南国 「土佐の国司・紀貫之」

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 日本周遊紀行(68)南国 「土佐の国司・紀貫之」  、



紀貫之は「土佐日記」に、この地で亡くした娘を思い、

『 都へと 思ふをものの 悲しきは 
          帰らぬ人の あればなりけり
 』
と詠んでいる、


昨夜は、蛙の子守唄で寝に就いたが、今は全く昨夜の合唱が嘘のように、朝のシジマ(静寂)の中にいる。
蛙の合唱で気がついたことがある。
歌声は波のように響き渡り、その波が次第に小さくなって一瞬止むのである。 始まりは先ず殿様蛙が第一声を発すると、次に重臣諸侯が歌いだす、その後は一族郎党が一斉に大合唱で歌いだすのであり、それの繰り返しである。 端的な例かもしれないが、ベートーベンの第九交響曲(合唱)の第四楽章の合唱シーンで、先ずリードシンガーの男性ソロ、女性ソロが歌いだし、次に選抜された男女諸氏が歌いだす、その後は男女混声大合唱団が一斉に歌いだす、これを何回か繰り返す。
昨夜はこんな事を感じ入り、想像しながら眠りについたのであった。


時に、早朝5時少々過ぎた頃、先ずは今日も好天のようだ。周囲は青々とした田園が広がっている、民家は周囲にポツポツとあるだけで、いわゆる日本の原風景を感じられる。
蛙の合唱が、ベートーベンの第九交響曲「合唱」に譬えられるなら、こちらの風景はさしずめ、ベートーベンの第六交響曲「田園」であろうか。 
しかも、南国市は、土佐の稲作の発祥の地といわれている。 この地方は日本でも温暖、多雨であり、その恵まれた自然と環境を生かし、現在でも米の二期作が盛んなところでもある。


ここは四国・南国市の外れ、都会の田舎である。
昨夜、「ながおか温泉」に立ち寄ったが、「ながおか」という名称は、この周辺の小学校の建物などの一部に残るが、地域名、行政名としては既に無い。 昔は長岡郡長岡村と称して、立派に存在していたが、町村の合併によって消失したらしい。 尤も、この地区の遥か北方、本山町、大豊町は長岡郡として、僅かにその名残がある。


近郊北方に「比江」、「国分」といった地名がある。 
この地区は古代、土佐の都があった所だという。奈良時代、この地に国分寺が建立され、前後して土佐国府が置かれ、土佐の中心地となった。 これに伴って、京と国府を結ぶ官道が、四国山地を横断する道や海路を辿る道とが開かれた。 
だが、都の人々にとって土佐は、あまりに遠く「遠流(おんる)の国」とされた。 しかし、その都からの流人達が都の文化、芸術や学問をこの地に伝え、この国の歴史を造ったともいわれる。
平安時代には、紀貫之が「土佐日記」を著したことは有名である。 しかし、この地に土佐守(土佐国守)として、赴任していたことは、あまり知られていない。 
土佐日記は、紀貫之が国司の任期を終えて土佐の国から京まで帰京する途中に起きた出来事や思いを書いた日記である。

『 男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて、するなり。 それの年の、十二月(師走)の、二十日余り一日の日の、戌の時に門出す。そのよし、いささかにものに書きつく。 ある人、 県の四年五年果てて、例のことどもみなし終へて、解由など取りて、住む館 より出でて、船に乗るべき所へわたる・・』

現語訳
( 男も書くという日記というものを女も書いてみようと思って書くのである。承平4年の、12月の、21日の午後8時頃に出発する。国司の館からの出立の様子を少しばかり紙に書き付ける。 ある人が、国司としての任期の4・5年が終わって、定められた国司交代の際の引き継ぎ事項、事務をみなすませて、任務完了の解由状など受け取って、住んでいた国司の官舎から出て、船に乗るはずの所へ移る・・)
 
旅日記は比江・国司の館を出発してから、京の自邸に着くまでの55日間にわたって記されている。 
「土佐日記」は平仮名で書かれた最初の日記風文学で、日本特有の「文字文学、ひらがな文学」が大きく発展するきっかけになったといわれている。

『 都へと 思ふもものの 悲しきは 
          帰らぬ人の あればなりけり 
』  貫之

50数日間という長い旅を経て貫之が、やっと京に帰ったときには、既に元の自分の家は荒れ果ていた。 この家で生まれた我が子を、土佐の僻地まで連れて参ったが、土佐で亡くしてしまった。 愛児への哀惜の思い、世の無常を感じ歌に詠んだ。 
紀貫之が国司の務めを終えて船出した港は、南国市の大湊であり、その公園に記念碑がある。毎年、「貫之出港記念祭」が開催されているという。

現在、国府の在った「比江」は見渡す限り広々とした田園地帯となっていて、国分寺だったとされる森だけがこんもりとして、その面影を残している。 
紀貫之は、醍醐天皇の勅命で「古今和歌集」撰進の中心となり、仮名序を執筆したことでも知られる平安前期の歌人、文学者で、漢文学の素養が深く、三十六歌仙の一人として古今調を作りだした。 他に「新撰和歌集」、歌集「貫之集」なども残している。


すぐ近郊の「岡豊」は、長曽我部元親が岡豊城を築き、後に高知の浦戸に城を移すまで、実に、この地域は千年近くもの間「土佐の都」であった。 
又、この地「後免」は江戸期、ここに入植し、開墾する者には土地を与え、租税や諸役を免除していた、この町は諸役御免の町「御免町」と呼ばれ、のちに「後免町」となった。 今は「南国市」の中心市街地を形成している。

南国市は「みなみのくに」という意味ではあるが、「国」を「ごく」とは呼ばず、「こく」と呼ぶことになり、「なんこくし」と呼称するそうである。

次回は、高知、「五台山と牧野富太郎



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2011年1月20日木曜日

日本周遊紀行(67)安芸 「土佐の海と岩崎氏」

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 日本周遊紀行(67)安芸 「土佐の海と岩崎氏」  、



ベテランになった大相撲の「土佐の海」 、

鮎漁で知られる、安田川の安田町から安芸市へ入る。
高知県安芸市出身、伊勢の海部屋・・、』、 幕内力士「土佐の海」のことである。
立会いで仕方なく「待った」をすると大きな声で「スイマセン!」と相手に礼をする、立会いから取り組み中は“ウオッツ、ウオッツ”と気合を入れながら取り、殊勲の勝利を挙げ、インタビューに答える時は、嬉しそうに極めて明瞭に返答する。 
又、敗れたときは土俵際で丁寧に“お辞儀”をし、且つ、突き押しの戦法を一途に取る彼は、姑息な手段で敗れても嫌な顔ひとつせず正々堂々と花道を引き上げて去ってゆく。

大相撲ファンの小生にとって、気合の入った角界でも最も紳士的な、こんな姿の「土佐の海」は大好きな力士の一人である。 
近年、30代半ばにさしかかり、力量不足も否めず、幕内下位に甘んじている。 尚且つ、土佐ノ海は、年寄名跡「立川」を取得したそうで、年寄株を取得すると、引退も近づいてきたようで寂しいが、年寄名跡を取得したことで、引退後も相撲界に残れるわけで、そういう意味ではややホッとはしている。 
もしもの引退した場合は、是非、NHK相撲解説で、あの明晰な口調によって相撲内容、相撲界を語って欲しい。
因みに、2003年夏に引退した元関脇「安芸乃島」(藤島襲名)は、同じ安芸でも、広島県豊田郡安芸津町の出身である。(金星16個・三賞・19回:殊勲賞7回、敢闘賞8回、技能賞4回 は共に歴代1位である)。 この力士も正攻法の取り口で始終し、小生の好きな力士の一人であったが。



安芸市井ノ口にある岩崎弥太郎の生家

江戸末期の安芸の著名人に、NHK大河『龍馬伝』でお馴染みだった「岩崎弥太郎」がいる。 三菱財閥の創始者である。
身分制度(後述)の激しい土佐国の「地下浪人」の子として生まれている。
地下浪人とは、無禄の藩士であり、収入を得るために自ら商売をしたり、力仕事をしなくてはならなかった。即ち、正規の土佐藩士たちから蔑まれ、常にいじめられる存在だった。家の事情を知る弥太郎は、幼少の時分より勉学に励み、幕末時に坂本龍馬や後藤象二郎の知遇を得る。

『 後日 英名ヲ天下ニ轟カサザレバ 
         再ビ帰リテ此ノ山二登ラジ
 』

山とは弥太郎生家(保存邸宅)の近く、妙見山の星神社のことである。
1873年に現在の大阪市の土佐藩蔵屋敷(土佐稲荷神社付近)に「三菱商会(後の郵便汽船三菱会社)」を設立、海運業を経営する。
この時に、三菱の商標(三菱マーク)が定められたそうで、見慣れたこの三菱マークは、岩崎家の紋である三蓋菱(三層にかさなった菱形を側面から見た形)と土佐藩主山内家の三葉柏(柏の葉三枚を図案化したもの)の紋を組み合わせたものだと云われている。 
台湾出兵・西南戦争の頃は軍事物資の運搬を独占し、莫大な利益を上げて三菱は急成長する。 国内船舶の7割を押さえ海運業を独占した時期もありその後、日本郵船となり三菱財閥の源流を創る。

岩崎弥太郎は元々、海援隊員(坂本龍馬が中心となり結成した貿易結社)でもあって海運業に力を入れ、「東洋の海上王」と呼ばれるまでに発展する。
海援隊」を創った坂本龍馬は、幕末の政局急変の時期、主役には躍り出ず脇役で通した。彼は政治家より、海外貿易などを通した経済人が望みだっらしく、長崎時代は、かのトーマス・グラバー氏(英国商人・グラバー商会を設立)に強く影響を受けていたという。
グラバーは1881年(明治14年)、官営事業払い下げで三菱の岩崎弥太郎に高島炭鉱(グラバー経営)を譲るが、三菱財閥の相談役としても活躍し、岩崎に勧めて後の麒麟麦酒(現・キリンホールディングス)の基礎をも築いている。 岩崎弥太郎はグラバーの思いに従い、坂本龍馬の意思をも継いだのかもしれない、明治18年(1885年)、52歳の若さで亡くなっている。なお弥太郎の娘婿から加藤高明及び幣原喜重郎の2人の内閣総理大臣を輩出している。


安芸の市街を抜け、阪神タイガースのキャンプで知られる「安芸ドーム」をを右にみながら、夕刻迫った土佐街道を行く。 「土佐くろしお鉄道」と並行し、芸西村、夜須町等を後にしながら「物部川」を渡って南国市に来た。

ところで本日は、未だ宿泊の場所を決めていない、どうすべきか思案しながら、先ず近くの温泉地の有無を確かめた。スタンドのオニイサンに聞いたところ「ながしま温泉」が近くに在るとのこと。 

R55より北方、後免駅の近くらしい、電話番号よりカーナビを頼って目的地へ向かった。
市街地より離れ、田園地帯も混在する静かな住宅地の離れたところに、一際大きな建物が「ながしま温泉」であった。 
新装したばかりの和式のゆったりした館内であり、浴室、湯船、露天風呂とも石を基調とした造りとなっている。湯に浸かり、道中の緊張した体を解す、このリラックスした気分は変えがたい。
泉質がナトリウム・塩化物温泉の天然温泉というところも良い。
休憩は畳みの大広間で食事を摂りながら過ごす、今日一日の状況をメモに取りながら。
休泊は、田園路上の車泊としたが、側溝の水路の水音が些か気になったので、少々移動し、今度は蛙の声を子守唄に眠りに就いた。

次回は、土佐の国司・「紀貫之


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2011年1月19日水曜日

日本周遊紀行(66)田野 「二十三の郷士」

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 日本周遊紀行(66)田野 「二十三の郷士」  、



土佐勤王の志士とライオン宰相

ごめん-なはり
「奈半利」という町に来た。 ナハリと詠む。
人名や地名は、時に不可解な名称は当たり前であるが、何か気になるときがある、ナハリもそうである。この語呂が気になったので一応調べてみたが一向に見当たらない。一見アイヌ語ような響きがあるが、定かでない・・?「ごめん-なはり」とシャレ謝りをしておく。

実は、“ごめん-なはり”は後免-奈半利のことで、この奈半利は最近の平成14年7月に開通した「土佐くろしお鉄道」の起点であって、南国市の後免駅より東へ20番目の東の端の駅にあたる。別名「ごめん・なはり線」ともいっている。 これはさて置き、奈半利は由緒ある歴史の町でもある・・。


奈半利の町から北東にR493が、東海岸の東洋町野根へ連なっている。
地図上でみても細く曲りくねって描いてあり、一見して山間の難路が続くようである。R55の土佐浜街道と比較して、距離にして20kmほど短縮できる野根山越ながら、国道493号の道は決して快適とはいえない。 だが、現在も土佐・高知と阿波・徳島を結ぶ最短のコースに代わりは無い。
しかし昔は、阿波と土佐を結ぶには野根山街道のみであった。 

往時の野根街道は、奈半利から尾根づたいに野根に至る約35キロの只一つの街道で、国司、土佐流人の移動、調庸物搬入出の道として開発され、古代・養老年間(奈良中期)にはすでに利用されていたという。
戦国初期、長宗我部氏が四国制覇進行の軍略路として通い、藩政時代は参勤交代の通行路ともなった。 また幕末の激動には、中岡慎太郎をはじめ志士達の脱藩の道、二十三士動乱の道でもあった。室戸岬に立つ「中岡 慎太郎」は、この街道沿いの北川郷柏木で生まれている。
野根山街道は、今でも当時の面影をそのまま留めた、全国的にも珍しい歴史の街道であるといえる。


道の駅・田野」で一服する。 
正確には「田野駅屋」といい、“田野へ来いや”(土佐弁で田野へいらっしゃいと言う意味)という意味らしい。 
鉄道(土佐くろしお鉄道)の駅と一体となった珍しい道の駅でもあり、駅舎の一連の建物は巨大な木造、瓦屋根の建築である。
聞くところ、 田野町は古くから木材の集積地であり、木材製材工業が盛んであったという。 現在でも木材製品の流通の中心地であるらしい。 この駅舎は、そのアピールでもあり、シンボルでもある。

田野町は奈半利川西岸を挟んで、総面積6.56km2、住戸1300戸と小さな町域である。
しかし、江戸期は田野村の藩の御用商人(5人衆といわれる・・)が、奥地の山林資源の開発により富強となり、田野千軒が浦として繁栄した。その一部の豪商邸宅が完全に保存され、当時の建築様式がそのまま残されている。
幕末には安芸郡奉行所が設置されるとともに、藩校・田野学館が併設されて、安芸郡における政治・経済・文化の中心地として栄えたという。 幕末、高知の城下で尊王攘夷を唱える「土佐勤王党」が成立し、この田野の地区からも数人参画している。 

土佐藩は一時期、藩内の抗争、藩政に反抗する者として首領・武市半平太(瑞山)はじめ、主だった者14名が投獄されている。 この時、田野の郷士・清岡道之助を首領とする二十三士は、武市半平太らの出獄などを求める嘆願書を藩庁に提出した。 しかし、反乱分子とみなされて相容れられず逆に兵を向けられ、志士たちは抵抗すること無く捕らえられ、ここ奈半利川河畔において斬首されたという。

現在、河畔近く福田寺境内に二十三士の墓と碑および武市瑞山像があり、国道をはさんだ同公園内には、二十三士殉節之地碑が残る。 
首領・清岡道之助邸は典型的な郷士屋敷で、田野町が保存管理している。 因みに道之助の妻は、昭和初期“ライオン宰相”と呼ばれた浜口雄幸首相(田野町出身、明治生まれの初の内閣総理大臣)の叔母にあたるという。 近くに浜口雄幸旧邸も復元保存されている。

浜口は、明治生まれの初の第27代・内閣総理大臣であった。 
官僚出身でありながら、その風貌から「ライオン宰相」と呼ばれ、謹厳実直さも相まって強烈な存在感を示しつつも大衆に親しまれた首相であったという。 
濱口は「我国の貧しきを以て米国に追従せんことを到底思ひも寄らず」、「我国は国力の関係上仮令一切を犠牲とするも英米二国の海軍力に追従することを能はず」とまで述べている。
日本の国力、実力を知る浜口は、英米との対決は不可能であることを理解していた。 このことは国民生活の負担の軽減と見事にリンクし、戦後不況、社会不安が増大する中で、軍拡から軍縮に転換し、その軍縮余剰金を財源に国民負担を軽減する施策を提示したのであった。

次回は讃州・安芸「土佐の海



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2011年1月18日火曜日

日本周遊紀行(65)室戸 「岬と最御崎寺」

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 日本周遊紀行(65)室戸 「岬と最御崎寺」  ,


写真:室戸崎灯台


国道55号は、いよいよ室戸岬を目指す。
道路は「土佐浜海道」、「土佐東海道」とも称し、室戸への“V形の辺”を40kmほど太平洋を眺めながら、長い長い海岸沿いの道を南下する。 
特にR493が分岐する東洋町・野根と言う集落を過ぎると、打ち寄せる波濤と山崖が車窓に迫り圧巻である。 
しかし、沿道にはすっかり集落、人家がなくなってしまい、モノ悲しい雰囲気は否めない。延々と走ってようやく集落が現れた。 佐喜浜の浦という集落だが、人の気配が全く無く過疎化が感じられる集落でもある。

ここから先は急に道が細くなり、普通車のすれ違いもままならないほどである。 アップダウンも激しく、所々で人家の真前(まんまえ)を通過するようにもなる。
台風の備えであろうか、民家の前は石垣でしっかりガードしてあり、一種風物にもなっているとか。
気がつくと新道らしきのと合流した。 知らぬ間に旧道を走っていたようであるが、こらはこれで良しとする。

暫くして「室戸岬」のバス停のある公園風のところに到着した。 早速、背後の山の中腹にある展望台に上って岬の先端を眺める。 真に雄大の極みである。
例によって地球の丸さを感じる地点であるが。(実は視界が丸みを帯びて見えているにすぎない) 
岬の先端からは大きな岩礁や奇岩が連なり無限の太平洋に延びていて、こちらも奇怪(きっかい)にして驚きの眺望である。 
すぐ背後は山腹が覆っているように、岬は太平洋に突き出た山地がそのまま海に落ち込んでいる様子が分かる。
渚の公園入口の道脇には、大きな土佐の志士「中岡慎太郎」の像があった。
2010年度のNHK大河ドラマで『龍馬伝』が放送された。 主演の坂本龍馬に福山雅治、中岡慎太郎に上川隆也が演じていたが、最終回あたりで、両人が京・近江屋で暗殺されてしまうのである。


中岡慎太郎は、室戸岬半島の付け根に当たる北川村の村役場の付近で、庄屋の倅として生まれている。 7歳にして論語や孟子など四書を学び、14歳の時にはすでに塾の代講を務めるまでになっていた。その後、藩校・田野学館が開校した時、18歳で武市半平太と出会い、その人柄に惹かれた彼は24歳の時に半平太率いる土佐勤王党に参加、高知の城下へ出て行く。 
26歳で土佐を脱藩、藩の庇護を離れ倒幕活動に奔走したが、大政奉還後に坂本龍馬と一緒のところを京・河原町近江屋で「見回り組」の刺客に襲われ暗殺されている。

中岡慎太郎はじめ、土佐脱藩浪士の多くは志半ばで非業に倒れたが、その活躍は明治維新で土佐藩が薩摩・長州に次ぐ地位に立つ下地となった。 
中岡は、この世に2人といない智慧者ぢゃったが、竜馬先生はハンコを押すだけぢゃった」という著名氏の見方もあるとか、享年30歳。

中岡慎太郎像の入口から海岸へ出ると、「乱礁遊歩道」とい長さ約3kmの散策道が延びている。
太平洋の荒波に浸食された奇岩や岩礁が屹立し、ダイナミックな景観が堪能でき、付近にはタコの足のように気根が伸びる亜熱帯植物のアコウという木(天然記念物)が鬱蒼と繁る。



最御崎寺・本堂界隈


二十四霊場・最御崎寺へ 、 
山腹の上部に灯台と第24番の霊場が在るはずなので、急ぐことにしよう。 
国道55を一旦岬の西側へ出て、標識に従って右折する。土佐湾が雄大に広がり、室戸港を眺めながら、急勾配の大きなヘアーピンカーブを数度曲がって、暫く行くと「最御崎寺」の参道入り口が右に在った。 
第二十四番 最御崎寺ほつみさきじ)」と書かれた石刻柱の横に、緩やかな参道が林の中に延びている。
300m位行ったところで、左へUターンするかたちで山門へ出た。 
なるほど入り口側は寺院の裏手(北側)になるのだが、横を通り境内の南側(大洋側)へ一旦来て、それから本堂へ向かうようである。

この寺院まで今では室戸スカイラインができて車では便利になったが、徒歩巡礼の場合は昔ながらの下の岬から急な山道を辛苦しながら登って山門に達するのである。 
更には、阿波の最後の札所である薬王寺(23番)から、こちらの高知県最初の札所・最御崎寺へ達するのには、Vの字を描いた室戸半島の長い長い海岸線の道が続く。 
特に宍喰町を過ぎてから室戸市の入木までは、雨宿りの場所もなく荒波が打ち寄せる四国でも一番の難所といわれる。 最長の距離(約80km)と最難関の霊場である。 
その名も最御崎寺は、「土佐・修行の道場」の一番目に当たる。 

さて、山門を潜ると境内には沢山のお地蔵様が目に付く。参道左手に太子堂、 右手に古き貫禄の鐘楼堂が建つ。 この寺院の鐘楼は、NHKの大晦日の除夜の鐘でも有名で、記念碑に昭和37年ラジオ、昭和53年ラジオ、昭和55年テレビ、平成元年ラジオ、平成13年テレビなどと記されているという。 正面に大屋根・四柱造りの本堂、その手前に丸みの多宝塔があった。

この地を訪れた大師は、この四国でも最も僻地の室戸岬を修行の地と定め、お寺を建立し、虚空蔵菩薩を刻んで本尊として安置したという。 
岬一帯は若き日の弘法大師が修行を積んだ場所といわれ、至るところに大師ゆかりの遺跡が残っているとも。 
徒歩の遍路道近くに大師が修行した御蔵洞があり、この御洞の正面は「大空と大海」のみが望め、「空海」の名は、この大自然を黙視しながら「わが心空の如く、わが心海の如く」という境地を体験したことから付けた名前であるという。

嵯峨天皇の時代(平安初期・九世紀初)、勅願により伽藍を建立し、室戸山・最御崎寺と号し、第24番の霊場に定められた。 
室町時代には土佐の安国寺に定められ、以後各武将の寄進により七堂伽藍も整う大寺院になったという。 当時の「安国寺」とは安国寺利生塔(あんこくじりしょうとう)とも称し、南北朝時代、その戦死者の追善または国家安穏の祈祷場として、足利尊氏・直義兄弟が夢窓疎石(夢窓国師)の勧めにより、1338年から日本六十余州の国ごとに設営させたという臨済宗の寺である。
 

室戸山・最御崎寺の山門を出て、真南の一段低いところに基礎から丸型の白亜の室戸岬灯台があった。 フェンスに囲まれ、やや草生したところに一棟孤高に建っている。 完全無人の灯台と思しきが、何故か上部に展望用であろうか・・?一周柵のテラスがあった。   
明治32年(1899)の完成以来、休むことなく海の安全を守り続けている室戸灯台は、日本-の大きさを誇るという。 直径2・6mのレンズは、光度190万力ンテラ、光遠距離は56kmと長い。 毎年7月20日の海の日と灯台祭りの日(11月1日の灯台記念日に最も近い日曜日)の2回、無料公開されているらしい。


帰路は、室戸スカイラインを行く。
屈曲した上下動の激しい道路だが、真っ赤なハイビスカスと亜熱帯特有の緑濃き樹林が気持ちを癒してくれる。 山上より室戸岬港が遠望でき長い防波堤が印象的である。
室戸半島の東側は手付かずの無味な海岸線が延々と連続するが、こちら反対側の西海岸は岬の近場に室戸港をはじめ人々の息吹がある。 
暫く、スカイラインの山腹を走ったあとは室戸の市街地へ出た。 室戸でも比較的賑やかな町並みのようだ。 
法務局や郵便局、商店街など室戸市の目抜き通りを静かに抜けて、R55を今度は北上することになる。 

途中、国道横に大きな鯨の剥製か模型が目に付いたので立ち寄ってみた。「道の駅・キラメッセ室戸」といい、鯨館・鯨の郷でもある。 
室戸は捕鯨で栄えた歴史があり、今でも「ホイール・ウォッチング」が盛んなところらしい。 ここには鯨の資料館があり、鯨の生態、勢子舟(せこふね・捕鯨では最も重要な役目を持ち、網の中にいれ易いようにクジラを追ったり、網の中に入ったクジラに銛(もり)を打ち込んでクジラを殺す舟である)、捕鯨図、鯨組の羽織など古式捕鯨を展示し、全長10mのマッコウクジラとザトウクジラの模型が対で並ぶ。レストランでは鯨の刺身やステーキが楽しめるという。 


室戸市吉良川町という集落には所々特異な建物が目に付く。
蔵のような垂直の白い漆喰壁に、数段の軒瓦風のものが周囲に付帯している。 この瓦は水切瓦と云い、漆喰は土佐地方独特の土佐漆喰の壁という。 台風銀座といわれるこの地方、気候と適合するような建築法をあみ出したらしい。 
この土佐漆喰と水切瓦建築は、土佐の厳しい気候に適合させた見事な意匠であり、又この町の代表的町並景観として国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されているらしい。

次回は後免・奈半利(ごめんなはれ・?)


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2011年1月17日月曜日

日本周遊紀行(64)閑話休題 「四国について」

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 日本周遊紀行(64)閑話休題 「四国について」  、



高知へ到ったが、その前にチョッと閑話休題・「四国」について

阿波・徳島を周って、土佐の高知に到った訳だが、ここで「四国」について触れて見よう。
一般に四国は北四国、南四国といって瀬戸内海側と太平洋側とに区分される、だが、気候、風土的には瀬戸内海沿岸地域、四国山地地域、南四国地域の三地域にも分けられる。
瀬戸内海は日本最大の内海で、穏やかな波や美しい島々があり、一大美観で大半が国定公園に指定されている。
瀬戸内海とは、北側は関門海峡、東側は鳴門海峡、そして西側には豊予海峡(速吸瀬戸)と何れも強力な潮の流れの激しいところの内側の海域を指した名称である。
因みに、「瀬戸」とは幅の狭い海峡、潮汐の干満によって激しい潮流を生ずるところを指す。

瀬戸内海沿岸地域の気候の特性は年間降水量が少なく、しばしば渇水になる特性があるようだ。 これは後日、高知の沿岸(太平洋側)と愛媛の瀬戸内側を巡るうち、河川の水量が全く異なることに気がついている。
特に、この時期になると(4~6月・・?)高知の四万十川等は満々と水量が豊富なのに対して、瀬戸内側の大小河川は、ほぼ完全に渇水状態であったこと。 これはダムの残水量等、時折、生活上問題にもなっているようで、吉野川水系の明浦ダムが渇水に見まわれ、連日水不足がニュースや新聞のトップ項目に挙げられるなど全国的にも話題となっている。

又、四国山地地域は、四国の中央部を東西に貫く山地で、中央構造線の南に千数百メートル級の急峻な山々が連なり様々な様相をなしている、四国山脈ともいう。
この地域では多くの自然と景観が合間って信仰の地でもある。険しい山々が荘厳で神々しいことから古代より山岳修行が盛んであり、西日本最高峰の石鎚山や剣山などはその代表格である。 さらには弘法大師ゆかりの四国八十八箇所遍路は、四国の全山、全域が霊場といっても過言ではない。

南四国地域は、気候は海洋性で温暖湿潤であり、台風の通過も多い。
徳島に四国一の河川である急流・吉野川が流れ、高知に四国二の河川てある四万十川の清流が流れる。 然るに水資源が豊富で住民の節水意識が薄いとも言われるが、これは北四国がたびたび水不足に見舞われる地域であるのとは対照的である。 それは四国山地の影響度もある。

経済的に観ると、北四国が瀬戸内海ベルト地帯の一環として経済発展したのに対し、南四国は発展から取り残され、所得水準や工業生産高では大きく差が開いているとも云われ、全国的に見ても開発が遅れた地域であるとみなされているようだが。 
しかし、近年は四国各地を結ぶ「四国縦横断自動車道」の開通など交通の便が改善されたこともあり、現在では四国を南北のブロック分けすることは少なくなっているともいう。



四国は、古くは奈良時代の古事記に『身一ニシテ面四ツ有リ』と書かれていて、更に、「伊予之二名島」とも記されている。
伊予国の愛比賣(エヒメ)と土佐国の建依別(タケヨリワケ)、阿波国の大宜都比賣(オオゲツヒメ)と讃岐国の飯依比古(イイヨリヒコ)との男女二神ずつが一対として表わされている。
つまり、伊予の愛・ヒメと土左の建依別 (愛らしい姫様と力強い建の男)、阿波(粟)の大宜都ヒメと讃岐の飯依ヒコ(男女一対:両方とも穀物・食事関係して神)を現しているという。 俗に言う、愛媛女と土佐男、讃岐男に阿波女といわれる。 
「伊予之二名島」の二名とは、その二対のことであった。 讃岐は香川県,伊予は愛媛県,土佐は高知県,阿波は徳島県である。 


四国は、国造時代から四カ国が寄り添いあって現代に到っている。 
尤も、領土的には変遷もあったようで、伊予国守・高安王(たかやすのおおきみ・敏達天皇の孫である百済王の後裔といわれる)が阿波、讃岐、土佐三ヶ国を合わせて領したこともあった。
一時期、中世の細川氏、戦国初期の長宗我部元親が四国を一国として統治していたが、長宗我部は豊臣秀吉によって征伐され、元の鞘(四ヶ国)に戻っている。


さて、これより訪ねる土佐の高知であるが 
奈良後期、国郡の制が定まり、駅制が整備されてからは京都と四国の国府を結ぶ官道の往来が賑やかになった。
国の格付は土佐が中の国で、他の三ヶ国は上の国といわれた時期もあり、都から見れば土佐は最も遠い国であったが為かもしれない・・?。
国守では、「土佐日記」を著した土佐守・紀貫之が有名(後述)で代表格であろう。 この頃から平安末期頃まで、土佐は遠流の国となり、貴き方々(都人)が流人として配流されている地域となった。 

戦国末期、土佐は長宗我部氏のあと、1601年(慶長6)に山内一豊が20万石余で入国している。(NHK大河ドラマ「功名が辻」で放映、詳しくは後述) その後の江戸末期、土佐の国から日本を背負い立つ傑物も現れている。
土佐もっこす」という言葉もあり、一本気で骨太で信用がおけるが、頑固で融通がきかないといった土佐人の県民性を表した言葉のようで、古事記に言う、土佐は「男の国」なのである。

次回は、高知の「室戸崎


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2011年1月16日日曜日

日本周遊紀行(63)海南、海部 「大師と海部氏と甲浦」

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日本周遊紀行(63)海南、海部 「大師と海部氏と甲浦」 ,


鯖大師(八坂寺)・本坊


四国・海南地域は歴史の表舞台でもあった

道の駅・日和佐を出ると海岸部から離れて再び山間部を走る。
海岸線は「南阿波サンライン」といって極めて風光明媚な所,と言いたい所だが起伏が激しく悪路も予想されるので国道55を直進することにした。 
Jr牟岐線とともに日和佐トンネルなど大小トンネルを抜けながら山間部を走る。 山河内からも延々と山間部を走り続け、寒葉坂峠を境に牟岐町に入る。ここからは下り勾配を4~5キロ走り山間部を抜けて平野部を牟岐川に沿って行くと牟岐の街へ出る。 
途中、海上に浮かぶ出羽島の姿が美しく、牟岐町きっての観光の目玉らしい。

Jr牟岐線はここの地名を付けたもので、牟岐駅は当初の牟岐線の終点であったが、近年この先の海部まで延びている。この沿線に沿って明るい海岸が見通せる、景勝「八坂八浜」と称している。その名のとおり屈曲した八ッ坂があり、その度に八ッ浜が見られるという、路行く者には大変な難所の海岸線だった。この中間に「鯖大師」、別名でその名も「八坂山・八坂寺」というのがある。

日和佐の23番薬王寺から室戸岬の24番最御崎寺までは凡そ80キロの長丁場で、歩けば2日以上かかる距離であり、1日歩いても一つの札所にさえ行き当たらない。 そのため、番外札所と言われるのが八坂寺であった。鯖大師は別格二十霊場にも数えられ、弘法大師と鯖に因んだ話が伝わっていて、鯖の話はこの八坂八浜の大坂を舞台にしたものである。
「 馬の背に鯖を積んだ馬追に、大師が鯖を1匹くれとたのんだ。馬追が断ると大師は次のような歌を詠んだ。 」

『 大坂や 八坂坂中 鯖ひとつ 
         大師にくれで 馬の腹や(病)む
 』

すると馬が苦しんで歩けなくなった。
驚いた馬追が鯖を差し出すと大師は別の歌を詠んだ。

『 大坂や 八坂坂中 鯖ひとつ 
         大師にくれて 馬の腹や(止)む
 』
そうすると馬の苦しみはおさまったという。
」と「」と「」で歌の違いが判り、面白い。


高台を走る道路は時折、優美な海岸風景を見せている。 左手に浅川湾を見ながら走る。
再び山間部を走り、間もなく海部川の清流を渡ると海部町である。海部川は四万十川より美しいといわれる清流で時期になると鮎の太公望で賑わうという。
ところで、海部町は四国・徳島でも極めて小さな町域である。しかし歴史は古く、中世よりこの地方を「かいふ」と呼称し、海部氏が海部川流域を支配しながら勢力を拡大していたとされる。 

中世・平安時代から室町時代にかけて、現在の海南地域(海南、海部、宍喰)は、「海部郡司の領地」であったとも「宍咋庄」という荘園に属していたともいわれる。 そして、中世の阿波南部・海部地方に勢力をもっていたのが「海部氏」であった。
水軍の側面も有する海部氏は特産品である「海部刀」をもって朝鮮や中国との貿易を行い、その交易によって大いに勢力を伸張したものと言われる。 記録によれば、114万振の海部刀が輸出されたことが知られる。
戦国初期、四国を制覇しつつあった長宗我部元親によって滅ぼされているが、江戸期は、蜂須賀氏の出城で、隣国土佐高知の防衛線としての要をなしていたという。


海部川を渡って、すぐのところが海部町である。
所謂、海南地域といわれる海部町、海南町と南隣の宍喰町と三町で合併の話が進んでいるらしいが、最初は宍喰町に反対論が多かったという。海南町役場と海部町役場は、海部川を挟んだ対岸に位置しており1kmも離れていない。 いわば海部川を共有した兄弟といった感じの関係なのである。宍喰町が疎外感を覚えるのも判らぬでもないが、その後どうなっているかは定かでない。
追記:2006年(平成18年)3月31日 海部町、海南町、宍喰町と合併し、新しく「海陽町」が発足している。

 宍喰町の国道55沿いには洒落た「道の駅・宍喰温泉」があった、真向かいには、雄大な太平洋が広がる。 
この道の駅は、通常の観光ターミナルの他に、道の駅としての宿泊施設と王宮のような建物で南国情緒を漂わせる「ホテル・リビエラししくい」、そして温泉が同居していた。 
物産館の横に、尾崎将司の「すこやかに さわやかに おおらかに」と石碑が建っていた。 
尾崎 将司は、ここ海部郡宍喰町の出身のプロゴルファーである。「ジャンボ尾崎」の別名でもよく知られる。公式ゴルフランキングでも“Masashi Jumbo Ozaki”と表記され、世界ランキングの自己最高位は8位としてあった。
この町を境に、いよいよ高知県に入る。

東洋町・甲浦について 、
「東洋町」とは大仰な地名である。 
行政名は東洋町であるが、どうも地域に馴染んだ名称は甲浦(かんのうら)が一般的のようで、地名、港湾名、学校名、はたまた神社、駅名の名称まで甲浦である。

山内一豊が土佐に移封されることに決まった慶長5(1600)年の暮れ、大坂を出発し、翌6年1月に、この地、甲浦に上陸し、8日に浦戸城(高知)に入城している。
又、この甲浦で「佐賀の乱」(明治7年に江藤新平・島義勇〈しまよしたけ:北海道開発、特に札幌の開拓の父とも呼ばれる〉らをリーダーとして佐賀で起こった明治政府に対する士族反乱の一つ)に破れた江等新平が捕まっているという。 
江藤は、鹿児島から四国に渡り高知で再起を計ったが失敗し、虚しく立ち去らねばならなかった。更に高知から東進して、ここ甲浦に至った。この進行には艱難を極めたらしく、江藤をして「自分は母の胎内から出て、未だかつてこんな苦痛に遭ったことがない」と言わしめた。この時既に甲浦にまで江藤の人相書は出回っていた。

甲浦は、当時上方へ渡る船の入出する港であり、江藤らがここを通過することが十分予想されたのであって、江藤はこの網に引っかかったのである。佐賀の乱の敗走から1ヶ月であった。
甲浦という僻村が歴史に登場したのは、江藤の騒動が最初で最後かも知れない・・?。 
この様な鄙びた町に、東洋町と言う大仰な地名、否、行政名を誰が付けたのだろうか・・?。たしかに東に大洋を望む地域だが・・、いっその事、高知の東の端に当たるので「東端町」にでもすれば良かったものを、と勝手に思ったりして。 

甲浦地区の一集落に点在する古い建築様式に、「仏頂造り」という建築物が在る。
昔ながらの和式住宅が建ち並ぶ通りに、家の雨戸にあたる部分が面白い形状をしているのである。 板でできた戸が、上半分と下半分に分かれており、それぞれ上下に開く、ちょうど観音開きを横向きにしたような形である。開くと上半分は庇のようになり、下半分は縁側のようになる。
克ってはこの甲浦は、土佐藩主山内氏が参勤交代の際にも利用され、藩主の宿舎や関連施設、浦奉行などが置かれていた。 
街道集落でもあった甲浦では、この仏頂様式の縁側で商品を陳列したり、旅人を接待したりしたという。この造りは人で賑わう玄関港と台風の通過地という場所で生まれた生活の知恵でもあったようである。 
街並みは徐々に最近の一戸建て住宅に更新が進んでいるようであるが、いくつかの古い民家には、今も仏頂造りが残っている。


甲浦駅は鉄道の終点でもある。 
JR牟岐線がR55と並行して、更に海部駅から甲浦までを結ぶのが阿佐海岸鉄道である。 一応、徳島(阿波)と高知(土佐)を結んでいることになり、「阿佐」の線名に相応しい。 
もともとこの海部から高知市に近い駅を結ぶ、国鉄阿佐線として計画されていて、室戸岬を経由する気宇広大な計画だったのだが、国鉄再建、民営化に伴って工事は中断されてしまったという。一方、高知県側の後免-奈半利間は「土佐くろしお鉄道」が開業している。

次回は、閑話休題:「四国」について、



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2011年1月15日土曜日

日本周遊紀行(62)日和佐 「薬王寺」

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 日本周遊紀行(62)日和佐 「薬王寺」  ,


医王山・薬王寺の「瑜祇塔」


那珂川町の国道55の「道の駅・公方の郷なかがわ」で一服入れる。 公方の郷とは貴き御方に所縁があると思ったが、やはり室町将軍・足利氏が居留した地であった。
室町後期、政治の腐敗を嘆き淡路島で病死した第10代将軍足利義植(あしかがよしたね)の養子・義冬は、父の悲願を果たすため上洛したが戦いに敗れ、阿波の守護・細川持隆に迎えられ、この地に落ちついたという。その後、足利氏は九代270年にわたってこの地に居住し、漢文学などを広め「阿波公方」として人々に親しまれたという。これが公方の郷の由縁であった。
那賀川町、羽ノ浦町は、平成18年3月に阿南市に吸収合併されるとのこと。
阿南市街は、国道55のバイパスで知らぬ間に通り過ぎてしまった。その後は、自然豊かな四国とは思えぬほどの重工業の港湾が広がっている、橘港である。 古くは天然の良港として知られており、昭和初期には阪神~高知航路の中継港として栄えたが、今では、火力発電、造船、鉄工所などの大企業がひしめき、徳島県東部における工業の集積拠点としての役割を果たしているようである。

国道55は別名「土佐東街道・土佐浜街道」と称している。浜街道とは言いながら、現在は山中険路の道であるが。 由岐町と日和佐町の町界あたりの地名に「星越」というのがある、星をも越すような高度がある・・?というのはチト、オーバーではあるが、かなりの高所を走っているのは確かなようである。 山間からどうやら見通しのきく平地に出たようだ、日和佐の街である。


二十三霊場・「薬王寺」 ,
日和佐の町内に入ると国道沿いに名刹が在った。「医王山・薬王寺」である。
我々年配者には有難そうな厄除けのお寺さんであり、誰が詠んだか、御詠歌(巡礼または信者などが詠う和歌)としてこんな歌碑があった。

『 皆人の 病みぬる年の 薬王寺 
            祈願のくすりを 興えましませ
 』
御本尊も、当然と思える薬師如来である。

山門をくぐり 桜並木の参道から本堂への石段を登りつつ、振り返ると日和佐城と日和佐湾・太平洋が望まれる。 石段は、女厄坂の33段、男厄の42段とあり、大師堂、地蔵堂から本堂に達する。 この上には61段の還暦の厄坂というのもあり、山腹の高目に密教特有の円形のお堂に四角い屋根の「瑜祇塔」(ゆぎとう・多宝塔の原型とされているのが瑜祇塔であり、一重の屋根と円筒形の厨子、そして屋根の上に聾える五本の相輪が特徴)が建ち、屋根の上には五智を表す五つの相輪が立つ。
瑜祇塔は、通常の寺仏堂とはチョッと変わった斬新な印象を与えてくれる不思議な塔で、神秘的な香りが感じられる。建造は比較的新しく、昭和39年に四国霊場開創1150年を記念して建てられたという。内部には宝物展示室や地下の戒壇巡りなどがあるという。
自分の厄年に、厄坂の石段を一段ずつコインを置いてゆくと、願いが叶うという薬王寺。
寺院は行基菩薩の開基で、弘法大師が厄除けを願って薬師如来像を刻んで本尊とした。 阿波・「発心の道場」の23番、最後の霊場で、24番からは土佐の高知の地で、「修行の道場」へ進むことになる。

薬王寺の山腹より日和佐の町が一望でき、日和佐湾が青く光る。
湾の小山状の上部に「日和佐城」がこじんまりと遠慮がちに見えてる。 海城というか、山城というか・・? お城・天守閣は昭和期の近年、観光用に増築されたものらしいが、本来、室町時代にこの地に拠った肥後守・日和佐氏の築城であるが、戦国期、四国を統一した長曽我部元親(土佐高知の戦国武将、四国全土を統一しているが・・)に降伏している。

日和佐の町内を少し行くと、程なく「道の駅・日和佐」である、ここで小服を入れる。
JR牟岐線日和佐駅と国道に接して立地しており、四国でも国道とJRの駅が一体になっているのは珍しいのでは・・?。 ここには温泉が在る、足湯もある。小生も一足浸かることにした。 物産館の敷地内で湧出する温泉を利用したもので、お遍路さんの足を癒す「休足所(足湯)」としては最適であり、発案担当者に感謝したい。
弘法大師が薬王寺を開いた際、その麓から湧く泉を発見したという古泉でもあり、飲用、また温浴に適した水として、人々に効能を知らせたと伝えられている。 少々の硫黄臭があり、無色透明でサラリとした湯は単純硫化水素泉。 神経痛やリウマチ、慢性皮膚病、慢性金属中毒症、糖尿病などに効能があるという。地下30メートルから豊富に冷泉がわき出ているという。

尚、日和佐町は、2006年3月に由岐町と合併て「美波町」となっている。 大浜海岸に産卵のため上陸してくるアカウミガメで有名、これを主題とした2009年のNHK連続テレビ小説「ウェルかめ」の舞台にもなった。

次回は、海部(かいふ)の海部氏


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2011年1月14日金曜日

日本周遊紀行(61)小松島 「源義経」

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日本周遊紀行(61)小松島 「源義経」 , 



源義経、「屋島の戦い」の奇策

徳島の隣はすぐに小松島である。 
小松島は戦国期以後、蜂須賀候が入国して以来、阿波の商業、金融、港湾流通の中心地として栄えたところで、現在でも和歌山や大阪方面とは流通が盛んあところである。 
この港は又、一の谷の合戦後、屋島の合戦で義経一行が上陸した地点として歴史上有名である。今でも市内各地に義経ゆかりの場所が点在しているし、数々の伝説が残る地でもあるという。

国道55が牟岐線と交差するあたり「阿波赤石」駅がある。
このあたりの港を「勢合」といって義経手勢150騎が、ここの港に漂着し勢揃いしたことから、この名が付けられたという。 
ここから、R55に概ね沿って恩山寺の入り口から勝浦川より徳島方面を、義経ドリームロード・義経街道と言って、弦張坂、弦巻坂、旗山、くらかけの岩、天馬岩、弁慶の岩屋などと義経にまつわる伝説の場所が数多く残されている。


平氏は、1184年の一ノ谷の戦いの敗戦後、讃岐国・屋島(現、高松市屋島)を本拠とし内裏(安徳天皇の住まうところ)を置いている。 
義経は「一ノ谷」の後、摂津国の港・渡辺津(大阪)に軍を集めていた。
平氏軍を追討するにあたり渡辺津を出航しようとするが、義経は、戦奉行の梶原景時と激しく論争をしている。(この時の論争を景時の讒言として鎌倉・頼朝へ伝わり、義経追放の一因にもなっているという) 
暴風雨のために景時は出航を見合わせようとするが、義経は景時を振り切って、僅か5艘150騎で風雨をついて出航してしまう。

義経の兵団は、通常3日の航路を6時間ほどで阿波国・勝浦(現・田野町勢合)に到着した。
義経は在地武士団の新居見城主・近藤六親家(こんどう ろくちかいえ)を味方に引き入れつつ、案内役として屋島へ向けて徹夜で進撃している。
徳島を抜けて、現在の県道1号線を北上、大阪峠を越えて、播磨灘の海岸沿い(R11沿い)から、僅か1日でに屋島の対岸に至った。
干潮時には騎馬で渡れる(当時は海を隔てた島であったが、現在は陸続きである)ことを知った義経は、強襲を決意。 少兵であることを悟られないために、義経は周辺の民家に火をかけ一気に屋島の内裏へと攻め込んだ。
海上からの攻撃のみを予想していた平氏軍は狼狽して、内裏を捨てて海上へ逃げ出したのである。
この源平の戦いは「一の谷」以来、再び義経の機略によるもので、「屋島の戦い」と称している。

屋島の陥落により、平氏は四国における拠点を失った。
何とか九州に渡ろうとするが、既に源範頼の大軍によって押さえられており、平氏は彦島に孤立してしまう。
義経は水軍を編成して、最後の決戦である「壇ノ浦の戦い」に臨むことになる。



第18番霊場・母養山恩山寺


十八番霊場・「恩山寺」

恩山寺へ向かう。 
恩山寺は小松島市の郊外、「義経ドリームロード」より少々入った緑濃き、小高い山の中腹に建っている。 
義経が屋島へ向かう折、戦勝祈願したかどうかは定かでないが、山門 をくぐって石段を上った境内にのすぐ右に地蔵堂がある。 小さな地蔵像が数多く並 んでいて、左に大師堂、庫裏があり、内に納経所がある。 さらに正面の石段を40段程上 ると、どっしりとした本堂が建っていた。  

聖武天皇の勅願によって行基菩薩が開基した奈良期の寺院で、当初は女人禁制の寺であった。弘法大師がこのお寺に止まっていたとき、母堂の玉依御前が大師を訪ねたが、女性の身なれば入山することができない。 そこで大師はひと七日(一週間)滝に打たれ修行をし、女人解禁の秘法を修めたといわれる。
それでやっと大師は母君を迎え入れることができ、この寺で孝行を尽くしたという。 この時大師が修行をしたのが、赤い欄干のかかっている橋の下であり、そのことを記念して、びらん樹が植えられている。
また、大師の母君はここで髪の毛を剃って出家された。 その髪の毛は、剃髪所に納められている。そのことから、母養山恩山寺と寺号を改めた。

駐車場から竹林の茂る参道を少しのぼってたどりつく境内には、 樹齢約300年の大きなイチョウの木や、樹齢約350年という立派なソテツの木がある。
長い階段を上ったところにある本堂の左側には細い階段があり、 約300mほど歩けば恩山寺自然公園の展望台に出ることができる。 ここからは小松島港や市街地、紀伊水道を一望できる。

次回は、日和佐



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2011年1月13日木曜日

日本周遊紀行(60)徳島 「阿波おどり」

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 日本周遊紀行(60)徳島 「阿波おどり」  .


「踊るアホウに見るアホウ、同じアホなら踊らなソンソン」


徳島市は、吉野川とその支流がつくり育てたデルタ(三角州)の上に発達した人口26万人余の県都である。 このデルタの中心、JR牟岐線とR11が接するあたり、その背後に徳島城址の城山が見えてる。 
徳島城は阿波17万石・蜂須賀家の城であることは先に記したが(淡路の項)、この城は天然の吉野川と、ここより引き入れた掘割川を防衛堀とし、正面に大海を望み防衛と進攻を兼ねた。

戦国後期、乱世も豊臣秀吉によって納まりかけた時期、1585年、後に秀吉に仕えて美濃・墨俣城の築城や中国遠征での対毛利戦で大活躍した蜂須賀小六正勝に阿波の国17万石を与えている。
秀吉から阿波一国を与えられた正勝は、家臣ではあるが秀吉とは事実上義兄弟のような仲であった。 これを子の蜂須賀家政に譲って本人は辞退している、正勝自身は、恩賞などより秀吉の側近として仕えるほうに興味があったかららしい。
家政が築城の際、老臣たちは山中・要害の地を勧めたが、彼は頑として、この地に固執したという。 理由は、これからは軍事よりも経済であると言うのであった。(実際は、なお戦乱は続くのであるが)家政はこの地に築城を勧め、突貫工事で完成させたという。 
この工事を「それ急げ・・、やれ頑張れと・・!!」と励まし、応援したのは秀吉だったらしい。秀吉は正勝の子・家政を少年の頃から知っているから、彼に城を持たせた事が、よほど嬉しかったにちがいないと・・!!。

築城にあたっては、小早川隆景(毛利元就の三男・3本の矢の1人智謀の武将)と長曽我部元親(土佐・高知の戦国武将)に援助を命じ、600日で出来上がったという。 
戦国期、天守閣は権威の象徴だったが、家政は三層平城のごく貧弱なものにした。 かれは威を誇示するよりも、領民の繁栄の方を好んだといえる。

伝承として、城普請完成の日が、お盆の7月15日だったということで、作業者や領民たちは、新しい城の完成と領主のために、盆供養も兼ねてお祭りを催し、多いに踊ったと言われている。 これが「阿波踊り」の発祥ではないか、という説もあるとか・・?。
江戸時代を通して徳島藩・蜂須賀氏25万石の居城となり、明治維新を迎えるが、明治2年(1869年)版籍奉還により廃城となった。明治8年(1875年)には鷲之門を除く天守や櫓など全ての城内の建築物が撤去されている。明治以降の城地は苔むす石垣と堀、庭園、鷲之門が残るのみで蜂須賀氏の栄華は偲ぶべくもなかった。昭和16年(1941年)には表御殿の庭園が国の名勝に指定されている。


 エーラヤッチャ、エーラヤッチャ、ヨイヨイヨイヨイ、阿波の殿様 蜂須賀公が、今に残せし 阿波踊り 』
尤も、「阿波踊り」は蜂須賀氏から始まったわけではない、その元祖として、平安期には京の街で風流(フリュウ)が流行している。風流とは仏事や祭礼の時など、庶民が華麗に仮装して唄い、群れ踊りをさしている。  
室町期では、四国を地盤にした細川氏(★1)が京の管領となり、その後の三好氏は徳島を中心に四国・畿内を支配している。 
従って、この頃に京の風流が徳島(当時は板野地方)に流入したのは極めて自然ともいえる。 戦国末期、畿内を征圧した三好政権(三好長慶・★2))を、軍事的に支えたのは阿波の国人衆であり、その国人衆の間にも流行し、阿波三好氏の本拠である板野郡の勝瑞城下にも伝播して町人衆の間で盂蘭盆行事(お盆・祖霊を死後の苦しみの世界から救済するための仏事)となって定着していたようである。

★1・・清和源氏の支流で、足利氏の支族。 四国を中心に8カ国の守護職を占め、室町時代には有力守護大名および管領家の1つとなり(三管領・斯波氏、畠山氏、細川氏)、畿内に勢力圏を有する。戦国期、傍流の細川藤孝(幽斎)は織田信長、豊臣秀吉に従い家運を回復する。 江戸期には、近世大名となり、肥後・熊本藩主家として明治維新まで存続。 明治以降、終戦まで侯爵の爵位にあった。 
平成になり、子孫の細川護煕(もりひろ)は、旧熊本藩主細川家の第18代当主で、第79代内閣総理大臣となる。

★2・・現在の徳島県三好郡三野町出身。 戦国前期、長慶は細川氏の重臣であったが、後に政争で細川政権を倒し三好政権を誕生させる。
自らは幕府の相伴衆となって幕政の実権を掌握し、畿内(都のある近畿に一大政権を築き上げる。


阿波踊り」は、はじめ「ぞめき踊り」といわれ、「ぞめき」とは騒がしいなどの意味で、派手で賑やかな踊りにつけられた名称である。
又、幕末には全国的に「ええじゃないか」の乱舞が流行し、徳島城下からも御蔭詣(おかげまいり・お伊勢参り)で参じた阿波衆が伊勢で、「踊るも阿呆なら見るのも阿呆じゃ、どうせ阿呆なら踊らんせ」と囃して踊り狂ったという。
この踊りが面白いというので阿波一円に広がり大流行したという。このあたりが現在の阿波踊りの原型であろう。 「エーラヤッチャ、エーラヤッチャ、ヨイヨイヨイヨイ、踊るアホウに見るアホウ、同じアホなら踊らなソンソン」の唄で知られるようになった。

手を上げて、足を運べば 阿波踊り」といわれるとおり、阿波踊りには決まった型はなく、ようは楽しく踊れればそれでいいという。
だが、人が見て「きれいだ」と思う踊りを踊るには長くつらい鍛錬が必要だともいう。そして何より一番大切なことは、笑顔を忘れないことであると。

阿波踊りでは、一つの踊りのグループの事を「(れん)」と言っている。県内には有名連と呼ばれる連が多数あり、その他、同好会的要素の「連」も数多い。毎年8月12日~8月15日迄の4日間開催され、徳島駅前、市内の各所に演舞場が設置される。演舞場の種類には大きく分けて「有料演舞場」と「無料演舞場」があり、有料演舞場では全体的に有名連が踊り込んで来て、無料演舞場では同好会の大学連や企業連などが多い。

近年は徳島以外でも夏のイベントとして催され、徳島の阿波踊り連が指導に当たっているという。
小生の地元・神奈川県下では近くの大和市でも盛んであるが、有名なのは、徳島出身者が夏のイベント用にと提案して導入されたという高円寺(東京杉並区)の阿波踊りである。 因みに、徳島・高円寺・越谷(こしがや・埼玉県越谷市)が、日本三大阿波踊りと呼ばれているようである。
眉山に見守られながら、阿波徳島を後にした。

次回は、小松島と義経


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