google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 日本各地の美しい風土を巡ります。: 10月 2010

2010年10月30日土曜日

日本周遊紀行(32)津 「高虎と伊勢平氏」

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 日本周遊紀行(32)津 「高虎と伊勢平氏」 


伊勢はナー 津で持つ 津は伊勢で持つ
 尾張・名古屋は ヤンレ 城で持つ
」    

・・と伊勢音頭で唄われている。

もっとも伊勢音頭といっても関東節・伊勢音頭、正調・伊勢音頭、古調・伊勢音頭、道中・伊勢音頭と多彩にあるらしく、共通なのは冒頭の唄いだしが、すべからく「 伊勢は津で持つ・・・」から始まるという。 



世界で一番短い名前の街・「」は、仁徳天皇(古代大和朝廷期・古事記の頃)の昔は「安濃津」と呼ばれ、日本三津の 一つとして栄えた名港であった。
そのため、市内には至る所に 名所、旧跡があり、当時の面影を色濃く残している。

日本三津とは中国から見た三つの重要な港を意味し、中国との貿易港の一つとして機能していたといわれる。 
薩摩の坊津(鹿児島県坊津町)、筑前の博多津(福岡県福岡市)、それに勢の安濃津(三重県津市)である。
安濃津は明応7年(1498年)の大地震による破壊的被害で集落は15世紀代に一旦廃絶する。


城郭造りの名人・藤堂高虎が伊予今治から加増転封となって、伊賀国・伊勢国の津・伊賀上野城主となったのは関が原合戦後の慶長13年(1608)の事だった。 
高虎は先ず織田信包が築いた津城(現、津城址)の大改築を行ない城下町を整備し、同時に津の街並みの整備に取り掛かる。 

政治の要としての丸之内や 武家屋敷、町屋、商屋、寺町等を配し、町の発展を図るなど津のまちづくりを行い、 現在の津の町の礎をつくった。 
津の城下では北に安濃川が流れ、南に岩田川が沿っている、そこから堀川を掘って入船出船とした。

藩主殿様もここから御座舟で伊勢湾から外洋へ向かったといい、今でも船頭町などの町名が残る。
又、町はずれを通っていた御伊勢参りの伊勢街道を城下に引き入れ、宿場町としての賑わい発展を図ったとされる。

現在の津の街並みの整然とした姿は、高虎の都市構想を往時に見ることが出来る。
又、大都会にありながら海岸線の優美さは特筆すべきもので、海水浴場や風致施設の臨海公園、大学施設等、古くから開けた文化の香りがする。 
これも高虎以来の町造りの理念が現代に生かされているのである。


戦国武将・藤堂高虎は一農民として近江国藤堂村(滋賀県甲良町)に生まれている。
はじめ近江の浅井長政に仕え、その後、織田信長、羽柴秀吉(豊臣秀吉))に見出され、徳川家康にと、歴代三君に仕えている。 

関ケ原の戦いにおいては東軍に属し、その功により戦後、伊予今治に20万石を与えられる。 江戸城改築などにも功があり、最終的には伊賀・伊勢津藩32万石に加増されている。 

家康の信頼はとりわけ厚く、外様大名にありながら側近として遇された。 
大坂夏の陣で功を挙げた高虎を賞賛し、『 国に大事があるときは、高虎を一番手とせよ 』と述べたとも言われている。 
徳川家臣の多くは主君をたびたび変えた高虎をあまり好いていなかったらしいが、家康はその実力を認めていたようである。 

家康の死後は日光東照宮の造営にも当たっている。
高虎は、築城技術にも長け、宇和島城、今治城、篠山城、津城、伊賀上野城などの築城、名古屋城の修築などでも知られる。




中世(平安期、)の頃「」は、阿濃津と呼ばれていて、この地は伊勢平家発祥の地とも言われる。
平安中期・935年の平将門(坂東平氏)の乱の後、将門を討った平貞盛らが伊勢国に移り住み、伊勢守に任じられるなどして伊勢国に定着した。
これが「伊勢平氏」の起こりだと言われ、後の平氏は安濃津氏とも称していた。

この系統の子孫に当たる「平忠盛」は市内西郊外の津市産品の地に生まれたといわれ、平清盛(平家の棟梁)の父でもある。 
平清盛は平安末期、平治の乱で源義朝を破り、中央政権で太政大臣にまで登りつめ、平氏一門は隆盛を極めたことは周知である。
清盛をして、一族で主要官位を独占し、全国に500余りの荘園を保有し、時に『 平氏にあらざれば人にあらず 』とまでいわしめた。

武家平氏として子孫の活躍で知られるのは平氏政権を作った伊勢平氏であるが、鎌倉期の執権北条氏を輩出した坂東平氏など、一般に平氏といえば桓武平氏の流れをくむ坂東平氏を指すことが多いという。 
しばしば「東国の源氏、西国の平氏」と言われるが、源氏の本拠地は摂津、大和、河内など関西であり、東国は平氏系武士の土着地であることから、「関西の源氏、関東の平氏」と言う方が実態に近いといわれる。

又、平氏は早くから東国に移り、地名を苗字としていた一族が多いが、西国で平氏の名をを残したのは伊勢平氏など数少ない。
権勢を握った平清盛の一族を特に「平家」と呼ぶのに対し源姓を名のった一族は多く、源家は複数になるため、通常は「源家総体」という意味での「源氏」と呼び、源家という言い方はあまり用いない。

因みに、伊勢平氏が滅亡したのは「壇ノ浦の合戦」であるが、この時、平家の棟梁だった平宗盛は入水したが、息子の平清宗とともに源義経によって助け出され、鎌倉の源頼朝のもとに送られる。
鎌倉で頼朝と面会した後、京への送還の途中で近江の国・篠原で、義経のにより斬首された。これによって平家の血筋は完全に消滅し、近江の国が伊勢平氏終焉の地となったのである。

伊勢音頭』 三重民謡
伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつヨー
尾張名古屋はヨーホイソーリャー
城でーもつヨー

花は桜か、山は富士のー山ヨー
城は尾張のヨーホイソーリャー
名古屋の城ヨー


「伊勢は津で持つ 津は伊勢で持つ 尾張名古屋は 城で持つ」という歌詞を聞けば、すぐに「伊勢音頭」が思い浮かぶ。
古調、正調とは別に日本全国には「ヤートコセ ヨーイヤナ」という唄ばやしを持つ「○○伊勢音頭」(御当地伊勢音頭)が多く伝承されている。
言うまでもなく、五十鈴川のほとりに鎮座する伊勢神宮に詣る人々が全国から集まり、荷物にならないお土産として伊勢発信の「音頭」が全国に広まっていったといわれる。
又、伊勢信仰で天照大神を祀った伊勢神宮につかえる「御師(おし、おんし)」が、全国を廻り一般庶民に広がったという。

次回から伊勢神宮について、チョッと詳しく



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2010年10月29日金曜日

日本周遊紀行(31)関 「鈴鹿峠」

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日本周遊紀行(31)関 「鈴鹿峠」



歌川広重の「東海道五十三次・関」


亀山、関は古今東西、交通の要衝
中京・名古屋地区から関西を結ぶ近代の交通網である鉄道(東海道本線、新幹線)や高速道(名神高速)は岐阜・関が原を越えて琵琶湖畔沿いに向かっている。
ところが、旧来の東海道、概ねそれに沿った現在の国道1号線は三重県の亀山・関辺りまで南下して関西に向かっているのが特長であろう。

更に亀山は、この道路の関JCT(ジャンクション)が示すとおり今も昔も交通の要衝として知られる。
南下すると国道23号、伊勢自動車道の津から伊勢へ、西方へは国道25と名阪国道が奈良から大阪へ向かう。 又、国道1号線・東海道(旧東海道も同じ)は滋賀・大津から京、大阪へ向かっている。 
鉄道も名古屋、大阪を結ぶ関西本線が、ここ亀山で紀勢本線が分岐している。


そして古代、7世紀以前には既にここの地に「鈴鹿の関」が置かれていた。 
越前の「愛発の関」(あらち・敦賀の南、疋田付近に部落や学校名で僅かにその名が残る=若狭・近江・越前のちょうど結節点にあたり、日本海の海産物等を京へ運ぶための要衝でもあった)、美濃の「不破の関」(岐阜県不破郡関ヶ原町・関が原の合戦より以前のもう一つの天下分け目の戦い、7世紀に起った「壬申の乱」の合戦地)とともに日本三古関と呼ばれ、いずれも、都と東国を結ぶ交通の要衝として栄えた。 
関町(平成17年1月亀山市と合併、新亀山市となる)は、この関所の町が地名の由来となっている。


因みに、この古代の三関は飛鳥期の7世紀に勃発した「壬申の乱」以降、ほぼ同時に設けられたという。
天武天皇は天下の変乱に備えると共に通行人たちの中で謀反を起こす者や狼藉物を監視、調べるために美濃の不破、越前の愛発、伊勢の鈴鹿に三関を置き、関使を遣し固めさせたという。 
このことは天武天皇の子息である舎人親王(とねりしんのう)が編纂した「日本書紀」にも記されている。

古代の大戦で有名な「壬申の乱」は、壬申年(672年)、天智天皇の子大友皇子と同天皇の実弟大海人皇子の叔父、甥の間で起こった皇位継承をめぐるクーデターである。
一か月余の戦いの結果、大友皇子は自害し、大海人皇子が翌年正月即位して天武天皇となった。
即位以後、天武天皇は自らの正統性を示すため、国史の製作を発足したのが「日本書紀」である。


余録であるが・・
大津京(近江京)・天智天皇の時代、日本は戦乱(白村江の戦い)を絡めて中国(唐)や朝鮮(百済)の文化が大量に流入し、「大化の改新」など日本は飛鳥の豪族を中心とした政治から天皇中心の政治への転換点、大変革をもたらした時期であった。

「日本書紀」によると、天皇が大津宮に遷都した後、水時計を宮に備えて時刻を計ったと記されている。 この時、「時」を初めて鐘と太鼓で民衆に知らせたという、西暦671年6月10日のことである。 

だがこれは単なる「時の事始」ではなかった。
天智天皇は大化の改新を起こし、中央集権に向けた大政治改革に乗り出していた矢先でもあり、「白村江の戦い」(九州で後述)の後、大陸や半島から攻撃される脅威もあった。 こうした難題を乗り切る為には秩序ある強力な政治や軍が必要であり、そのため統一した時刻を定め、国民に共有させようとしたのであった。 

日本人が時刻を気にし、よく時を守る民族とされるのも、その大昔からのDNAが伝わっているのかもしれない。 この日、6月10日が「時の記念日」に制定され、日本で初めて人々に時刻を知らせた日として1920(大正9)年,東京天文台が定めたという。 
時の記念日は単に時間の記念ではなく、古代から国造りの為の記念であり、古代の息吹きが感じなければならない日なのである。



江戸期に入ると亀山宿、関宿、坂下宿は東海道の宿場町として賑わった。 
中でも関宿は西の追分とも言われ、鈴鹿峠越えの東海道と加太越えの大和・伊賀街道が、それぞれ分岐していたため参勤交代や伊勢参りなど、多くの人や物が行き交い賑わった。 
明治時代の中頃には、関西鉄道(現関西本線)と参宮鉄道(現紀勢本線)が相次いで開通し国有化されたことから、亀山は両線が分岐する鉄道の街としても発展した。

東名阪道の亀山I・Cにほぼ隣接して、旧東海道の「関宿」がある。
慶長6年(1601)、徳川幕府が宿駅の制度を定めて以来、東海道五十三次第47番目の屈指の宿場として参勤交代の大名行列や伊勢詣りの旅人で大いに賑わった。 
天保年間の記録には屋敷632軒、本陣2軒と脇本陣(大名の供人が多くて本陣のみに宿泊しかねる時、予備にあてる宿舎)2軒、旅籠42軒、酒食店99軒があったと記されている。

明治時代になり宿駅制度が廃止されても、往来する旅人の数はむしろ増加し宿場は栄えていたというが、明治中期の関西鉄道(現JR関西本線)の開通によって大きな打撃を受ける。 
町の産業の中心であった往来稼ぎの商売が成り立たなくなったためである。 その後は、国道1号線が旧街道からはずれた位置を通ったこともあり、近隣に生活する人々のための商業地として徐々に静かな町 へと変化し、現在に至っているようである。

関宿は、旧東海道の宿場の殆どが旧態をとどめない中にあって、唯一往時の町並み(江戸末期から明治初期の建物が多い)が残ることから、昭和59年、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、その保存とともに歴史的な町並みの特性を活かした新しい町づくりに取り組んでいるという。

建物群を鳥瞰(高い所から広範囲に見おろすこと)すると、道路に面した間口は狭く(小さく)、奥行きが長い建物が多く目立つ。
これは江戸期独特の建築手法で、道路に面した間口に応じて税金が決められたからといわれる。


国道1号線は、この旧町並みの300m南側のJR関駅前を通っている。 
車社会の現代、旧街道からはずれた位置を通ったことが旧町並みを温存することになり、幸いする結果になったといえる。
街並みの外れた辺りから旧・新道(東海道)が合流し、R25の名阪道が分岐する。 
1号線(東海道)は、ここから鈴鹿峠(東海道、西の最難所といわれる)の登りにかかると、峠の手前に鈴鹿馬子唄会館がある。


鈴鹿馬子唄』 三重県民謡
坂は照る照る 鈴鹿は曇る(ハイ ハイ) 
あいの土山 エー雨が降る (ハイ ハイ)


鈴鹿馬子唄は、一つの仇討事件を物語風に謡ったものであるという。
「江戸中期、小万の父は、元久留米藩の剣道指南役であったが同僚の恨みを買い殺されてしまった。身重の妻は、仇を追って関宿まで来たが、ここで子供を産んで、間もなく亡くなる。この時、子供の行く末と仇討のことを旅篭の主人に託したのである。子供5歳になった時、宿の主人から両親の悲劇を聞かされた、この子が小万である。それからの小万は、雨の日も雪の日も亀山に剣術修業に通い始めた。列女小万が18才の時、仇の男と亀山城大手門前の辻で出会い、晴れて父の仇を討ち果たした。列女小万の墓碑は関の街並みの福蔵寺に眠るという」

次回は「津」、往時の安濃津



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2010年10月28日木曜日

日本周遊紀行(30)長島 「三川合流地の因縁」

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 日本周遊紀行(30)長島 「三川合流地の因縁」 



長良川、揖斐川を仕切っている堤防の「千本松原」と記念碑



壮絶な「治水工事」の歴史的事実

名古屋城からは都市圏の高速道を利用し、そのまま湾岸道から三重方面を目指す。
弥富を過ぎると「木曽川」の長い橋梁を渡り、中州の・・?の長島地区から今度は揖斐川(長良川)の大河を過ぎる。

長良川、揖斐川は一体のようであるが、実際は中州の仕切りがしてあり、この中州は、この辺りから上流へ向って「千本松原」が緑豊かに延びている。
昨日通って来た駿河の原海岸に在る「千本松原」もそれなりの歴史があったが、こちらはそれのも増して過酷な重い歴史を背負っていた・・!!。


この三つの大河川は、濃尾平坦地で複雑に絡み合っているのが実情のようだ。
先ず、木曽川は長野県木曽郡木祖村の鉢盛山(2,446メートル)南方を水源とし、南西に流れている。  下流域ではかつて揖斐川、長良川と急接近し、合流・分流しながら伊勢湾に注ぐ。
長良川(ながらがわ)は、岐阜県郡上市の大日ヶ岳に源を発し、三重県を経て揖斐川と合流している。
又、揖斐川は岐阜県揖斐郡揖斐川町の冠山に源を発し、おおむね南流しながら、途中一部木曽川、長良川と平行して流れ、河口附近の三重県桑名市で長良川と合流、そのまま伊勢湾に注ぐ。

揖斐川及び長良川とも、河川法上では木曽川水系に包括されていて、水系全体の流域面積は全国5位の広さに相当し、長野、岐阜、愛知、三重、滋賀の5県にまたがっている。
なお、揖斐川と長良川は河口直前で合流し、揖斐川の名称で木曽川とは別に伊勢湾に注いでいる。 

河川は、江戸期以降何度となく改修工事が繰り返され、現在では分離・分流されて伊勢湾に注いでいるが、その中で所謂、輪中(水災を防ぐため一個もしくは数個の村落を堤防で囲み、水防協同体を形成したもの。岐阜県南部の木曾・長良・揖斐の三川の下流平野に形成されたものは有名)と呼ばれる集落も発達した。
輪中の代表格が三重県の長島輪中、他に上流部・岐阜県側の高須輪中、大垣輪中、墨俣輪中などがある。


この木曾三川と言われる大河川は、下流部においては急接近して流れていたため洪水が絶えなかった。 そのため、江戸時代から明治時代にかけ歴史に残る大掛かりな治水工事が行われたことは歴史上有名である。
特に、「宝暦治水」と「明治の改修・三川分流」の改修工事が有名で、「宝暦治水」というのは、歴史にその名を残した壮絶な工事であったという。


木曾三川の治水工事は、豊臣の時代に木曽川の尾張藩側に先ず堤防が造られ、慶長年間には尾張・徳川家によって50kmにも及ぶ堤防が築かれた。
この堤防は、尾張藩を囲む形であったので「お囲い堤」と呼ばれ、洪水対策とあわせて西国大名の侵入に備える軍略上の意味あいが強かったともいう。 
そのため、美濃地方の諸藩の堤防補強は尾張藩の過酷な使役条件に縛られるし、地理的な要素も加わり輪中地帯は洪水のたびに水害に苦しめらた。

1753年(宝暦3年)12月の大洪水の後、徳川幕府、並びに同御三家の尾張藩は水害に苦しむ人々の声を聞き、幕閣の間で合議の結果、三川分流計画を基本にした一大治水工事の実施することを決定した。
そして、この木曾三川下流治水工事を、九州・薩摩藩一藩で行いよう命じたのである。

この工事は西国大名の筆頭である薩摩藩の勢力を弱めるという他の目的もあったようで、それは薩摩藩は関が原合戦において西軍に付き、徳川藩祖の家康を不安に落しいれ、尚且つ70万石の領土を安堵してしまったことでもあった。 
尚、幕府の放つ「薩摩飛脚」の情報では、薩摩は琉球との密貿易で資金を溜め込んでいると思われたためともされる。

薩摩藩では賛否両論の飛び交う大評定の結果、1754年(宝暦4年)2月、平田靱負(ひらたゆきえ)を総奉行として、この難工事に着手することになった。
薩摩側から出した人数は家老以下947名、これに土地の人夫等を加えると2000人にも及び、この費用は約40万両の巨費に達する大工事であった。

幕府の資金は1万両のみで、当初見積もりは10万両とされたが、工事は幕府の方針変更によって計画がたびたび変更され、また大雨により工事のやり直し等が発生したりで、工事は困難を極め、併せて費用も嵩み20、30、そして40万両という多額の出費を余儀なくされたのであった。 

この間、同地の尾張藩に至近で常時見張られ、幕府からの嫌がらせもあり、又、薩摩は幕府方に専門職人を雇うよう依頼したが一切受け付けられず、資金も全額薩摩負担となり藩は困窮を極めたという。 
平田靱負は御用商人らに多額の借受を藩ではなく、平田個人名義で行い返却できるはずの無い借金を重ねた。 平田は自らの死を担保にしたのでる。

工事の最中、特に油島新田締切堤(千本松原の北部地区)と大榑川(おおぐれがわ)の堰工事は予想を越えた難工事となり病死者も33名を数えたという。 
工事期間中に幕吏からの度重なる嫌がらせや妨害工作にもあって、幕府に対する抗議の自害者、自殺者は53名にのぼったという。

そして2年越しの1755年3月(宝暦5年)遂に完成するに至った。
この治水工事は、幕府の役人も「 日本の内は申すに及ばず、唐にも是ほどのことは有るまじく候 」と賞賛し、諸国からの見学者が後をたたなかったといわれる。 
工事完了後、総奉行の平田靱負は、53人の自刃者と33人の病死者を出し、多額の借金を残した責任を一心に負って、同年5月25日早朝・・、

 『 住みなれし 里も今更 名残にて 
           立ちぞわずろう 美濃の大牧
 』

の時世の歌を残し自刃している。


平田靱負という人物も水と戦った一人であるが、この人は治水に関する技術・能力を買われて招かれたのではなく、どちらかといえば命令されて仕方なく赴いたという背景がある。

現在の「千本松原」(岐阜県海津町油島)は、油島堤ができあがった後に、その堤の上には地元薩摩のシラス台地に育った「日向松」を持ち運んで植えたものと伝えられている。 

昭和13年、長くその精神と偉業を尊び称えるため地元の人々によって、平田靱負と薩摩義士84名を祭る治水神社(岐阜県海津町油島)が建立された。治水史上、最大の難工事といわれたこの工事を称して「宝暦治水」と呼んでいる。

岐阜県海津町、平田町は、その木曽川、揖斐川に挟まれたやや上流部にある。 
輪中の町として小学生の社会科の教科書に出てくる有名どころであり、昔から、木曽川・揖斐川・長良川が流れ、風光明媚な土地柄であるが、昔から水と戦い、水害に悩まされ続け、そして、壮絶な人間模様が展開された地域でもあった。



ところで平成17年に合併して成立した海津市は海津町と南濃町、そして平田町が合併してできた市である。 
平田町は昭和30年に今尾町(大字平原を除く)と海西村が合併して成立した新しい町だが、その平田の名は当然ながら平田靱負正輔に由来している。 
地名をとって名字にする例はよく聞くが、功績のあった人物の名をとって地名とする例もないわけではないが珍しいという。
ここからも長きにわたってこの人物が地元の人々から慕われていた事を窺い知ることができるだろう。
しかし、平成の大合併で又しても歴史に名を残した由緒ある地名が消えてしまったのは残念である。 せめて、平田海津市くらいにはして欲しかったが・・?。

尚、遠く離れた鹿児島県と岐阜県とは、苦難を極めた薩摩義士の偉業を讃えるとともに、この絆を深めるため、昭和46年7月、姉妹県の盟約を結んでいる。




木曽川、揖斐川を渡ると桑名である。
平成16年12月、海岸温泉の長島町と歴史の町・多度町が桑名市と合併し、新桑名市に成っている。
この辺りから右手に鈴鹿の山並が遠く望める、あの頂きは御在所岳であろうか・・?、麓に湯ノ山温泉があるはだが。 

左は四日市の石油コンビナートが目に入る、中京工業地帯有数の工業地域で、名古屋港にならぶ貿易港でもある。
1960年代にかけて発生した大気汚染による公害・「四日市喘息」は世間の注目をあびた。
硫黄酸化物による集団喘息障害であり、日本の四大公害病水俣病=熊本・有明湾の有機水銀による生体異変、第二水俣病=新潟・阿賀野川の有機水銀中毒、イタイイタイ病=富山・神通川下流域でのカドミウム汚染・骨の異変、)の一つとされて、現在における大気汚染防止法等、日本の環境政策の拡充に大きな影響を与えたといえる。

四日市の南に日永という地区がある。
ここは京に向かう東海道と伊勢に向かう伊勢街道の分岐点にあたり「日永の追分」といわれる処である。 
追分とは道が二またに分かれるところで、伊勢神宮への桑名の一の鳥居に対して、この地に、二の鳥居が建てられている。 

市名は四のつく日に市がたったことに由来すると言われる。 御在所山麓の湯ノ山温泉は四日市の奥座敷といったところか。

次回からは近畿道で、先ず「関の鈴鹿峠



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《スキー履歴》
「スキー履歴」



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2010年10月27日水曜日

日本周遊紀行(29)名古屋 「名古屋城」

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 日本周遊紀行(29)名古屋 「名古屋城」 



これは珍しい、天主に「金鯱」が無い。(理由は下記へ)


通常の「名古屋城」


「セントレア」の構内施設、出発口、到着口等を車で巡って、そのままセントレア連絡高速路、知多半島高速路で一気に名古屋市内へ向かった。 
市内へ入って都市環状線を名古屋駅付近より丸の内のランプで一般道へ降りる。
あとはナビに従って名古屋城へ向かった。

官庁街のビルの谷間を一刻走ると、名古屋城前から二の丸の信号があり左折すると、緑に囲まれた園地の一角に路駐スペースがあった。
城の係官らしき人がいたので、
「 お城の入口はどちらですか、30分位、車は大丈夫ですかね・・? 」、
「 ああ、いいよ、150mくらい行った所に正門があるよ 」
勇んでカメラ片手に出かける。 

しかし、入城は有料だった。無一文の小生、又しても駿河・東照宮の轍を踏んでしまったのである。
外部より天守閣を望める場所を聞いて御堀端の方へ進む、確かに西側のお堀端から城内の森に囲まれながら城郭・天守閣の上半分が鮮明に見渡せた。 
白漆喰の壁に、やや緑がかった瓦屋根が各階層に優美な姿を見せている。

気がつくと、やはりというか天守閣の屋根には本城の象徴的名物である、燦然と輝く「金の鯱(しゃちほこ)」は見ることは出来なかった。 
金鯱は、平成17年(2005年)3月24日に開会した日本国際博覧会・名古屋(愛称=愛・地球博)の開会式典で展示されるためと。

愛・地球博に併せて開催された名城公園内の[新世紀・名古屋城博]のために降されていたのであった。
金鯱を天守閣から取り外して公園外の外部施設での展示は、名古屋城が1959年に再建されて以来、初めてのことだったという。

黄金のもつ不変的価値は古今東西変わることはない。
400年前の江戸開府時における徳川家康は、豊富な「」を蓄えていた。秀吉も広く天下の金鉱を求め、採掘を奨励してた。いわゆる当時は日本のゴールドラッシュ期であった。
名古屋城の小天守閣は、尾張・徳川家の「金蔵」であったともいわれる。
これらの黄金を材料にして金鯱は鋳造されたといえる。 

ところで大阪城は、名古屋城に先立つこと20余年前に築城されたが、太閤秀吉の豪奢な派手好みにもかかわらず、金鯱を飾る事はなかった。 
江戸城にしても、家康は金鯱を飾る思い付きはなかったらしい・・?。

しかるに家康は名古屋城にのみ思い切った大金鯱を飾りつけた。 
この時期になって家康の天下統一が不動のものとなり、日本の中央に位置する尾張にて天下の名城を築城し、尚且つ頂部に大金鯱を飾りつけることによって、徳川家の大いなる威勢を示したものといえる。 
結果として家康晩年の最高傑作でもあり、日本築城芸術の頂点といえるものを造りだしたのである。

因みに金鯱にも雌雄があって、雄が北側で雌が南側であり若干、大きさや形が異なっているという。

『 天下様でも かなわぬものは 金の鯱ほこ あまざらし 』
(東海道を行き来する旅人が、豪華な金鯱を雨ざらしにしている尾張様のご威光に感激した歌)

『 宮の浜には 魚が寄らぬ 金のしゃちほこ 陽に光る 』
(宮の浜とは熱田のことで、北の空に金鯱が光っているため魚が寄り付かないと唄われた歌)

金鯱が飾られた理由は美観を発揮し、城主の威厳を示すためでもあり、名古屋城は「尾張名古屋は城でもつ」と言われるほど天下に知られた名城である。
そのシンボルである金鯱は、江戸時代の旅人がその豪華さを称える歌を残しているほか、金鯱が光っているため熱田の浜には魚が寄らないなどと歌われた。


ところで、俗人の思惑で、金鯱に使われている金の価値は一体どの程度のものか・・?。
文献によると、江戸初期の「慶長大判」を1940枚使用したとされている。
大判は本来、恩賞用、献上用として使用された特殊な金貨で、小判のように通貨としては流通してはいない。
その慶長大判は、小判10枚分(10両)に相当するという。(等価ではない) 
10両は重さの単位で44匁・モンメで、グラムにすると165g(安土桃山時代頃には、ほぼ全国で1両は4匁4分 ≒金16.5グラムで統一された。実際、慶長小判では小判1枚に1両分の金が使用された、小判の額面も1両とされた。)を意味する。 

慶長大判の金位は68%であるから、1枚に金が112g165×0.68)使われている。
これが1940枚で、金鯱全体で217.3kgの金が使われた計算になる。 
現在の金の価値で1g=1500円とすれば、時価約3億2600万円の金が使われたことになる。
現在の金鯱は大阪造幣局で復元された物で、88.08kgの金が使われているとという、同様の計算で時価1億3200万円の金が使われていることになる。 
初代のものに比べると大分価値が劣るが、それでも凄い・・!!。


名古屋城は大阪城、熊本城と並ぶ日本三大名城の1つで、伊勢音頭にも・・、
『 伊勢は津(港)で持つ、津は伊勢で持つ、尾張名古屋は城で持つ 』
と歌われた名城でもある。

戦国期、駿河の今川氏親が尾張進出のために築いたのが最初といわれ、現在の名古屋城二の丸一帯にあったとれる。 
織田信長が勢力を得ると清須城として改築している。 江戸時代、清洲城の地形の悪さ(水害に弱い等)から那古野の台地に、徳川家康が九男義直の尾張藩の居城として城を築くことを指令する。 

普請奉行(室町・江戸幕府の職名。基礎、石垣や上水などの土木関係を管掌)は加藤清正、作事奉行(鎌倉・室町・江戸幕府の職名。幕府関係の建物の造営・修繕などを統轄した)は小堀政一、縄張(縄を張って境界を定めること。建築の敷地に縄を張って建物の位置を定めること、実際には軍事的意味合いを含めて、地勢や地形を計り、城郭の基本形を決める主要な業務)は藤堂高虎によるとされる。 

慶長17年(1612年)には大天守が完成する。

築城成った新装の名古屋城へ清洲から移る時は、名古屋城下の地割・町割を徳川義直が直接実施したといわれ、この移住は「清洲越し」と称され、家臣、町人はもとより、社寺3社、城下の町並み、清洲城小天守も移るという徹底したものであったという。 

明治維新後、14代藩主の徳川慶勝が新政府に対して、名古屋城の破却と金鯱の献上を申し出る。 
しかしドイツの公使マックス・フォン・ブラントと陸軍第四局長代理の中村重遠大佐の訴えにより、山縣有朋が城郭の保存を決定し、天守閣は本丸御殿とともに保存された。 

この名古屋城は戦国期より昭和初期まで、戦乱による直接的、破壊的攻防は無かったが、昭和20年5月の太平洋戦火の名古屋空襲の際、本丸御殿、大天守、小天守、金鯱などに焼夷弾が被弾して焼失してしまった。 
現在の天守閣は昭和34年に再建され、復元された金鯱とともに名古屋市のシンボルとなっている。
又、この尾張地方は、戦国期の織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の出身地で、お互い群雄割拠し覇権を争った地柄であることは周知で、名古屋は、関東、関西の中央地であるが、この地から日本の代表的人物達が輩出したことは良く知られている。



名古屋:愛・地球博

名古屋市街の東方に長久手町がある。
長久手町は家康、秀吉の両雄が戦った「小牧・長久手の戦い」の舞台となった場所で、日本三大古戦場の一つとされる。

1584(天正12)年、尾張の小牧・長久手で戦われた豊臣秀吉と徳川家康の戦いは織田信長の死後、秀吉の勢力増大に対抗し、家康が信長の子、織田信雄(信長の次男)を味方にして起こした戦いである。
家康は小牧山に本陣を構え秀吉軍と対峙、三河への侵入をはかった羽柴秀次(豊臣秀吉の甥(姉日秀の子))軍を長久手にて破る。
又、秀吉方の部将池田信輝(勝入)・森長可らが長久手で討死にするなどしたが、大勢は動かず膠着状態となる。
翌年、信雄と秀吉が和睦、家康はお義丸(結城秀康・家康次男)を秀吉のもとに人質として送り講和を計った。

この戦いは、戦術的(実戦)には家康の勝利であったが、戦略的(政治、政略)には秀吉の勝利といわれる。

小牧・長久手古戦場」の東側が、本年行われている愛知万博会場である。 
2005年日本国際博覧会、開催地の名から「愛知万博」、愛称は「愛・地球博」と称している。人と自然が如何に共存していくか、というテーマを掲げたうえで、「環境万博」を目指しているという。 2005年3月25日から同年9月25日までの半年間、愛知瀬戸市(瀬戸会場)および同県愛知郡長久手町(長久手会場)2会場で開催されている。

入場者は当初は主催者側の各種規制があったりして、暫くは伸び悩んだようだが、これらの規制も緩和され、5月のG・Wあたりからは相当盛り返し、8月には博覧会協会の当初の目標総入場者数である1500万人を突破、想定より1ヶ月以上も早い達成となったらしい。
その後も客数は順調で9月のの閉会時点では200万人突破も夢ではないかも・・?と嬉しい予想もしているとか。

会場ではリニアモターカーが大人の人気とすれば、子供達には(大人も・・?)宮崎駿監督のアニメ映画「となりのトトロ」に登場する、昭和30年代の家を忠実に再現した。 あの真っ黒クロスケが出てくる「サツキとメイの家」が超人気だとか。 
又、地元のトヨタグループ館、日立館、三菱未来館、三井東芝館とお馴染み企業グループ、地球市民村、アフリカ共同館、長久手日本館等人気があるらしい。

小生も折あらば訪ねてみたいと思っているが果たして・・?
名古屋は東京、大阪の中間に在り、地理的にも日本の中心に近い。 世界に誇るトヨタ(小生はニッサン系の地域にいる)を筆頭に製造的な業種は日本一らしい、もっとも製造業は世界に誇る日本であるから、その中心はやはり名古屋と言える。 
近頃のニュースで「トヨタ」が、自動車製造世界一、製造産業世界一になる日も近いのでは、といわれているが・・?。


名古屋に関する面白いH・Pを発見したので紹介しよう。
キーワード 「名古屋はええよ!やっとかめ
http://www.geocities.jp/momo_harumi/yatokame2004/

いずれにしても「セントレア」といい、「愛知万博」といい、近年は尾張中京地区が日本の景気のリーダー的役割を果たしている事は疑いもない。

次回は、長島 「宝暦の治水工事」



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2010年10月26日火曜日

日本周遊紀行(28)常滑 「焼物とセントレア」

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 日本周遊紀行(28)常滑 「焼物とセントレア」 



焼き物の町「常滑」に巨大施設が出現

国道247は常滑市へ向かう。
三河湾の蒲郡を起点としたR247は湾岸沿いから知多半島をグルッと一周して、ここ常滑の原松町が終点となる。

常滑は、古来「常滑焼」で知られるが、ここは「陶郷町」というから、その名のとおりで、常滑焼のふるさとである。 
常滑市陶磁器会館、登窯広場・展示工房館、INAX窯のある広場・資料館、INAX世界のタイル博物館、常滑市立陶芸研究所、常滑市民俗資料館、常滑焼・卸団地(セラミック・モール)等々の観光展示資料施設が集中している。



焼き物散歩道の象徴ともいえる「土管坂」


今も高くそびえる十本煙突や楝瓦の登り窯やなど見所も多く、陶磁器会館をスタートする「焼き物散歩道」の途中には、土管や焼酎瓶の瓶などを土留めとして埋め込まれた坂道が在り、「土管坂」と称して名所の一つにもなっている。


常滑焼は、日本の六古窯常滑・瀬戸・信楽・丹波・越前・備前)の一つといわれ、平安時代には常滑を中心にして知多半島の丘陵地のほぼ全域に窯が築かれ、当時の六古窯の中では最大級の生産地であったという。 

室町時代に入ると、窯は常滑地区に集まり、生産品も大型化する、その大型化したカメや壷は交通の要衝である知多半島の各港から船で日本全国に運ばれた。

現在では製品も、花器・茶器・招き猫等の置物・ガーデニングなどに使われる園芸鉢・茶碗等の和食器・フリーカップ等の洋食器等、多種多様の焼き物が生産されている。 
今も小生宅で使用している赤褐色の急須は、朱泥焼(中国江蘇省宜興窯に産する赤褐色で無釉締焼の陶器のこと。土質緻密、セツキ質になるまで焼いたもので多くは茶用の急須にする)の技法といって常滑焼の代表的な製品になっているとか。



常滑市は最近、もう一つ巨大な施設が御目見えした。

原松町の信号を左折して陶磁器会館の前から海岸に近ずくと、新装なった高速路に出る。 
高速にのってそのまま海上方向に行くと、海峡大橋から海に浮かぶ巨大な地域が目に入ってきた。 
空港島「セントレア」である。

セントレア・・?? 実は、この海峡大橋もセントレア大橋という・・!!。

中部国際空港(ちゅうぶこくさいくうこう、Chubu Centrair International Airport)で、愛知県常滑市沖の伊勢湾海上にある第一種空港である。
セントレア(Centrair)は中部(Central Japan)と空港(Airport)を組み合わせた造語の愛称で、同空港管制の無線呼出名称(コールサイン)であるとか。
因みに、第一種空港とは、東京,大阪等我が国の航空輸送ネットワークにおける基幹空港・国際空港のことで、第二種は主な地方空港、第三種は一般地方・島部空港等である。

中部国際空港の開港は、2005年名古屋における日本国際博覧会と並ぶ名古屋圏の二大事業として話題を集めており、開港と同時に開業初日である2月17日には10万人が押し寄せたという。 
そのため利用客や見学客で商業施設、その他が大変混雑し、飛行機利用者の中から不満の声も挙がったという。 混雑の理由に、空港以外の機能も充実していることや、「 飛行機を利用しない方も大歓迎します 」という空港側の宣伝効果も挙げられたという。 

空港の立地形態は大阪湾に浮かぶ「関西国際空港」と類似しているようだ。



そして、「南セントレア市」という行政地域名・・?、

ところで、「平成の大合併」のことは、この項で何遍も記したが、最近、話題をにぎわしたのは幻の「南セントレア市」騒動であろう。
「南セントレア市」は美浜町と南知多町の合併後に予定された新市名であった。
この名称は合併協議会が、無論、中部国際空港の愛称「セントレア」にちなんで決めたものであろう。

ところが、この新市名が発表されると、「外国の地名のようだ」、「こんな田舎にはふさわしくない」、「恥ずかしい」など、町民からは当惑や抗議の声が上がり、協議会も再検討せざるを得なくなった。 
そして、協議会が合併の賛否を問う住民投票と新市名についてのアンケートを実施したところ、住民の反応は合併も地名も「ノー」であったという。


ところで、地名にはその地域の歴史や文化が染みついている。 
その地にふさわしい常態を表す「日本語」による漢字が、やはり適切で妥当だと思われる。 

小生の実家・田舎は「いわき市」と称し、ひらがな文字をつかっている。  これも余り好きでは無く、感心しない呼称ではある。 
ともあれ、美浜町と南知多町は新市名について混乱が生じた為に合併まで影響を被り、名前のために合併そのものが頓挫してしまった形となったようである。

次回は、名古屋 「名古屋城とイベント



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2010年10月25日月曜日

日本周遊紀行(27)野間 「縁と因縁の地」

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日本周遊紀行(27)野間 「縁と因縁の地」


野間灯台


野間は、「縁と因縁」の今昔の地

内海を過ぎて間もなくすると道路のすぐ横の海岸に、いきなり灯台が現われた。 「野間灯台」と記されていた。
ほぼ渚の磯の上に立つ白亜の灯台は、伊勢湾を航行する船舶のよき道しるべとなっていて知多半島のシンボル的存在であろう。 

しかし何故か、この灯台の周囲は鉄のフェンスで囲ってある。
このフェンスを良く見るといろんな形の錠前(主に南京錠)が多数引っ掛けてある、しかもその錠に男女のカップルの名前が記され、何事かメッセージが書いてある。 

何のことはない、ここは恋が成就する願掛けの灯台だったのである。 
以前、ある週刊誌に興味本位に描かれたのをきっかけに今年になってどんどん増え、しかも町が広報誌で宣伝したから、なおさらブームにもなっているとか。
野間灯台の明りに照らされ、錠(情・・?)でしっかり結ばれて離さない。 何とも男女間の機微、情の景は理解できるが・・?。

この先の奥田の山中に「恋の水神社」というのがある。
多くのカップルや若者がお参りに来るという祈願社で、あらゆる病気、特に「恋の病」に効くといわれ、そこには「恋の水」が湧いているともいう。

美浜町は名称からしても、何ともロマンチックな街のようである。


大御堂寺(野間大坊)の本堂, 源義朝廟と小太刀の奉納


こちらは往時の因縁の地でもあった

源義経、頼朝公の実父「源義朝」はこの野間の地で命を落としている。
義朝は京都六波羅の合戦である「平治の乱」で平清盛に破れ、この野間の地に落ちのびてきた。
ここで家臣の長田忠致、景致親子による裏切りで入浴中に謀殺されている。
丸腰だった義朝は「我に小太刀の一本でもあれば討たれはせん」と言い残して果てたという。

国道の奥まったところに7世紀に創建された古刹「大御堂寺」があり、源義朝公御廟がここに祀ってある。 
嫡男・頼朝公は鎌倉幕府、開府直前にこの地に参り、父義朝公の法要を執り行い、境内の様々な伽藍建立されたという。 
その後、秀吉、家康の庇護を受け更に繁栄し、現在尾張地方随一の祈祷寺として人々に広く信仰を集めているという。  

家臣の謀反により殺された義朝公の墓には、その霊を弔うため今も有志者によって木太刀が多数供えられている。 
あの時、「小太刀の一本でもあれば・・」と無念の想いを託して奉納するのであろうが、木太刀は廟のすぐ近くで、サイズをいろいろ取り揃えて販売されているようである。 
寺社関係者の商魂逞しき・・、と言いたいところだが。

野間灯台の錠前、義朝廟の木太刀といい、これらを持ち寄って信仰の意志を伝える日本人的精神活動には、何かの共通点が見える気もするが・・?。



この大御堂寺には、もう一つの因縁事件があった。

戦国期の本能寺の変(1582年、織田信長の重臣・明智光秀が謀反を起こし、京都の本能寺において主人信長を討った事件。天下統一を目前にした織田信長は命を落とし、日本の歴史を大きく変える出来事となる)の後、織田信孝(信長の三男)は光秀を滅ぼしたという功績にも関わらず、清洲会議で織田家の後継者は羽柴秀吉によって三法師君(幼少・信長直系の孫・秀信)に決められてしまう。

この処遇に不満をもった信孝は家老の柴田勝家らと結び、秀吉に対して挙兵するが、賤ヶ岳の戦いで勝家が敗れて信孝は尾張国知多郡野間(愛知県美浜町)の大御堂寺に送られ蟄居させられる。
後に秀吉に切腹を強要され、この地で自ら自害して果てた・・、享年26。

辞世の句に・・、

『 昔より 主をば討つ身(内海)の の間(野間)なれば
                        報いを待てや 羽柴筑前
 』

自分の身を、家臣に裏切られ殺害された源義朝になぞらえ、羽柴筑前(秀吉)に対する憎悪を剥き出しにした壮絶な歌である。


美しき知多の浜において昔、壮絶な人間模様があったようだが、今は男女の色模様で賑わいを見せている。 
そんな事を知ってか知らずか、今も伊勢の海はキラキラと輝いている。

次回、常滑の「焼物とセントレア



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2010年10月24日日曜日

日本周遊紀行(26)知多 「羽豆岬」

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 日本周遊紀行(26)知多 「羽豆岬」 



知多半島、「羽豆岬」の今昔

河和を過ぎたあたりから、海の青が濃くなったような気がした。
外海が近くなったせいかと思ったが、上空が晴れ渡ってきて空の青が海の青を一層際立たせているのだろう。
南知多の先端の港、師崎港を左に見ながら岬の先端へ向かう。
立派な駐車場があったが、有料だったのでミニ公園の入口部に車を止めた、一応駐禁の場所であったが・・!。 

羽豆神社の参道石段が目の先にあった。 
丘の方角からあまり上手とはいえないペット(トランペット)の音色が心地よく響いてくる。社の前で一礼して、その横に中年のおじさんがペットの子犬を同伴して練習に励んでいた。

コンチワ・・やってますね・・!、展望台へはこちらでよろしいですか・・?」
耳ざわりでスイマセン・・、はい、今日は空気も澄んでて見晴らしは良いですよ・・!」
どうも・・」、気さくな一声に、気さくな返事が返ってきた。

途中、緑の林を歩く。 これは天然記念物の「うばめがし」という木で、姥目樫と書くらしい。 
ブナ科の常緑高木で高さ8~9mに達し、暖地の山地や海岸に生える特性があるといい、幹は直立しないで横に伸び、葉は小形で硬い。
雌雄同株で5月頃黄褐色の小花をつけ、果実はドングリ状で渋味少なく食用になるという。 材は堅く、火力の強い木炭に適し、若芽はタンニンに富み、付子(ふし・タンニン材として薬用・染織用・インク製造用に供する。昔はその粉を女性が歯を黒く染めるのに用いたという・・お歯黒)の代用として重宝された。 
この辺り一帯の社叢(しゃそう・神社の森)樹林は、国天然記念物に指定されているという。 

数分の遊歩道の緑のトンネルは、別名「恋のロマンスロード」と呼ばれているらしい。 歩いていると、キラキラと輝く海が見えてきて、木々のトンネルを抜けた先に展望台が現れた。
ここからの眺望は360度、圧巻そのものである。師崎港を眼下に、篠島・日間賀島は目の前だ、東に三河湾、南に伊良湖岬・神島・鳥羽・伊勢を望み、西に伊勢湾・鈴鹿の山並みも一望される。
又、波紋のきらめく大、中、小の船の往来が長閑(のどか)である。


知多半島の先端部である師崎(もろざき)地区は昔から尾張国の支配者との関係が深かった地域である。
その象徴であるのが羽豆神社で、今は「うばめがし」に囲まれて静寂の中に鎮座している。 社の創建は7世紀、延喜式内(平安期に制定された神社の格式、序列)に列する古社で、祭神は「建稲種命」(タケイナダネノミコト)といって尾張氏の祖神に当たるという。

日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が景行天皇より東国平定の命を受け、尾張国初代の尾張国造(くにのみやつこ)の子である建稲種命(タケイナダネノミコト)を副将軍として水軍を統率し東征に向かった。
東征の帰途、命は駿河の海で命を落とし、その衣服が羽豆岬に漂着したことから、それを御神体とし、岬に祀ったのが羽豆神社であるという。
この地は古代尾張水軍の拠点でもあり、江戸期には尾張徳川家累代義直、頼宣、光友、義誠、吉通などが参詣した水軍の祭神でもある。

又、神社の後方には、克って「羽豆城」があったという。
南北朝時代、南朝方の千秋昌能(せんしゅうまさよし)によって、南朝方の拠点として築城されたという。 千秋氏は藤原南家(奈良時代における藤原家の家系)季範(すえのり)の子孫で、その娘は源義朝に嫁して頼朝を生んでいる。

羽豆城は南朝方が東国より吉野に入る中継地としても利用されていたが、宗良親王(むねながしんのう・後醍醐天皇の皇子)や新田義貞など著名な武将が羽豆城に滞在したという。 
羽豆城主を継いだ二男の加賀守季忠(すえただ)は織田信長の武将としても活躍するが、永禄3年(1560年)桶狭間の合戦で今川軍の先鋒隊と戦って討死している。
その子季信(すえのぶ)は、信長の命により熱田大宮司職に専念したという。
戦国期までは水軍の拠点として盛衰をたどるが、江戸期の安定期に入ると次第に重要視されなくなり羽豆城は廃されていった。


伊勢湾口の波に洗われる「羽豆岬灯台」


羽豆岬周辺の海岸線は、伊勢湾口の海上権をおさえる拠点として古代より政治的・軍略的・経済的に海運交通を統制・監視する上において地理的に重要な位置を占めていた。 
そんな城は、灯火の役目も担っていたのかもしれない。 
しかし現在、この地に灯台が無いのは些か不思議な気がするが・・?、気がつくと岬の先端から伸びる小島の上にチョッと地味な灯台が立っていた。
現在、城跡を示すものはの石碑の他は何もない。

先ほどのペットのおじさんに一言礼を云って、羽豆岬を後にした。


知多半島の西部海岸道は伊勢湾を見ながら実に温和で良い、この海岸近郊地域は海の楽しみもも多そうである。 
内海の千鳥ケ浜は、東海随一とも呼ばれる砂の美しい海水浴場で、海水浴シーズンには名古屋方面から100万人の観光客が訪れるという。 
又、温泉も在る、南知多温泉郷といって内海、山海、豊浜地区の総称をいう。 

天然温泉は地下1300mに眠る化石温泉で近年掘り当てたもので、薄茶色のナトリウム・カルシウム塩化物強塩泉で切り傷、火傷、慢性皮膚病等に良いとされる。
道中、天然温泉「白浜の湯」の日帰り温泉ランドが目についたが、入館1200円とチョッとお高いので遠慮した。


道々、「こうなご」の看板が目に付いた・・、 
小さな女の子」と書いて、関東地区同様、小女子(こうなご)と呼ぶようだ。 
この伊勢湾も特産地の一つで今頃(5月~6月)が旬、獲りたてで乾燥したものを、これまた東海地方(愛知・岐阜・三重)で代表的な醤油の一種である「たまり醤油」(少量の小麦を加えるか、又は大豆のみで製造する、そのため他の醤油に比べ、うまみ成分が多く、味がまろやかで濃いといわれる)で調理し、「つくだ煮風」にして食すのが絶品らしい。

小女子(こうなご)は「イカナゴ」のことで、小さいものを小女子と称しているようで、成魚のイカナゴを大女子(おおなご)と字をあてる地方もあるとか。 
名前の由来は「いかなる魚の子なりや」と問うに、何の魚の子か判らなかったことから「イカナるコか・・」が、イカナゴと呼ばれるようになったという俗説がある。 
瀬戸内海の明石海峡あたりが本場らしいが、地形や汐の干満、風によって発生する潮目のところに多く産するという。潮目にはイカナゴを含めて様々な魚が集まるり、エサとなるプランクトンが豊富であることから。 
因みに、似たような小魚に「ちりめんじゃこ」というのもある。 こちらはイワシの稚魚で、良く見ると頭の形が違うらしい。

次回は、野間・「縁と因縁の地



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2010年10月16日土曜日

日本周遊紀行(25)吉良 「刃傷事件の主君」

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 日本周遊紀行(25)吉良 「刃傷事件の主君」 



刃傷事件の吉良家、地元では・・?

三ヶ根山の西の麓に吉良町が広がる。 
吉良」(きら)の名は八ツ面山(やつおもてやま;現、西尾市にある低山)に産する雲母(キララ又はキラ)の呼び名から起こったとされ、中世(13世紀の頃)の三河国吉良荘の領主は足利氏の支族・名門吉良家が領していた。 
その吉良家は東条吉良氏と西条吉良氏に分家することになる。
吉良氏といえば、誰もが「忠臣蔵」の悪役吉良上野介を思い浮かべるが、この上野介義央は、西条吉良氏の末裔にあたる。

江戸時代初期には著名な領主に旗本・吉良上野介義央(きら-こうずけのすけ-よしなか)がいた。 石高は高家筆頭4200石で、万石未満の旗本ながらも官位は従四位上(浅野内匠頭は従五位下)を授かっていた。 

この氏が江戸元禄期、江戸城内における公式の儀式、場所である殿中・松之廊下において播州赤穂藩五万石の藩主浅野内匠頭に斬りつけられる、という刃傷事件が起きる。
その要因、原因は多々取りざたされているが、いずれにしても将軍綱吉は即刻、藩主・内匠頭に即日切腹、播州赤穂藩には、お家断絶を申し付けた。
これより浅野家の赤穂藩は消え、藩士はすべて浪士になったのである。 

刃傷事件から1年9ヶ月後、大石内蔵助以下47人の赤穂浪士が江戸松坂町の吉良邸に乱入し、激闘の末、吉良上野介義央の首級を挙げ、泉岳寺の浅野内匠頭長矩の墓前に供えた。

忠臣蔵」のお蔭で、赤穂四十七士の忠義が300年にわたって称賛されている一方で、吉良氏は「日本一悪いヤツ」にされ、その名は黒い影に覆われてしまった。
つまり、”日差しが強ければ強いほど影は濃くなる”ように。

しかし、地元・吉良町では吉良上野介は新田開発や産業の振興などに尽くした名君として長く慕われていた。 刃傷事件のその後、赤穂浪士ゆかりの赤穂市とは長く遺恨の関係にあった。
しかし1990年以降、双方の話し合いによって理解し合い、交流が始まり、今では忠臣蔵イベントやスポーツなどを通して活発な交流が行われるようになっているという。

因みに、遺恨の事で・・、
幕末、戊辰の役で長州軍(官軍)と会津軍とが、会津城下で最後の凄惨な戦闘が起こり、会津軍は降伏する。 その後、戦後処理において、その処置の仕方や会津藩全藩の国替え(不毛の地、陸奥国津軽斗南地方、事実上の全藩の遠島処分)に伴って、会津藩士は過酷な苦渋を強いられる。 この遺恨は末代まで引き継がれ、今日になっても会津若松市と山口県萩市は話し合いは持たれるものの、未だ遺恨の関係が続いているといわれる。



一色町」の鰻・うなぎは日本一・・?、

国道247は、吉良町から矢作古川の松大橋を渡ると一色町に至る。
吉良町辺りから沿岸部は見通しの良い平坦地が続く、矢作川の沖積平野で、所謂、デルタ地帯である。
矢作川(やはぎがわ)は、中央アルプスを水源とする一級河川の清流で、清流魚である天然アユの豊漁の地としても知られる。
矢作古川は元の本流であり、江戸から明治期、氾濫を抑えるため新たに開いた水路が、はるか西の方、碧南市と西尾市を流れる(明治水路)。

岡崎市街の旧東海道に架かる矢作橋は日吉丸(後の豊臣秀吉)が野武士の棟梁である小六(蜂須賀子六正勝)と出合った場所として知られているが。
この話は創話と承知であろうが、この逸話を伝えるために矢作橋の西側に両人の「出合之像」というのがあるらしい。 蜂須賀子六は藤吉郎と共に信長に遣え、後に秀吉が西国を治めると同時に、蜂須賀子六正勝は阿波・徳島の一国を授かっている。


一色町は、この矢作川のデルタ地帯の一角にある小さな町域である。 
だが、この小さな町域に「日本一」と称する品目が数種類あるという。 
中でも秀たる物に「鰻の生産高が日本一」だそうだ。 

現在、ウナギを養殖生産しているのは、静岡県(浜名湖産)、鹿児島県と愛知県が圧倒的に多く、全国の63%を占めている。 愛知県は、昭和58年に静岡県を抜いてから平成9年まで14年連続首位を守ってきたが、昨年、鹿児島県に一位の座を占められる。 
愛知県の生産量は全国の31%を占め、うち一色町の生産量は県内生産量の75%で、全国では23%を占めているという。 
市町村単位で言えば、一色町が15年連続で「日本一のウナギ天国」を誇っているのである。

矢作古川と国道南側一帯には広大な水面が広がっている。
これが鰻の生簀(いけす)で、矢作川の肥沃な表流水を水源としている。
そのため井戸水を使用している他市町村の「うなぎ」に対し、限りなく天然に近い栄養豊富な、美味しいうなぎが養殖できるようになったのだという。



矢作川本流の矢作川大橋を渡り碧南市へ入った。
渥美半島と知多半島に囲まれた三河湾は、いわばカニのハサミにあたり、湾岸部はその口に相当する、つまり天然の良港なのである。 
碧南の大浜地区は背後に尾張地方を望み、その地形から古く南北朝・室町時代頃から大浜湊として千石船が出入する湊町として栄えたところでもある。
そのためか大浜地区は、今でも神社仏閣や古き良き建築物が多く点在する。 最近ではこの景観地区を国の施策に則って、「歩いて暮らせる街づくり」というモデルプロジェクトを選定し、人と自然が調和した新しい町並み造りに励んでいるという。


衣浦港の衣浦トンネルは、碧南と半田地区の埠頭を結ぶ延長1.7kmの海底トンネルで、港湾都市・半田市の象徴でもある。
衣浦港の一角に昔ながらの半田運河(十ヶ川)が連なり、面して黒塀や蔵が情緒を醸しだしている。 ここは醸造業(酒、酢)に代表され、今でも現役で活躍しているという。 

衣浦港を潜る衣浦トンネルを出ると半田市街へ向かう県道265号となるが、小生は師崎方面(知多半島先端)と標識のある道へ左折し、2車線の高架道路の工場地帯を抜けていく。 
高架道路は途中までで、道なりに走っていると十字路に出て再び国道247に合流した。 
知多半島には中央部に南知多道路という有料道路が走るが、もちろん小生は沿岸の一般国道247号を行く。

蟹のハサミの付根に当たる東西部には臨海工業地が広がり、東部の豊橋地区は国内でもトヨタ自動車を中心とし、最大規模の自動車製品及び部品の輸出入拠点となっている。 又、こちら西部地区は、衣浦港を中心に鉄鋼、輸送機械工場や発電所が集まる工業地である。
又、中央部の蒲郡、幡豆町は温泉や観光施設が特色を出しているようである。 


知多半島の内浦に面する武豊町辺りから、静かな海辺と漁港が連続して気持ちをホッとさせる地域である。 特にこの辺りはアサリの潮干狩りが盛んのようで、それらの案内板が多く目に付く。 

美浜町の河和から南知多町の先端「羽豆岬」は向かう。

次回は知多の「羽豆岬


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2010年10月15日金曜日

日本周遊紀行(24)蒲郡 「三ヶ根山」

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 日本周遊紀行(24)蒲郡 「三ヶ根山」 




蒲郡の沿岸より望む竹島と三ヶ根山の山並み


三ヶ根山頂に眠る「殉国七士廟」;東條英機(元陸軍大将)、武藤章(元陸軍中将)、松井石根(元陸軍大将)、木村兵太郎(元陸軍大将)、土肥原賢二(元陸軍大将)、広田弘毅(元総理大臣)、板垣征四郎(元陸軍大将)




田原の市内を抜けて県道2号から三河湾大橋を渡っての豊橋へ向かう。 元有料道路だけあってさすがに立派な橋である、記念に写真を一枚。

次に豊橋の湾岸線R23を行く。 バイパスだけにかなり快適に走れる。
三河湾の周辺地はトヨタ自動車田原事業所をはじめ自動車産業が盛んで、豊橋港湾を中心とした施設は日本第一位の自動車貿易港でもある。  

一方、蒲郡は豊橋の港湾都市に比して、海辺の観光都市と言えるであろう。海岸沿いに四っつの温泉が湧き、蒲郡には海辺の五館という水族館、海の科学館や博物館が並び、蒲郡のシンボルともいえる「竹島」が浮かぶ。 
竹島は長さ387メートルの橋で陸地と結ばれ、島全体が国の天然記念物に指定されている。 4月上旬から6月下旬には海岸で潮干狩も楽しめる。

海道より比較的近場の三谷温泉に行ってみたが、立寄り温泉らしいものは無く、宿屋の方も午前の早い時間帯というせいもあって、今は静まりかえっている。 

次に、東を渥美半島、西を知多半島に囲まれた三河湾に喉仏の様に突き出た西浦半島の先端に広がる西浦温泉を訪ねた。 
岬の先端にある浜辺の温泉で、古くから風光明媚な場所として知られる。 
30数年も前、小生の新婚旅行に訪れた温泉地でもある。

今では海岸線からの斜面に沿って設備の充実した大型旅館やホテルが林立し、「東海の熱海」とも形容される近代的な温泉になっている。 岬の高台から眺める三河湾の360度のパノラマ展望も見事である。
又、海岸は400メートルほど続く砂浜が波穏やかで、夏は海水浴客で賑わう。 
西方には穏やかな海に小島(沖島)が浮かび、赤に染まる夕日を眺めながらの湯浴みは最高だともいう。
西浦温泉は泉質はアルカリ性単純泉、単純緑バン泉など効能はリウマチ、神経痛、皮膚病など効能豊かな温泉としても知られる。



三河湾に面して一際目立つ山並みが連なる。 標高300mを超える三ヶ根山の山塊である。
三ヶ根山 (さんがねさん) は三河湾の展望台で、近年まではロープウェイや回転展望台が有り、我らも楽しんだ記憶がある。
当時は相当に賑わっていたようだが、近年では三ヶ根山スカイラインの開通や観光客の減少に伴って、その役目を終えたようである。

山頂付近には殉国七士墓(極東軍事裁判で絞首刑となった、東条英機ら七人の霊をまつった墓)がある。
殉国七士の遺骨は、人目を避けて密かに伊豆山中に祭られていたらしいが、幾星霜を重ねた後の遺族の同意のもとに財界その他各方面の有志の賛同を得て、日本の中心地・三河湾国定公園三ヶ根山頂に建立され、墓碑と共に安置されることになった。



東京裁判と殉国七士

敗戦のやむなきに至った日本の行為を米中英ソ等の戦勝国が東京裁判で裁き、票決により昭和23年12月東條英機、広田弘毅、板垣征四郎等、いわゆるA級戦犯(A級・・??、 A、B、Cの区分のこと)とされる氏たちの絞首刑を執行した。

A級戦犯のA,B,Cとは罪の重さ、軽さのランク付けではなく、GHQ(連合国總司令部)が戦犯選定のさいに用いた犯罪の内容・種別を示しているもの。 
A級は戦略戦争を遂行した「平和に対する罪」、B級は戦争法規・慣例にした「通常の戦争犯罪」、C級は民間人に対する迫害や殲滅(せんめつ)を実行した「人道に対する罪」という内容だが明確な法的根拠は無く、「A級戦犯」は呼称・通称にすぎないという。

東京裁判(極東国際軍事裁判)では26人が「A級戦犯」として起訴され、7人が処刑された。 その後、いわゆる靖国神社には東京裁判での終結、未決で死亡した14人が祭られているという。
尚、処刑された7人は密かに埋葬され、その遺骨がこの三ヶ根山の頂きの眠っているのである。

処刑後の昭和23(1948)年12月23日、米軍による久保山火葬場(横浜市保土ヶ谷区)で米軍によって火葬にふされた。
この時、遺骨は米軍の手にあり、処刑された後、殉死した7人が英雄にまつりあげられるのを恐れた連合国は遺骨を持ち出すことすら禁止し、飛行機で空中に遺骨を撒き散らす予定であった。

これを知った日本人の係官は幸いクリスマスの時期であったため、監視の目をくぐりぬけて遺骨を密かに持ち出したという。 七士の間違いの無い遺骨が、日本人の手に入ることができたのである。
そして火葬場のすぐ隣の禅宗の興禅寺に仮埋葬した。

久保山火葬場は無論、米軍占領下にあり、厳重な警戒網を突破して懐中電灯を点滅しつつ竹竿の先に缶等をつけ苦心惨憺、息を殺しつつ、とうとう全部を収めたという。
だが、興禅寺にいつまでも隠匿しておく訳にはいかず、いつ発覚して持ち去られ、いかなる処罰にあうか知れない。 
そこで東京裁判の弁護士を勤めた三文字氏や林逸郎氏等の人々や七士の遺族の人々が極秘のうちに相談した結果、遺骨を熱海の松井家に一端移す事になった。 
その後、三文字氏等が「興亜観音」を訪れ「知り合いの、ある人の遺骨ですが、時期の来るまで、誰にも分からぬ様に、秘蔵して置いて貰いたい」と依頼した。

この間、関係人は大変な苦労があったようだが、昭和26(1951)年9月8日、サンフランシスコで講和条約が整い、以後は、米軍の日本取締りは非常に緩められた。 
そして、それ以降は七士の遺骨の持ち出しの秘話や、またその遺骨が興亜観音の境内に埋蔵されている事なども新聞等にぽちぽち報道されるようになり、興亜観音に七士の遺骨を弔う人も多くなったという。

興亜観音にある「七士之碑」は、昭和34(1959)年4月19日に建立されたもので、碑の文字は元総理・吉田茂氏の筆によるものである。 
観音像は、昭和15(1940)年2月、時の親中派の陸軍大将・松井石根(まついいわね)の発願によって、日中戦争(支那事変)での日中両軍の戦没者を「怨親平等」に、ひとしく弔慰、供養するために建立されたものだという。

「興亜観音」は熱海市から伊東市へ向かう海岸道路ぞいの興亜観音というバス停から、急峻な坂道を上って20分ほどのところ、豊穣な緑の放つ香り高く濃密な空気が支配する場所という。

更に又、昭和35(1960)年8月16日には、愛知県幡豆町の三ヶ根山に「殉国七士墓」が建立せられて盛大に墓前祭が行われた。 
そこに埋葬された遺骨は、三文字氏、林逸郎氏等によって発起されたものであり、明らかにこの興亜観音にある骨壷から分骨したものであるという。
碑は、日本の地理的中心地であり、太平洋、そしてその向こうのアメリカに向けられ建っているという。

墓中の魂は、戦後60年の間変わり往く日本の姿をどのように見つめていたのだろうか・・?。

次のことは私観だが・・、
仮に東京裁判を良しとしよう、A級戦犯といわれる諸士の執行を良しとしよう。
しかし事後の処置、処遇に関しては特に、サンフランシスコで講和条約が整った後は、完全に国内の公の問題であろう。 

先の戦争で犠牲となった人々を慰霊する中心施設として「靖国神社」がある。
A級戦犯とされる「殉国七士」も同様に祀られているのは周知であるが、現在の日本の姿を思うとき、戦争で犠牲となった人々の上に成り立っている事を忘れてはなるまい。
遺族、関係者の他にも国民及び、国民を代表する現代の人々は、こぞって靖国神社にお参りすべきであり、例祭においては追悼の行為をしなければならないのである。

60年以上経た今日、特定国がA級戦犯だ・・!、靖国参拝だ・・!と非難し問題視しているようだが、それはそれとして、このことは国内の公の事柄である。 
日本的原理原則に基ずいて、日本の先導者達は国外的にも、国内的にも毅然とした態度で処理し、決して政治の道具にしてはいけないし、されてもいけない事なのである。

三ヶ根山の頂きに眠る「七士の霊」は、当時の極限状態であった日本を導いた因果について遥かに遠く、眼を海の彼方にやりながら太平洋戦争の真因を探求しているのであろう・・?、
これは現世の日本国人にも必要なことで、併せて、この事は歴史を学ぶことであって、遠い過去のことを同じ民族として糾弾することではないのであろう・・?。
いずれにしても戦争(集団的殺戮の争い)は永遠に避けたいものである。

次は、吉良の「刃傷事件



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2010年10月14日木曜日

日本周遊紀行(23)田原 「渡辺崋山」

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 日本周遊紀行(23)田原 「渡辺崋山」 


田原の渡辺崋山は、我が「厚木」にも縁があった

田原市は2003年8月、田原町と赤羽根町と合併(編入合併)し、新市として成立していて愛知県では32番目の市である。 
又、2005年10月には更に渥美郡渥美町(伊良湖)を編入合併する予定らしく、概ね渥美半島の全域は田原市となる。
その田原市の国道259号のど真中、繁華街の一角に道の駅「田原めっくんはうす」があった。 
昨夜は遅くこの道の駅で車中泊まりとなり周囲を傍観する余裕は無かったが、今朝、気がつくと駐車場は広く、建物も大きく、すっきりしている。 


しかし妙な名前の「めっくんはうす」とは何ぞや・・!、

近くの看板に黄色いハートマークが微笑み、その周りを「」のようなものがぐるり取り囲んでいる。 
そして説明には『 四方八方に出ている手足は、花の芽、野菜の芽、そして村おこしの芽であり、文化の芽、産業の芽、発展し成長する元気な「街」を表しています。これらの芽を発展させる「家」としてこの名前が付けられました。 』とあった。
明快かつ前向きな「宣言」で、なるほど、めっくんは「芽っくん」だったのである。
それにしても、やはり妙な呼称である。 

今は早朝で人影は無いが、都会の中の道の駅としては大きな方で、地元の野菜や果物をはじめ、衣料品まで揃う売店もあり、日中は多くの人で賑わうという。



田原には「渡辺崋山」がいた

学者として、画家として、また政治家として活躍した渡辺崋山(通称は登:のぼる)は、1793年、江戸の田原藩上屋敷で生まれている。
後に田原藩家老となり、殖産興業につとめ藩政改革を行い、田原藩の繁栄に貢献している。 

特に、天保の大飢饉(天保7、8年の大飢饉)には備蓄倉庫内の米穀によって、藩内に一人の餓死流亡者も出なかったことから、幕府は田原藩を優良藩として唯一表彰している。
崋山の指導力による功績であった。

又一方では崋山は、鎖国時代にあって西洋事情を研究し、蘭学者の高野長英、小関三英(こせき さんえい:江戸時代後期のシーボルトの門下生、医者・蘭学者。出羽国の庄内地方・鶴岡出身)、幕臣の川路聖謨(かわじとしあきら:豊後・日田出身、幕末開国のため、日露和親条約や日米修好通商条約に調印、1868年・明治元年に勝海舟と新政府側の西郷隆盛の会談で江戸城開城が決定した報を聞くと割腹自殺)、江川英龍(太郎左衛門:江戸時代後期の幕臣で伊豆・韮山代官、東京湾岸のお台場を作った人物で知られる)などが加わり、海防問題などで深く議論するようになった。 
特に江川は、崋山に深く師事するようになり、幕府の海防政策などの助言を行っている。

こうした崋山の姿に藤田東湖(幕末に活躍した水戸藩の政治家、学者、尊王攘夷の先駆者)は「蘭学にての大施主である」と呼んでいる。
崋山自身は蘭学者ではないものの、時の蘭学者たちのリーダー的存在であるとみなしての呼び名であった。
しかし、幕府守旧派の目付・鳥居耀蔵等により、これらの活動が発覚、糾弾され、幕政批判という名目の蛮社の獄(江戸幕府が洋学者を弾圧した事件)に連座しているとして有罪となり幽閉、国元に蟄居を命ぜられる。

謹慎中の崋山の窮乏を助けるため、弟子たちが江戸で開いた画会が、蟄居中不謹慎とうわさされ、藩主に累(るい)が及ぶのを恐れた彼は、天保12(1841)年に自害している。 

渡辺崋山は、国家のために殉じた一人であった。



画家、文化人でもあった渡辺崋山は、江戸末期当時、経済の要衝で「小江戸」といわれるほど繁栄していた、わが町・厚木(神奈川県厚木市・小生在住の地)を物見視察している。
崋山はこの時の紀行文「游相日記」に『 厚木の盛なる、都とことならず。 家のつくりしさまは江戸にかわれど、女・男の風俗かわる事なし 』・・、と書き、厚木の豪商や大山街道の繁栄ぶりを描いてる。 
同時に厚木の風景画・「厚木六勝」の絵を残している。 


崋山の画業は、困窮した生活をしのぐために生来好きだった絵を学び、武士の身分であって画会をも開いたという奇才の持ち主であった。 
藩重役の家に生まれたものの当時の田原藩は財政難を極めて、俸禄はわずかしか支払われず、加えて父が病気がちであった為に幼少期は貧困の中を送っている。 
弟や妹は次々に奉公に出され、この悲劇が後の彼に勉学を習わせ、社会に貢献する姿とあわせて、戦前の「修身教科書」に偉人として掲載されていた。

因みに、当時の修身教科書は、勇気、堪忍、公益、衛生、度量、博愛、自信、清廉などの多くの徳目とともに勝海舟、野口英世、二宮尊徳、渋沢栄一、山田長政等の偉人達が掲載されている。


昨今の「教育」でよく言われることは、父母や先生を敬い、友人を大切に学業を修め、知育徳育を成就する社会性、公益性、しいては国家国民の繁栄を教えようとする意思、熱意に欠けるといわれる。 
つまり、修身的教科を等閑(とうかん:物事をいい加減にすること、意を用いないこと、なおざり、おろそか)にしているようであると。

尤も、これには戦後アメリカが進駐した際に推進した「修身、日本歴史及び地理学停止に関する件」というお題目で、修身教科書を回収し、道徳教育を停止させ、本来日本人にあった倫理意識を破壊させることを目的としていたのであった。 

この占領軍の政策に日本の左翼思想家(主に労組、日教組など・・)が呼応便乗し、戦後教育が行はれていったのであった。
その結果が今の日本社会、国内現象での家庭、学級崩壊や子供の暴力や凶悪犯罪の蔓延等、社会規範や道義の退廃につながり、実に目を覆うばかりであるとの論評が多い。せれている。

果たして納得する部分もある。
戦後60年、真の教育の再来を期すばかりである・・!!。


田原の街並は、田原城跡や市立博物館などの時代的景観を残して実にいい。
崋山の自刃の地、墓所、崋山会館等、渡辺崋山の痕跡が町内の各所に残る。

次は、蒲郡・「三ヶ根山


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2010年10月13日水曜日

日本周遊紀行(22)渥美 「伊良湖岬」

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 日本周遊紀行(22)渥美 「伊良湖岬」 



珍しく海辺に立つ「伊良湖岬灯台」


渥美半島の突端を目指して一路、西方へ向かって行く。
渥美町の和地あたりから見通しの良い海岸沿いの道になる。

遥か山上に白亜の建物がが在り、伊良湖ビューホテルと麓の案内にあった。
ここを過ぎると美しい砂浜が続く。 「恋路が浜」といって「日本の渚百選」の他、「道百選」、「音百選」、「白砂青松百選」と色々な名が付く名所である。ここまで来ると渥美半島突端の岬は近い様だ。

広いスペースの駐車場があるが夕刻でもあり人影もまばらであった。
岬の先端はこれより更に徒歩で向かうようだ、舗装されたゆっくりした登りの歩道を行き、今度は急な階段を下るとよく整備された波打ち際の遊歩道に出た、ここに白亜の灯台があった。

通常、灯台は岬の高所高台に存するが、伊良湖灯台は岬先端の海上にあり珍しいケースであろう。
これには一寸した訳があったようだ・・?。

伊良湖の海峡は伊勢湾、三河湾の広大な海域の激しい潮の出入のある処である。
この海域は日本三大潮流と言われる伊良湖水道(三重県鳥羽市-愛知県渥美町)であり、他に大畠瀬戸(山口県柳井市)、早崎瀬戸(長崎県口之津町)といわれる。

又、日本三海門の一つとも言われ、(伊良湖水道、阿波の鳴門、音戸の瀬戸)昔は『 安房の鳴門か、音頭の瀬戸か、伊良湖度合いが恐ろしや 』と船頭衆の歌にも唄われている。


この海域の伊良湖岬と対して鳥羽市の神島(海峡中央部にある島)の間にある伊良湖水道がある。
水道中央部には海上交通安全法で定められた伊良湖水道航路があり幅約1,200メートル、長さ約3,900メートルの狭い航路が指定されている。 
名古屋、四日市、三河方面の大型船舶が1日100隻以上通行し、小型船舶が多数往来していて海運事故が発生し易いところである。
こんな訳でここの岬の灯台の役目は大きい。 その為、少しでも近く、海上にあるほうが良いのであろう。


灯台とは逆に、岬の高台には管制塔とともに白亜の立派な建物が立つ。
伊勢湾海上交通センター」で、伊良湖水道航路における船舶航行の安全を図るため、海上交通情報の提供と航行管制の業務を行っているという。

こうして眺めていても、海上には大型船が多数行き来しているのが判る。 


灯台の遊歩道から海岸の波打ち際に沿って、元の場所へ戻る。
恋路が浜」の長い海岸線と遠く高台に在るホテルの風景が一服の絵のように美しい。

民俗学者の柳田 国男氏がここに遊び、拾った椰子の実の話を島崎藤村にしたところ、藤村がその風景を想像して創ったのが「椰子の実」の詩とされている。
 
椰子の実』 詞 島崎藤村  曲 大中寅二 
名も知らぬ 遠き島より
流れ寄る 椰子の実一つ
故郷)の岸を 離れて
汝(なれ)はそも 波に幾月

旧(もと)の木は 生(お)いや茂れる
枝はなお 影をやなせる
われもまた 渚を枕
孤身(ひとりみ)の 浮寝(うきね)の旅ぞ
思いやる 八重の汐々(しおじお)
いずれの日にか 国に帰らん



伊良湖フェリーターミナルは夕刻も迫り、最後の航海も終えたのだろう、今は静まりかえっている。
桟橋付近は日没真近の夕陽が美しい。 
時間的にかなり遅くなったが、生活感の余り感じられない伊良湖を後にする。

R259通称「田原街道」を行く。
市街へ着いた頃はすっかり闇に包まれていた。
賑やかな街の一角に、奇妙な名前の道の駅「田原めっくんはうす」があり、今夜はここで車中の人となる。 

次回は田原・「渡辺崋山」



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2010年10月12日火曜日

日本周遊紀行(21)浜松 「遠州・浜松」

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日本周遊紀行(21)浜松 「遠州・浜松」



楽器と自動車産業の活気ある町・「浜松」

R150はバイパスの「遠州大橋」を指していた。
海岸に迫る「あばれ天竜」の有料大橋(100円)を渡ると、間もなく天下の国道1号線に合流する。
この辺り浜松の高層ビルが覗える。


浜松市は2005年7月1日に平成の大合併による県西部の11市町村(浜北市、引佐町、細江町、三ケ日町、雄踏町、舞阪町、天竜市、佐久間町、水窪町、龍山村、春野町)を編入大合併したことで、人口、面積とも静岡市を上まわり県内最大となっている。

国内の市としても高山市に次いで2番目に広い広域自治体で、2007年4月には政令指定都市移行をめざしているという。


面白いことに、浜松市民の中には静岡県の県庁所在地である静岡市に対してのライバル心が多く見られるという。
産業面では常に優位に立ち、合併によって人口、面積とも上まわり、更にその意識は強くなっているとも・・?。

又、名古屋の衛星都市として見られるのを嫌い、一方、浜名湖を挟んだ豊橋市とは「相愛関係」にあるという。
豊橋は昔の三河地方であり、風土から政治色まで浜松の遠州地域と似ている部分が少なくないためだとか。


浜松には「浜松まつり」という、勇壮な大イベントがある。
毎年5月3日から三日間にわたって開催される凧揚大会で、G・W期間では全国有数の人出で賑わう人気の祭りだ。
主に町単位で参加し、男子誕生による端午の節句にちなんだ初凧と、町同士が凧糸の切り合いを行う凧合戦の二つからなっている。
古来、浜松城下の各種職人町同士の対抗意識から自然発生的に生まれた祭りであったらしく、特に糸きり凧揚げ合戦は通称「喧嘩凧」といわれ、人々の意識を高揚させ、競争意識、対抗意識を助長しているともいわれる。
室町期より存在したといわれる永く伝統ある浜松祭りは、浜松人独特の気風を醸成していったのかも知れない。


だが、何といっても浜松市(主に旧市域)は工業都市として有名であり、製造品出荷額は約2兆円を超えるという。
浜松の工業の大半は小規模工場であるが楽器、自動車・オートバイに関連する大企業は世界的にも著名であるのは周知である。
特に、「日本の楽都」と呼ばれる程、楽器産業が盛んな都市で、特にピアノは全国シェアの100%を占める独占産業である。

市内にはヤマハや河合楽器製作所、ローランドの本社がある。
ヤマハは、山葉寅楠(やまは とらくす:和歌山市出身、山葉家は紀州藩士の家柄である)がオルガンを製作したことから始まったという。楽器工業の他には、半導体・スポーツ用品・自動車部品メーカーで、本業の楽器以外に様々な分野で事業展開している総合企業、グローバルメーカーである。
御存じ、オートバイは子会社「ヤマハ発動機」として独立している。

河合楽器は日本の楽器メーカーとして世界第2位のシェアを占める。 ヤマハに勤務していた河合小市が独立し、河合楽器研究所を設立したのに始まる。
ピアノを中心とした楽器製造・販売のほか、近年はカワイ精密金属等(長野県)でピアノの部品素材のノウハウを生かした半導体素材の生産も行っている。

あの連合赤軍あさま山荘事件(1972年2月19日に始まる、軽井沢にある河合楽器の保養所「浅間山荘」において連合赤軍が起こした事件である)として、当時、連合赤軍に占拠された軽井沢の浅間山荘を所有していたのは、河合楽器であった。

この二大メーカーが、1960年代の高度経済成長とともに浜松の楽器産業は飛躍的に発展し、世界的な楽器の生産地となっている。


輸送機器 では本田技研工業の創業の地で、現在もオートバイ(中型・大型二輪車)の主要工場がある。
また、スズキの本社工場もあり、浜松のヤマハ(厳密には隣の磐田市)、スズキ、ホンダの三社が、日本はおろか世界のオートバイ産業をリードしているといっても過言ではない。
現在の浜松のオートバイ産業は、全国の60%以上を占めている。更に軽自動車は50年前(1955年)に日本で初めて浜松地域で製造されて以来、全国の30%以上を生産され、小型四輪自動車も、浜松は全国有数の生産地域となっている。


浜松は江戸時代から綿織物の産地として栄え、明治時代には現在の「笠井」を中心として綿織物の大生産地となっていた。
これらの産業基盤が、現在の機械産業の基礎と成っているとも云われる。
自動車メーカーのスズキは、大正期・鈴木式織機株式会社(創業者・鈴木道雄氏)として設立 し発足している。 
因みに、トヨタ自動車は豊田織機が前進である。



浜松の「鈴木さん」

ところで、先日、偶々(たまたま)テレビを見ていて、日本の姓名・苗字に関することを放送していた。
苗字の数の多いビッグ3は佐藤、鈴木、高橋と言われるが鈴木という姓は、小生の周辺にも知人、親戚は居るが、ここ静岡、中でも浜松が圧倒的に多いという。 
先ず、電話帳を調べて浜松市のページを開くと鈴木姓が記載されているのは33ページ、「佐藤」、「高橋」が3ページ半とその多さは群を抜く。

或る篤志研究家により静岡県の「鈴木姓」の状況を調べたところ、県内世帯の記載件数はの3・7%にあたる4万7242件、世帯数で4倍強の東京都を抑え、47都道府県中、堂々のトップで、単純計算では全国の鈴木家の11・9%が静岡在住ということになるという。

又、静岡でも特に鈴木氏が多そうな浜松市西部の篠原地区で、或る幼稚園では「園児325人中64人が鈴木姓。年中組の一つの組では母29人のうち11人が鈴木です」と言う。
そのことは、小学校でもこの傾向は変わらないという。

因みに、あるお寺を訪ねたところ境内には「鈴木家之墓」が林立し、御堂に安置された位牌も「鈴木」ばかりが目につくという。
若い住職さんは「墓の地図を作ったのですが、鈴木さんの墓は多すぎて、檀家(だんか)さんに聞かれても場所を即答できません」と苦笑いしていたという。
問えば約200人の檀家のうち8割が鈴木姓、同姓同名の鈴木さんが亡くなったのを勘違いし、元気な方の家にお悔やみに訪れたという笑える・・?、話も結構あるという。


鈴木姓は古来熊野信仰と関係が深いといわれる。

熊野地方は平安期の頃より「熊野三党」(鈴木、榎本、宇井)が支配していたといわれる。
特に、全国に3000を超す熊野神社は、鈴木一族が神官となって広めたともいわれ、明治になって姓を付ける時、身近にいる由緒ある存在として鈴木姓を名乗った人が多かったのではとされる。
熊野神社が多いのは静岡や愛知、神奈川、福島などに多く、やはり鈴木姓が多いと分析されているらしい。

鈴木姓の都県別ビック3は静岡が47242、東京が43303、愛知が39991(1999年、名字図鑑)であり、人口の比率からすると静岡が断然多いのである。



今切口側の防潮堤から望む「浜名大橋」


国道1号(浜名バイパス)を行く。 本来有料道路であったが、本年早々に無料化された。
ほとんど海上にある浜名大橋、浜名湖が遠州灘に通じる開口部をひと跨ぎするこの橋は、トコンクリート橋としては国内最大級を誇る優美な橋といわれる。

特に、ここからの眺めは最高である。
左に太平洋・遠州灘が視界いっぱいに広がる、右に弁天島島越に浜名湖が光る。
あまりに広大な景観に思わず車のスピードが緩む、しかし運転しながら眺めるのは危険だ・・!!。

浜名大橋の下、浜名湖と太平洋が繋がっているところを「今切口」と云うそうで、室町期の大地震と翌年の暴風雨により陸地が切れて外海とつながったと言われている。


R42へ出て、あとは渥美半島を一気に「伊良湖岬」へ向かう。

次回は、渥美の「伊良湖」



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2010年10月11日月曜日

日本周遊紀行(20)掛川・袋井 「山内氏と名刹」

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日本周遊紀行(20)掛川・袋井 「山内氏と名刹」




新装成った遠州・掛川城




城下町・掛川

遠州灘に面する大東町、大須賀町は平成17年4月1日、掛川市と合併し新「掛川市」となっている。
従来の掛川の街(掛川市)は内陸部にあって、沿岸部を通る小生にとっては縁の薄い地域であった。
しかも、この沿岸道のRI50からは間に2~300mの山塊が横たわっていて掛川の市街は全く見通せることもできない。
しかし大東町、大須賀町と合併し新掛川市に成ったことで、その縁が生じてしまったのである。 従って、歴史の街・「掛川」のことを、些かなりとも触れねばなるまい。


市内中心部の掛川の街はJR掛川駅を中心に東名高速、東海道(国道1号線)、そのバイパスと交通網が接近集中している。
その駅前のほぼ中心地に新装成った「掛川城」が小高い丘に構えている。

この城は日本初の本格木造建築であり、「東海の名城」とうたわれた往時の美しさを忠実に復元したもので、天守閣をはじめ、その他の造営物は市民の寄付により再興されたという。
合わせて、駅から掛川城までの周辺地では都市としての殺風景な姿を一変させ、城下町風の美的景観が整備されたという。 

又、市内の中心部を東西に大田川の支流である「逆川」が流れる。
この川が、切り立った崖のように見える点から「缺けた川」と呼ばれ、次第に略されて「懸川」となり、「掛川」にと改名されたといわれる。
掛川市の由来でもある。



古来より掛川(掛川城)は東海道の東西交通の要衝としてその意味は大きかった。
掛川城は通称、懸川城、懸河城ともいった平山城(平地にある丘陵を利用して造った城)である。
古くは室町時代中期に守護大名であった今川義忠が、重臣の朝比奈泰煕に命じて築城したと伝えられ、そのまま朝比奈氏が城代を努めていた。
戦国期、信長によって今川氏が滅ぼされると三河の徳川家康の支配下になり、掛川城には城代として家康の重臣・石川家成・康通親子が入った

「関が原」の後の1590年代には、豊臣秀吉の家臣であった「山内一豊」が城主となり、掛川城の大規模な城郭修築を行っている。 この時点で天守閣、大手門の建設と共に城下町の整備により、東海随一の名城とも呼ばれていた。


山内一豊は戦国期の武将で織田信長に仕え、その後豊臣秀吉の家臣として小田原の役後、遠州掛川に六万石の藩主として治まる。 
関ヶ原合戦では東軍・徳川家康につく、この時、一豊は「味方につく以上は、居城・掛川城を兵糧ごと差し上げる所存」といって、家康や周囲の臣を驚かせた。
その義を以って、戦勝高禄で土佐24万石に封じられた。

有名な「妻の内助の功」の話は、彼がまだ織田家の小侍であった頃、信長が「各々(おのおの)馬を参じよ」と指示を出す。 この時、馬を買う金がなく困っている彼を見て、妻が黄金10枚を渡し、無事駿馬を買うことができた。
この「美談」で一豊は織田の家中で一種の名士となったという。

山内一豊とその妻、千代を描いた小説に司馬遼太郎『功名が辻』がある。
2006年(平成18年)にはNHKの大河ドラマ「功名が辻-山内一豊の妻」が、ほぼ原作通り放映された。
戦国期の侍、信長、秀吉、家康をはじめ関係武将が続々登場し、取り巻く女性陣も艶やかに、特に一豊の妻・千代の「良妻賢母」ぶりを主題にして、物語は展開した。キャストに千代:「仲間由紀恵」、山内一豊:「上川隆也」、織田信長:「舘ひろし」など。

歴史時代物が好きな小生にとって実に楽しみで、尚且つ、戦国物はたまらない。

因みに、高知市の「はりまや橋」の近くに「掛川町」が存在した。
これは、掛川から高知に移住した山内一豊の家臣が、居を構えた事に由来するのだが、現在では掛川町は「はりまや町」となっているらしい。

高知市には山内一豊が建立した「掛川神社」も存在する。
この神社は、一豊が高知に入城した際、掛川城の北東(鬼門)にある龍尾神社(主祭神・素盞鳴尊・スサノオ、山内家の守護神)を高知城の北東に勧請したものであり、掛川に因んで命名されたという。




袋井の名刹・・!」

浅羽町は本年4月1日より袋井市に吸収合併され、新「袋井市」が誕生している。
袋井市は何といっても遠州三山が有名であろう・・?、過ぐる年、上さん(妻)と訪れたことが有るが、この遠州路・袋井、森町から三ケ日の内陸沿いには名刹・古寺が多いのである。

其の内の代表的古刹を紹介しておこう。     
先ず、JR鉄道の南に位置する、法多山尊永寺(ほったさんそんえいじ)は奈良朝初期の創建で真言宗の名刹である。 今川、豊臣、徳川などの武将の信仰も厚く、本尊は正観世音菩薩で浅草観音と同じく、ご利益は厄除け開運。正月の初詣には東海一円の人々が訪れ、名物の厄除けだんごと桜の名所が売りだとか。

次に、萬松山可睡斎(ばんしょうざんかすいさい)は、室町初期に開山された曹洞宗の寺院で、徳川家康が命名した寺院として有名。古来火の神といわれる秋葉山本宮秋葉神社から三尺坊大権現が遷座され火防災除の寺であり、春先のユリや初夏の牡丹が美しい寺、又、元タレントの「ポール・牧」氏が修行した修行寺としても有名である。

又、医王山油山寺(いおうさんゆさんじ)は奈良朝初期、行基により開山、真言宗の古刹で、本尊は薬師如来で行基自身の作と伝えられる。古くは石油が出たところから「油山寺」の名が付いたといわれる。ユニークなのは、この寺は目の守護、眼病平癒のお寺として信仰を集めている。自然と一体となっている寺院で国の指定文化財である三重塔や山門は見所であろう。

次回は、「遠州・浜松」



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2010年10月10日日曜日

日本周遊紀行(19)御前崎 「灯台と原発」

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日本周遊紀行(19)御前崎 「灯台と原発」



御前崎灯台



「灯台巡り」

今回の「日本全国海岸線巡り」の大きな目的の一つに岬巡り、灯台巡りも楽しみの一つにしている。
日本は島国で四方が海に囲まれ、従って海の航路の安全を守るために灯台は欠かせない。 
特に岬の先端の灯台は重要である。 


地の端にポツンと立って、一晩中クルクルと海を照らす灯台という存在に、ほとんどの人には意識されず、役に立つのかどうかもわからない。 
でも、それを必要とするものにとっては、絶対になくてはならないのである。  

陸地の端を巡る小生にとって、このような灯台に挨拶をしないわけにはいかないのだ。 
灯台は航路を照らす、と思われがちであるが、実はそうではなく、自身・おのれ(灯台)の存在を知らしめているだけなのである。 
しかし、「灯台下暗し」ともいわれる・・?。



御前崎は東に駿河湾、西に遠州灘を控えて、最南端の鋭角の岬である。 
国道150の海岸線から眺めると、程よい高地を成していて、灯台設置には絶好のポジションであることが解る。 
御前崎の築港、漁港を左に見ながら、道なりにそのまま行くと、岬の先端を回って浜岡町に抜けてしまうが、途中に分岐があり、灯台の案内板に従って登ってゆくと、そこに白亜の灯台が凛として屹立している。

周囲は、絶好の展望地で太平洋と浜岡の砂丘が遥かに見渡せる。 
周辺に広がる自然公園には「御前崎ケープパーク」が整備され、灯台からも洒落た造りの石段を歩いて海辺に通ずる、自然と親しめるようになっている。


ところで、ここ御前崎は海域を二分する地形で海流、気象現象が厳しく、また暗礁が多いともいわれ、昔から航海の難所であるという。 
江戸幕府はこの地に見尾火灯明堂(みおびとうみょうどう))なるもので明りを照らした。
この燈明堂は、江戸期の寛永年間(1635年)年に建てられた江戸時代の燈台で、木造お堂形式の建物である。 
当時は、幕府から1ヶ月当たり9升の灯油や灯芯、障子紙が支給され、毎夜、村人2人が行燈(あんどん)の火を絶やさないよう火の番をし、翌朝、日が昇ると板戸を閉めて帰ったと伝えられている。 
1871年(明治4)年にカンテラ燈台が竣工し、その座を譲るまでの実に240年という長きにわたって、御前崎沖を航行する船の安全を見守ってきたという。

明治5年、英国人R・H・ブラントン(日本における灯台の父と言われる)の指導のもと現在の西洋式灯台の建設工事を開始し、明治7年に点灯を開始している。 
回転式の一等閃光レンズ(直径259cm)を使用した灯台としては我が国最初のものであった。現在は海抜53mの地点から光達19海里(航海上の距離の単位。1海里は1852メートル。緯度1分の長さに相当)まで光を放つ。 
日本の灯台50選の一つ、参観灯台で一般人も見学できる。



1957年(昭和32年)公開当時一世を風靡した長編大河映画「喜びも悲しみも幾年月」が製作された。 
高峰秀子、佐田啓二主演の灯台守夫婦の半生を描きながら、各地の灯台を描き、生きることの意味をさわやかに問う傑作である。その後昭和61年、「新・喜びも悲しみも幾年月」が加藤 剛、大原麗子、中井貴一出演で再映画化された。中井貴一は、佐田啓二の長男で、つまり二代目である。映画は、ここ御前崎灯台も題材として登場している。


喜びも悲しみも幾年月』詞曲:木下忠司 唄:若山 彰

おいら岬の灯台守は     冬がきたぞと海鳥鳴けば
妻と二人で沖ゆく舟の    北は雪国 吹雪の夜の
無事を祈って灯をかざす   沖に霧笛がよびかける
灯をかざす         よびかける

星をかぞえて波の音きいて
ともにすごした幾年月の
喜び悲しみ目にうかぶ
目にうかぶ


近年の若者達は知らないと思うが、「端やん・・」、こと往年の「田端義夫」が切々と歌い上げた「ふるさとの燈台」はこの御前崎灯台がモデルとされている。

『ふるさとの燈台』 唄・田端義夫(昭和28年)

真帆片帆 唄をのせて通う     年経りて 星に月に偲ぶ
ふるさとの 小島よ        むらさきの 小島よ
燈台の岬よ            燈台の灯りよ
白砂に 残る思い出の       そよ風の 甘き調べにも
いまも仄かに           思いあふれて
さざなみは さざなみは      流れくる 流れくる
胸をゆするよ           熱き泪よ



御前崎から再びR150へ出て、遠州灘の沿岸を並行して進む。
先ず目に付くのが広大な敷地をもつ浜岡原発である。中部電力、所管の原発で1976年、国内でも比較的早期に営業運転している。
原子炉は現在五機有し、総発電量は500万kwの能力を有し、その内、5号機が最大出力の138万kwで、今年(2005年)1月営業運転をはじめた。 
過去に比較的古い1,2号機で配管破断事故や原子炉水漏洩事故等々を起こし、周辺住民とのトラブルを生じている模様で、特に近年東海地震の発生が取りざたされ、浜岡原発はそのほぼ中心に位置するため、耐震性が懸念されているという。
あるジャナリストは、「世界で最も危険な原発は、日本の浜岡だ・・!!」とも言っているようである。

地震といえば、過去の地震で最大だったと想定されるのが、1854年の安政東海地震でマグニチュード8.4程度という。 当事者は、これを参考にマグニチュード8.5を安全基準に設計しているという。 
又、地震に伴う津波は最大6m程度を想定し、原発敷地の前面には高さ10~15mの砂丘があることから、津波に対する安全性は確保されていると言っているが、果たして・・。


その砂丘の事である

国道150の沿岸は濃い緑の松林が続き、その向こうは有名な大砂丘になっている。
御前崎から天竜川(御神渡り:おみわたり、で有名な長野県中央部の諏訪湖が水源)の河口にかけて、遠州灘沿いの海岸線に続く広大な砂丘地帯で通称「遠州大砂丘」と称している。 

河口を利用した漁港以外に港湾施設はなく、各町域をまたいで約30kmもの砂丘が延々と続く日本一の砂丘地帯である。
鳥取、吹上(鹿児島県)と並び、日本三大砂丘のひとつに数えられるが、なかでももっとも幅が広いのが浜岡砂丘だという。

砂丘は、その昔「あばれ竜」と呼ばれた天竜川の流砂が打ち上げられて出来たものである。
近隣に影響を及ぼしていた砂の害を防止するための手立てとして浜岡砂丘の特徴は、粗朶(そだ)という木の垣根を立てて風や風砂を防御する方法である。
垣根は斜め45度に立て、風を抑えながら、砂は垣根に堆積しながら45度方向に移行してゆく、つまり内陸部住地、耕地への風砂防止策(柵・策を労する・・?)である。
この人工斜め砂丘は松林の防風林と相まって、浜岡独自の景観を呈している。

榛原郡御前崎町と小笠郡浜岡町は2004年4月1日に合併して市制施行し、「御前崎市」が誕生している。

次回は「掛川




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