google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 日本各地の美しい風土を巡ります。: 7月 2010

2010年7月31日土曜日

日本周遊紀行(126)木更津 「袖ヶ浦と日本武尊」

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 日本周遊紀行(126)木更津 「袖ヶ浦と日本武尊」 



木更津の太田山公園に、2人の像が向かい合う形で立つ「きみさらずタワー」



木更津、袖ヶ浦の地名は「日本武尊」の東征時の古事による・・、

木更津、袖ヶ浦、そして東京湾を隔てて横須賀(観音崎)の周辺は「日本武尊」(ヤマトタケル)の神話伝説の残る共通地域であった。 
日本武尊は、幼少の頃より時折、何かに付けて耳に、或いは目にする人物・・?で、神話とされる「記紀」(古事記、日本書紀)に神として、人物として、はたまた半神半人として、神話の中でも最も武力に優れた英雄物語として描かれている。
日本神話の英雄・ヤマトタケルには、「日本武尊」(日本書紀)、「倭建命」(古事記)の二つの漢字、そして小碓命(オウスノミコト)などの表記がある。

日本武尊は景行2年、第12代景行(けいこう:初代神武天皇=紀元前660年)天皇の第2皇子として生まれている。 
皇子は皇太子の地位にありながら、大和朝廷の勢力範囲を広げるために、日本中を遠征して回ることになる。
先ず、九州日向(現宮崎県地方)へ命じらて遠征し、朝廷に従わない熊襲建(クマソタケル)を知恵をもって征伐する。  この時、小碓命は、熊襲建の「建」とって倭建命(ヤマトタケルノミコト)と称えることになる。(建は、勇敢な者という意味を持つ)大和にある宮に戻る途中も山の神、川の神、河口の神などの大王(朝廷)に従わない荒ぶる神々たちを次々征伐し、出雲の国の部族、出雲建(イズモタケル)を征伐するときも頭を使って勝利し、国を平定していく。


次に、倭建命は東国の征伐を命じられる。
西国は大陸との交通路であり、古くから大和朝廷も重視していたが、東国は大和朝廷の力が及んでいる訳ではなく、苦戦が予想された。
皇子は東国への遠征に向かわれる途中、「伊勢」に立ち寄ることになる。 
先ず、亀山に立ち寄り「忍山神社」祀官・忍山宿弥(オシヤマノスクネ)の娘とされる弟橘媛(オトタチバナヒメ)を妃(きさき)に迎える。

伊勢の地は、皇子の叔母である倭姫命(ヤマトヒメノミコト)の導きで天照大神(アマテラスオオミカミ)を祭祀している地であり(伊勢神宮)、倭姫命は皇子に御神宝の天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ:草薙剣)を授けた。
この剣は昔、素戔嗚尊(スサノオノミコト)が出雲で八俣大蛇(ヤマタノオロチ)を退治した時に、その尾から出たといわれる剣で、天照大神の孫である邇邇芸命(ニニギノミコト)がこの国に御降臨した時に、一緒に持たせたものという由緒ある宝剣である。
後の天皇の「三種の神器」(八咫鏡:ヤタノカガミ、 草薙の剣:クサナギノツルギ、 八尺瓊勾玉:ヤサカニノマガタマ).の一つである。


皇子が駿河の国(静岡県東部)へ指しかかった時、皇子たちの一行を狙って草むらで周りから火を付ける者があった。 
皇子はこの時、この剣で周りの草を薙ぎ払い火から免れたとされ、故事により、この剣をその後に草薙剣(クサナギノツルギ)と呼ぶようになったといわれる。
その後、日本武尊は上総の国(今の千葉県)に渡海するため、走水の村(三浦半島・観音崎)へ向う。

因みに、日本神話の英雄ヤマトタケルには、「倭建命」(古事記)と「日本武尊」(日本書紀)の二つの漢字表記があり、この先は日本武尊を表記することとする。



三浦半島東端、観音崎は旗山崎(御所ヶ崎)とも云われ、「走水」(はしりみず)という言う地名が今も残る。 
日本武尊が東征したとき、ここに臨時の御所を設け、軍旗を立てたという説話に由来している。 合わせて、この地に日本武尊とその妃・弟橘媛(オトタチバナヒメ)を祭る「走水神社」が鎮座している。

ここから日本武尊は対岸の房総へ渡ろうとしたが、海上は風波 が強く、船出もできず数日間ここに滞在していたが、ついに船出を決意し一気に渡ろうとしたところ、船が沈没しそうになってしまった。
この時、弟橘媛命が、これは海神の怒りであると信じ、日本武尊の身代わりになることを決意し、海に身を沈める。

この時・・、

 『 さねさし相模の 小野に燃ゆる 
         火の火中に立ちて 問ひし君はも
 』

と歌を詠んで身を投げたとされる。

さねさし」とは相模の枕詞、
「 あの相模の小野で、敵の仕掛けた猛火に包まれて危うい時も、あなたは私のことを心配して声を掛けて下さいました。 あの時の優しい思い出を胸に抱きしめて私はこの荒れ狂う浪に身を投じて海神の怒りを鎮めにまいります。 ああ、やさしきあなた。 」
というのが媛の辞世の大意であった。 
女性が男性に向けた歌で、古今東西これほど哀惜に満ちた崇高なものは無いともいわれる。
村人が、弟橘媛を哀れみ、日本武尊を慕うあまり建てたのが「走水神社」であると伝えられている。

日本武尊は、駿河から相模に入り、三浦半島の走水から船で房総半島に渡るが、このルートは古代・東海道の重要なルートで、終着地は常陸の国であるといわれる。
房総半島への渡り道、「走水の海」は流れが早いことから付けられた名で、今の浦賀水道のことである。 

一行は走水の海で激しい嵐に見舞われるが、姫が入水してからはそれまでの嵐が嘘のように静まる。
この時、海岸には姫のクシや衣が流れついたという、古代、クシには魂が宿ると言われ、流れついた弟橘姫のクシ、衣を納めて建立したのが木更津に鎮座する「吾妻神社」であるといわれる。

吾妻」についても、日本武尊が蝦夷の東征を終えて凱旋される途中、足柄峠に差し掛かった時、遥か相模の海の方を見られて媛の悲劇が胸に迫って涙が止まらず、「 吾が妻はや・・」(吾が妻はもはやいない)と嘆かれた。 
ここから東国のことを「吾妻」と呼ぶようになったという。 

吾妻とは、都から東方の諸国の総称で「東国」のことである。

常陸風土記」にも・・、
『 いにしへは、相模(さがむ)国・足柄の岳坂(やまさか)より東の諸(もろもろ)の県(あがた)は、すべて吾妻の国をといひき 』 とある。

そして、房総に渡った日本武尊が弟橘姫を偲んで詠ったのが・・、

 『 君さらず 袖しが浦に 立つ波の 
           その面影を 見るぞ悲しき
 』

「君さらず、袖しが浦に立つ波の」、この歌の一節「君さらず」が転じて「木更津」、「袖しが浦」が「袖が浦」という地名になったと伝えられている。

この歌を詠んだとされる場所は現在の木更津市大田地区、国道16号沿いの太田山公園であり、2人の像が向かい合う形で「きみさらずタワー」が立っている。
タワーは高さ28mで中ほどに展望台があり、東京湾から東京の摩天楼や富士山を一望することが出来る。 特に夜景は絶景だとか。

次回は、「袖ヶ浦




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2010年7月28日水曜日

日本周遊紀行(125)君津 「久留里」

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日本周遊紀行(125)君津 「久留里」



歴史ある「久留里」は君津市の地域であった・・、

地図を見て確かめると、成る程、君津市域の湾口部は僅か3km程度しかないの近距離の幅である。
そして、湾口部にはあの「新日鉄君津」の事業所が大部分・・?、否、100%占めているのである。 
その為でもあろう、現在の人口的市街地は、JR君津駅周辺とした湾岸部に集中している。

だが、市全体の範囲は房総内陸の山間域が大部分をしめ、それらは鹿野山や亀山周辺の三島湖の行楽地、歴史の町である「久留里」辺りが市の主要部分と言ってもよさそうである。

その君津市久留里地区は房総半島の中心に位置し、その一昔前までは太平洋岸の勝浦、小湊、鴨川地区と武蔵、江戸地区を結ぶ交通の要衝であった。
そして既に、平安末期の頃から城が築かれ、房総の代表的な城下町で里見家、黒田家等の武将の居城として名を馳せた歴史ある地区で、今もその面影が色濃く残っている。
久留里の地名は戦国期から見られるという。



16世紀半ば、戦国大名として名を馳せた里見氏は、ほぼ房総全域を拠点としていた。 

戦国期、相模小田原の北条氏(後北条)の勢力が武蔵から房総に及ぶと、里見氏は久留里城を最前線として北条氏と対峙する。 
だが中央より勢力を伸ばしつつある豊臣秀吉の北条氏攻め(小田原の役)が行はれる。 このとき秀吉より里見家参戦指示がでる。 だが里美氏は内部事情が生じて参戦に遅参してしまう。
戦局は秀吉が勝利し、小田原北条は滅亡する。

しかし、充分な戦果を出せなかった里美家は、その罰として上総全域および下総南部の所領が召し上げられ、安房一国のみと減領されてしまう。 結果、没収した上総、下総の領地は、徳川家康に与えられてしまう。
従って里見氏は、逆に久留里を最前線とする徳川氏と対峙することになる。

更に、慶長19年(1614年)
大久保忠隣失脚事件に連座したとして、里見忠義は安房一国を没収されて伯耆倉吉に転封となってしまう。
里美家は房総より失脚し、久留里城は最前線としての役目も終わり一時は廃城になりかける。

江戸中期には、衰退していた久留里は黒田直純が上野沼田から入封して再び久留里藩が立藩され、次いで久留里城も再建されている。
以後、久留里は黒田氏の支配の下、明治4年(1871年)7月の廃藩置県まで存続していた。
現在は、城山公園として模擬の天主が立つ。



久留里城」は、「雨城」、「霧降城」という別名があり、水の豊富な城として知られていた。

久留里城下は清澄山系に降る大量の雨を背景に豊富な地下水に恵まれ、江戸時代末期から明治初期にかけてこの地域で井戸掘りの工法である「上総掘り」によって掘られた“掘り抜き井戸”が多く分布し、この水を利用した酒造業も盛んであった。
近年はこの水を観光資源として、「名水の里」として宣伝されているとか。
この掘り抜きの工法は、深さ数百メートルの井戸を掘る技術で、現在でも存在しているという。



「上総掘り」について・・、

千葉・房総に、その「上総掘り」の起源があるといわれる。
房総の地域は久留里地方はともかくとして、全体には地形的に低山・丘陵地が広がり、古来より慢性的な水不足が生じ、灌漑用水の供給には難があったとされている。 
このため農民の水田作りに対する強い願いは、地下からの自然湧水を得ることから始まり、この掘削技術の開発、普及に役立ったという。 

上総掘り」は明治時代にこの地域に伝わっていた井戸掘りの技術を、更に発展させてできた掘り方で、克って、新潟地方の油田掘削にはこの方法を用いたという。
人力のみで500m以上の掘削が可能である事から開発途上国への技術指導も行われているという。

工法は径5~15cmの鉄管が、深さ150~500mの穴が地中に向かって掘られる。
まず足場のやぐらを組み、上部に竹の「はねぎ」を取り付けて、そのはねぎの弾力を利用して長さ約7メートル、重さ約30キログラムの鉄管を上下させて鉄管の重量をはずみで地底に打ち付け、地層を砕き削りながら穴を掘り進む工法である。 
現在でも人力による掘削法として使用されている。

上総掘りの用具は重要有形民俗文化財に、上総掘りの技術は重要無形民俗文化財にそれぞれ指定されている。



「木更津」・・、

さて、狭い湾岸の君津を過ぎてしまうと、すぐに「木更津」である。
戦国期、徳川家康が戦乱を平定した1614年の大阪の陣に、木更津の水夫は水軍として参加し、大きな働きをしたという。 
そして戦後、家康は江戸(東京)に都を移し、戦に功績の有った木更津衆を報奨として、東京湾での海上輸送の特権を与えたといわれる
木更津は江戸と潮来方面からくる船の関所として、大きな権力を持ち物資の集散地として大いに栄えたという。
江戸湾を往来する木更津船を「五大力船」(ごだいりきぶね)とも称していた。 
「五大力船」は、海上輸送が発達した江戸時代に主に活躍し、昭和初期まで用いられてきた廻船で、主に東京湾内のほぼ全ての輸送に用いられ、穀類や薪炭などの運送に用いられる他、人を乗せて旅客輸送も行っていた。
基本は海船造りの構造であるが、河川を航行できるように喫水が浅く船体の幅が狭くなっている。 そのため、海からそのまま河口に乗入れて市中の河岸に横付けすることができる。
海では帆を立てて帆走し、河川では棹が使用できるよう舷側に棹走りと呼ばれる台が設けられている。


更に木更津については思わぬ伝承があった。 
次回はそれらについてチョット詳しく述べることにする。


木更津甚句』 千葉県民謡

アア・・
木更津照るとも お江戸は曇れ
かわいお方が ヤッサイモッサイ ヤレコリャ ドッコイ
コリャ コーリャ 日にやける

船は千来る 万来るなかで
わしの待つ船 (お囃子、同じ) 
まだ見えぬ


と船乗衆が唄ったのであろう・・、「ヤッサイモッサイ」とは、「そこのけ そこのけ」という意味らしい。

次回、木更津の古事



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日本周遊紀行(124)内房 「鋸山」

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 日本周遊紀行(124)内房 「鋸山」 



”乾坤一擲”の日本寺が「鋸山」にあった・・、



名物・鋸山「地獄のぞき」


日本寺の薬師如来坐像は、高さ31mの日本一の石窟大仏



富山町を過ぎると、国道127は山間地を走る。
海岸線まで迫っているJR内房線としばらく並行してしていたが、やがて町並みに入った。 
駅前で気が付くと駅名は安房勝山になっていた。たしかここは鋸南町のはずであったが・・?

道中、「菱川師宣」の案内板を見る。
菱川師宣(ひしかわ もろのぶ)は江戸時代の浮世絵師で、安房国・保田(鋸南町)出身である。
浮世絵を単なる挿絵ではなく、鑑賞絵画の一ジャンルにまで高めたという点で師宣の絵画史上における位置は重要で、しばしば「浮世絵の祖」とも称されている。 
特に、筆浮世絵の「見返り美人図」は有名であろう。
一方の側面として「春画」も数多く描いた話題の人でもあった。 
故郷の千葉県鋸南町には菱川師宣記念館がある。

鋸南町」の町名は、一昔前(1959年)勝山町と保田町が合併して新たに出来たらしく、「鋸山」の南に位置しているので名づけたのだろう。
神奈川に住む小生は三浦半島の久里浜から金谷のフェリーを経て、この鋸山周辺へは何回か遊覧に来たもんでである。

鋸山はこの地から眺めても、文字どうり鋸の歯のようなギザギザの断崖絶壁が連なっている岩山である。
この鋸歯のギザギザは、かつて「房総石」といわれる凝灰岩(ぎょうかいがん:火山から噴出された火山灰が地上に堆積してできた岩石)の産地であり、その跡を留めているのである。
幕末から明治、大正、昭和にかけて主に横須賀軍港や横浜の港湾設備、東京湾要塞の資材として利用され、また靖国神社や早稲田大学の構内にも利用されているという。 
採石は昭和50年代を最後にとだえている。


現在の「鋸山」は観光資源として利用されている。 
標高は329m、海岸近くのため山頂からの東京湾や対岸の三浦半島の景色、眺めは抜群である。
金谷の町からはロープウエイが、又、自動車道も頂上付近まで延びている。
歩くんであれば、約3.5時間、日本一の石参道を2639段登る事になる。 
頂上にはオーバーハングした岩の上に「地獄のぞき」という地獄の名勝もある。

又、鋸山には“乾坤一擲”の「乾坤山・日本寺」がある。
本尊は薬師三尊で、薬師如来の大仏(日本寺大仏)があることで知られる。
山頂部のほとんどの部分を境内にしていて、スケールの大きな見所いっぱいの寺であり、1300年前に行基菩薩(奈良時代の名僧)によって開かれた関東最古の勅願所で、由緒有る古刹でもある。(勅願寺は勅命・天皇によって国家鎮護・皇家安穏を祈願した社寺)

山の頂でお薬師さんが瞑想して鎮座しているのに、足元でカンカン、トントンと石切の音を響かせているのには、さぞかし落ち着かなかったことだろう・・?、しかし、それも民衆の為と思えば静かに黙認してもいたのであろう・・!。


因みに、この日本寺の石窟群は、バーミヤン遺跡を彷彿させる。 
あちらはアフガニスタンの古代都市バーミヤンの町を中心とする山中の渓谷地帯に6~7世紀、刻削された石窟の寺院である。石窟の数は1000以上にものぼり、仏教美術の優れた遺産としてユネスコ世界文化遺産にも選定されている。近年、タリバン政権によって一部破壊されたが、ユネスコにより修復と保存が実施されている。

日本寺の薬師如来坐像は、高さ31mの日本一の石窟大仏であり、他に百尺観音、大野甚五郎の系統、あるいは末裔により彫ったとされる石仏、世界第一の羅漢霊場・千五百羅漢など全山に石窟彫刻群が並ぶ。


三浦半島へフエリーが航行している金谷港から「内房なぎさライン」を北上する。 
ここは既に「富津市」である。 もっとも鋸山あたりが町界らしいが。 
佐貫の信号で国道465へ左折すると間もなく富津岬の基部を通る。富津岬は富津公園を中心に、海のレジャー満載の地である。 
その中でも「アサリの潮干狩り」は有名である。 岬先端の南側が、遠浅のアサリ養殖地域で、シーズン中(3月~8月頃)は首都圏から大勢の漁客で賑わう。

富津岬は西へ長くのびていて、浦賀水道を経て真向かいの三浦半島の観音崎とは僅か数キロの地で海路の最狭部にあたる。
江戸期、外国船が通商を求めて度々やってくるようになると、海防上、非常に重要な地点の一つとなった。 
そのため、富津市域(佐貫藩)の海岸線に防備のための砲台が築かれた。 
嘉永6年(1853)ペリー来航時は、日本の政治を大混乱に陥らせることになったが、この時の佐貫藩の人々のも大いに動揺したという。
明治期から太平洋戦争まで軍の砲台基地や陣地になっていて、現在もその跡が残っている。


国道465は富津岬の基部から国道16号線になる。
国道16は首都外廓幹線道路で埼玉、東京郊外から神奈川の横須賀まで達している首都圏の大動脈である。
JR内房線の大堀駅前を通過すると「君津市」である。 
海よりに広大な新日鉄の工場群を見ながら進むと、あっという間に「木更津市」に入ったようだ。

次回は、君津・「久留里



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2010年7月26日月曜日

日本周遊紀行(123)館山 「里見氏の盛衰」

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日本周遊紀行(123)館山 「里見氏の盛衰」



白浜で房総の実権を奪った里美氏は「館山」に根拠をもつが・・、

温暖な気候に恵まれてる館山も、千倉同様「花の街」である。
相浜からは再びフラワーラインがはじまり、両サイドを季節の花で飾られたほぼ直線の道が続く。 可憐に咲く色彩鮮やかな花々に思わず見とれるほどで、この平砂浦海岸通りの途中には「館山ファミリーパーク」「南房パラダイス」、「白浜フラワーパーク」といった施設もあり、特殊な熱帯性の花を楽しむことが出来るスポットである。

次には、果てしなく広がる大海原、岩礁に散る白い波、荒々しくも雄大な風景の中、間もなく洲崎へ到着した。 大きくカーブする細い道へ入ると洲崎灯台が立つ。 
対岸にある三浦半島の剱崎灯台とともに東京湾の入り口を守る。 
ここは、房総半島の先端で、三浦半島の剣崎とともに東京湾・浦賀水道の入口にあたるところであり、また、内房総、外房総の境目となっているところでもある。 

灯台には入れないが、敷地内からは天気が良ければ、対岸の三浦半島が手に取る様に見え、そして、相模湾越しに富士の秀麗な姿が見事に見渡せるはずである。 つまり、この地は初日の出と、初富士とを同時に見ることができる絶好のポイントでもある。 

しかし、今日は小雨混じりのドンヨリとした日で、望むべきもない。 



子供が幼少の頃何度か訪れたことのある海辺に面した「館山国民休暇村」を横に見る。 その向こうは濃い大洋の蒼が広がっている。 
この大洋を時折眺めながら、ゆったりと車を進める。 内房の東京湾を眺めると、いよいよこの旅も終焉に近づいていることを実感しながら。


厳しい(いかめしい)海上自衛隊の基地を過ぎると館山市街である。 
やや内陸部には小山のような丘の上に城山公園があり、白亜のお城が目に留まった。 戦国時代の武将、里見氏の居城・館山城(模擬天守)で、新装なって聳え立っている。 

古城は天正6(1578)年、里見義頼が重臣に築城を命じ、その子義康が天正16(1588)年に大規模な改修を行い、天正18(1590)年に完成している。 
城郭から晴れた日には市内と館山湾が一望できる絶好のビュースポットであり、公園内には、椿、梅、桜、ツツジ等の花木が小径をうずめ、四季折々の花が咲き、桜の名所としても知られている。


「館山」は中世の頃には、戦国武将・里見氏がこの地を統治、滝沢馬琴作の「南総里見八犬伝」の舞台にもなったところで、今でも、里見氏の史跡の数々や八犬伝のロマンが香る史跡が残っている。

平家が滅んだ後の鎌倉期、この館山は執権・北条氏一族の勢力も及んで、室町時代に入っても鎌倉が関東の中心で、その湾口に対岸する三浦半島即ち鎌倉と安房とは強いつながりをもっていた。

鎌倉幕府が滅んで政治の中心が京の都へ移った室町初期(足利将軍時代)、鎌倉には将軍の代理として将軍直近の足利氏を任命することになる。(鎌倉公方) 又、この鎌倉公方を補佐するために関東管領職を置いた。
そして足利四代の足利持氏の時代、補佐するはずの上杉氏(関東管領)と対立が激しくなり、足利氏は側近である里見義実に命じて、安房から上杉氏を追い出そうとする。 

義実が安房の上杉勢力の追い出しに成功すると、やがて里見氏が安房の武士たちを従えるようになり、その後、里美氏数代にわたって房総半島全域に勢力を広げ、房総最大の戦国大名に成長する。


戦国末期・里見氏は、関東に覇権を広げつつあった最大の敵・小田原北条氏(鎌倉期の北条とは異なる。後北条)と敵対していた。
里見家八代目当主・里見義頼の時、北条氏の勢力が上総にまで及んできたことから、家督を継いだ九代目当主・里見義康はその意思を継いで、特に海の戦略的拠点であった館山に城を築き本城としていた。 

天正18年(1590年)の秀吉の小田原合戦で北条氏が滅んだ後は、小田原参陣が不備だったのを咎められ、上総を没収されて安房一国のみを安堵される。

更に、徳川将軍家の江戸初期になって、里美家に衰落の変化が訪れる。 
父の死により忠義が家督を相続するが、その後、内粉・内乱で治世は困難を極め、縁あって大久保忠隣(ただちか:相模・小田原城主、忠義は忠隣の娘を妻に娶っている)と縁戚を持つが、その忠隣が失脚事件(大久保長安事件)を起こし、忠義も連座したとされて改易されてしまう。 
忠義は更に、嗣子が無いとされて大名家としての「館山の里見氏」は領地を召し上げられ、房総に名を馳せた戦国大名・里見氏は事実上滅亡する。



館山の西口駅前に広がる海岸方面へ向った。 この海岸も何ともいえない風情が漂う。 
JR内房線「館山駅」より館山湾を望めるこの荒井、北条地区は鏡のように波が静かなことから「鏡ケ浦」と呼ばれている。 
遠浅の海、弓なりの砂浜は絶好の海水浴場であり、叉、景観も素晴らしく「日本の夕陽百選」、「関東の富士見百景」に選定されている美景のポイントでもあった。
市街地の目抜き通りにて、海産品のお土産を購入して先へ急ぐ。 


館山の市街地を抜けると東方に大房岬(たいぶさ みさき)が突き出ている。 
房総には珍しく7~80mの断崖の岬で、雄大な海と奇怪な海蝕景観にも恵まれ展望台も点在している。県はこの岬を自然公園の拠点としてビジターセンターや園地、キャンプ場、宿舎等、各施設を造った。

又、この岬は高台で東京湾の入り口に当たるため、江戸及び東京の防衛拠点としての台場(要塞)の施設が整えられたという。
江戸時代の末には黒船来襲にあわてた幕府は、江戸の防衛のために10門の大筒が備えられた。

明治20年代に入ると日清・日露戦役に備えて日本海軍は兵員の訓練に励み、艦砲射撃の演習場として大房岬が選ばれている。
又、昭和3年、陸軍は東京湾防衛のため大房岬を買収し、要塞化する工事に着手している。
それは巡洋戦艦の艦砲(口径20cm)2門の砲塔が2基備えられ、1個大隊の兵士が東京湾の防衛に当たったとされている。
しかし、いずれも江戸末期の騒乱から昭和の大戦まで実際に使われることは無かったらしく、現在は、砲塔や弾薬庫の痕跡だけがのこっているという。

館山は、古代から近代にかけても東京湾の戦略的要衝に変わりはなかった。


次回は、内房・「鋸山




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日本周遊紀行(123)館山 「房総・安房神社」

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 日本周遊紀行(123)館山 「房総・安房神社」 



安房は阿波に通じ、古代の阿波一族が房総地方から武蔵を拓いたとされている・・、



安房神社、新装成った上の宮・拝殿と御本殿



先ず、その房総一ノ宮「安房神社」について。

房州」は、房総半島の海側の方から上総(かずさ)、下総(しもふさ)と呼ばれている。
古来、古代から中世の交通機関は船が中心だった。 
その房州は古くから関西との関係が強く、「勝浦」や「安房(阿波)」、「白浜」など、克っての故里(ふるさと)の地域の名を付けたところも多い。

又、九十九里には、鰯・イワシを追って大阪や和歌山の人々が移住して来ている。
銚子市の人口の何割りかは、醤油の製法などを伝えたとされる和歌山県人達の末裔で、今でも夏になると先祖の墓参りに戻る人がいるという。



安房一宮の安房神社は、四国・阿波から古代の「忌部族」(いんべぞく:大和朝廷成立に大きな役割を果たした阿波忌部氏:農耕、植栽の民)が渡来し創建したもので、四国の「阿波」と房総半島の「安房」が何れも「あわ」と読むのは忌部氏が阿波から安房に下った際に命名されたとも言われている。

忌部氏は更に、当地に「」(あさ)を植えたところ良く育ったことから、「」(麻の糸を束ねること、ふさ)の名が付けられ、上総、下総の名が生まれたとも言われている。 
更に、現在の西東京の一帯を「武蔵野」と呼ぶが、一昔の東京地方は「武蔵」といったのは周知である。 
武蔵(むさし)」の地名は、かつて南関東一帯が「総(ふさ)」という国名だったことに由来しているという。 

現在でも千葉のことを房総、下総と称しているのは前述のとおりであるが、その名が残る「総の国」は、特に現在の東京一帯を総の下、つまり「総下(ふさしも)」とも呼ばれていたそうで、その「総下」が年月と共に「ふさしも→ふさし→むさし」に変化したという一説もあるという。

その阿波忌部氏といわれる一族が、黒潮ルートに乗って房総半島に渡来し、房総から関東一円を開拓したとされてるのである。  



その起因とされる話は、四国・阿波に飛びます。

阿波の国には、日本の国が拓かれる当初からの「古社」である「忌部神社」(徳島市内、忌部族すなわち徳島県民の祖神を祭り古来阿波の国の総鎮守の神社)と「大麻比古神社」((おおあさひこじんじゃ:徳島県鳴門市・阿波国一宮)が鎮座している。
共に古代の忌部氏に縁り(ゆかり)の神社である。

神社古書には、「 当社は麻植神と称し、あるいは天日鷲神(あめのひわしのかみ:阿波忌部氏の祖)と号す 」と注記してある。 
忌部というのは「斎部」ともいわれ、大和朝廷で中臣(なかとみ:藤原氏)氏と並んで祭祀をつかさどった一族であり、平安初期には忌部を斎部とも改称している。
つまり、斎部(いみべ、いんべ)は神祇祭祀に携わる部民のことで、それを統率したのが忌部氏であった。



平安初期の文献に「古語拾遺」(こごしゅうい)というのがある。 
官僚・斎部広成が807年に編纂したもので、忌部氏が伝承する記紀(古事記、日本書紀)神話と祭祀の問題点を示した文書である。 

内容は、天地開闢(てんちかいびゃく:記紀内容)から奈良期・天平年間(729年~749年)までが記されていて、古事記や日本書紀などの史書には見られない斎部氏(忌部氏)に伝わる伝承も取り入れられているという。 

元々、斎部氏は朝廷の祭祀を司る氏族であった。 
だが「大化の改新」以降、同様に祭祀を司っていたのは中臣氏(藤原姓を与えられたが、後に別流は中臣姓に戻された)であり、政治的な力を持ち、祭祀についても役職は中臣氏だけが就いているという状況だった。
この書は斎部氏の正統性を主張し、有利な立場に立つために著されたものであるともいわれるが。 
以降、斎部氏は伊勢神宮の奉幣使の役職を司ることになる。 
奉幣使(ほうへうし)とは、勅命、つまり天皇からの進物または礼物を山陵・神宮・神社に奉献する使者のこと。



忌部氏の祖は、天岩戸で活躍した天太玉命(アマノフトダマノミコト)であるとされる。 
今日の神道で行われるさまざまな神事を統括し、そこで使われる一切の神祭用具を管理する神、というのが天太玉命(神)の本来の役割であるという。

記紀(古事記、日本書紀)では、天岩戸に隠れてしまった天照大神(アマテラス)を誘い出すため、天太玉神は洞窟の前で卜占(ぼくせん、占いのこと)をし、太玉串を作って捧げ持ち、祝詞(のりと)を奉じて、大神の出現を祈ったとされる。 
玉串とは、榊の枝に紙垂をつけた神に捧げる供物のひとつで、太玉串は「立派な玉串」といった意味であり、古代には紙でなく「布」を使っていたらしい。

この天太玉命には五つ神が従っていたとされる。 
そのうちの一神が天日鷲命(アメノヒワシノミコト・天太玉命の弟ともされ、阿波国を開拓した神)であり、その子孫が阿波・忌部氏であるとされる。 
氏は「布」の元となる穀や木綿・麻布などを植えて作り、朝廷に貢上して祭事に供された。
阿波の国のことを「麻植郡」とも称していて、現今でも、徳島県の地域には「麻植郡」の名が残っている。 
その内の阿波忌部氏の一派は後に東国に渡り、麻や穀などを植え、当地に「安房社」を建てた。 
その地は、やがて安房郡となり、後にに安房国となったと伝えられる。

因みに、戦国の覇者・織田信長は、古代忌部氏の子孫であるともいう。 
祖先は福井県丹生郡越前町織田にあって劔神社の神官である関係から、越前忌部(斎部)氏の支流であり古代豪族の忌部氏で、後に平氏を称したとされている。



その安房神社は、房総地方の総鎮守であり、安房国一宮となっている。

「安房神社」は、阿波の国から阿波忌部氏の一部を率いて房総半島に渡り上陸した際、そこを安房の郡(こうり)と名附けて天太玉命を祀る「社」を創建したとされている。
従って、創建年代については神代の昔まで遡り、年代不詳とされている。 だが、神社暦においては、創始は今から2660年以上も前に遡り、神武天皇が初代の天皇として即位した皇紀元年(西暦紀元前660年)と伝えられてはいる。
何にしても、相当の古社であることは確かなようである。

朝廷・武門から篤い崇敬を受け、特に領主の里見氏は社領の寄進や社殿の修造を行い、そのときの寄進状も残っているという。 

祭神は、天太玉命を主神とする。 
安房国は忌部氏が開拓した土地であり、天太玉命はその祖神であり、相殿に「天日鷲命」など忌部五神が祀られている。
古代、安房の国(阿波の国でもある)の建国当時の神々が祀られているわけである。



安房神社は、国道410号が洲崎方面に分岐する相浜地区の山中、その名も館山市大神宮という町名をも戴いている。 
JR内房線では、館山駅から南へ約10kmの吾谷山の麓に安房神社が鎮座している。 
鬱蒼とした大樹に囲まれ、堂々とした拝殿と檜皮葺の本殿が立ち、森閑としている。

この地域は房総先端部に当たり、黒潮の潮流に乗った古代海人族が上陸した地点としては最適の位置であろう。 
関東進出の第一歩となった阿波忌部の記念すべき上陸地「安房・館山」と「阿波・徳島」とは、現在でも交流が続いているという。

引続き「館山」




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2010年7月25日日曜日

日本周遊紀行(122)白浜 「八犬伝物語」

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 日本周遊紀行(122)白浜 「八犬伝物語」 



里美家の八犬伝物語と「白浜町」・・、


里見氏代々の菩提寺「杖珠院本堂」



白浜町役場の北方台地、東西に分かれて白浜城址と杖珠院(じょうじゅいん)がある。
南総・里見氏の初代からの居城であり、叉、「杖珠院」は里美義実、成義、義通、義豊等、代々の菩提寺である。
里見氏といえば、滝沢馬琴の南総里見八犬伝のモデルになった戦国武将として有名であり、初代里見義実はこの杖珠院の墓に眠ってる。

室町中期、白浜・野島崎に上陸した里美義実は、白浜に居城をかまえて戦乱の房総を平定した。 現在でも、当時の城跡が残っているのである。



室町中期の15世紀半ば、足利政権が揺らぎ始め、世は乱世で群雄割拠、下克上の様相を呈し始めていた。

関東地方では、永享の乱(1437年、関東地方で発生した戦乱、鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実の対立に端を発する)続いて結城合戦(1440年に関東地方で起こった室町幕府と結城氏ら関東の諸豪族との間の戦い)が行われ、更に、享徳の乱(1455年)が続き、乱世の真っ只中であった。

「享徳の乱」では、鎌倉公方・足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺した事に端を発し、鎌倉公方(幕府より派遣されてる出先機関、関東公方ともいう)が古河御所に逃れて古河公方と名乗って、関東管領上杉氏(公方を補佐する役職名)との全面戦争を引き起こす。
これは関東における内乱で、関東地方における戦国時代の遠因ともなったとされる。

里美家は源氏・新田氏の流れをくむ名家で、南北朝統一後にその一部が鎌倉公方に仕え、上野国・常陸国などに所領を与えられている。 
しかし里見家基(鎌倉公方・足利持氏の側近)が結城合戦において鎌倉公方方に付いたため、幕府軍の攻撃を受け一端は滅亡した。 
だが、一子里見義実は脱出して安房に流れ、そこで里見氏を再興することになる。

これを期に里見義実は、館山城主・安西景連の援助を得て白浜城・稲村城に拠点を得る。
この際、「享徳の乱」に乗じて従来、強固な支配体制を築いていた守護上杉氏の勢力支配を駆逐、切離し、安房国に進出、平定してその勢力を指揮下においた。 

ここで、里見氏は初代の安房の国の統治者になったのである。




南総里見八犬伝」は、関東の戦国時代に安房の地を活躍の拠点にした房総里見氏の歴史を題材にしている。 
里美氏が結城合戦に破れ、義実が当初の主人公となって安房へ落ち延びるところから始まるが、無論、歴史事実にはこだわらず、そのすべてが新たに創作されたものである。

江戸時代、戯作者滝沢馬琴によって書かれた大長編小説で、安房の国の城主・里見義実の娘「伏姫」と飼犬「八房」との間の物語である。

不思議な力で八つの徳すなわち「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の八つの玉が生れる。 やがてそれぞれの玉を持って生まれた八犬士たちが成長し、苦難に出会いながらも因縁の糸で結ばれるという。


南総里見八犬伝』 滝沢馬琴作

「 舞台は今の千葉県の南端安房国(白浜町)である。 時代は、室町時代の中頃、安房国領主・里見義実の娘・伏姫は、かつて義実によって処刑された悪女・玉梓(たまづさ)の呪いによって、飼い犬の八房(やつふさ)と夫婦になり山(富山町)の中で暮らすことになる。ある日、伏姫は「八房の子が出来ている」と告げられ、「身に覚えがないのに犬畜生の子を孕む(はらむ)なんて」と思詰めて自害してしまう。 だが、形のある子が出来たのではなく「気」だけの子が出来ていたのだ。 その時、伏姫が持っていた数珠の「仁・義・礼・智・忠・信・考・悌」の文字が浮き出て、八つの大玉が「気」とともに空高く飛び上がり、散り散りになり遠く飛び去っていった。 伏姫の婚約者であった金碗大輔(かなまり だいすけ)は、これら飛び去った八つの玉を探す旅に出る。 やがて関八州(関東)各地に、犬で始まる名を持ち、体に牡丹の痣(あざ)があり(犬の八房には八つの牡丹の痣があった)、文字の浮きでる玉を持つ若者が生まれる。 「気」だけで生まれた八人の子が「形」を成したのである。 
八犬士は、別々の場所に生まれながら宿縁に導かれて集まり、やがて里見家に仕えるようになる。 しかし、里見家は関東管領・扇谷定正等の諸将連合軍に攻められ、水陸両面で苦戦していたが、八犬士の活躍等により圧勝する。 その後、八犬士はそれぞれ城主となってゆくが・・、」

これが「里美八犬士」の長い物語の始まりである。


登場する『八犬士

犬江 親兵衛 仁(いぬえ しんべえ まさし)    仁の玉を持つ
犬川 荘助 義任(いぬかわ そうすけ よしとう)  義の玉を持つ
犬村 大角 礼儀(いぬむら だいかく まさのり)  礼の玉を持つ
犬阪 毛野 胤智(いぬざか けの たねとも)    智の玉を持つ
犬山 道節 忠与(いぬやま どうせつ ただとも)  忠の玉を持つ
犬飼 現八 信道(いぬかい げんぱち のぶみち)  信の玉を持つ
犬塚 信乃 戍孝(いぬづか しの もりたか)    孝の玉を持つ
犬田 小文吾 悌順(いぬた こぶんご やすより)  悌の玉を持つ


安房・里美氏については、更に「館山」の項で述べます。



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2010年7月23日金曜日

日本周遊紀行(122)南房総 「和田、千倉」

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日本周遊紀行(122)南房総 「和田、千倉」



捕鯨の町・「和田」・・、

国道128号は別名「外房黒潮ライン」という、その名の通り見通しの良い、白い砂浜と青い松の海岸線が美的に続く。 

しばらく行くと和田港が見渡せる。 

和田町はなんと日本で4ヶ所しかない捕鯨基地の1つ、無論、関東圏では唯一であり、(他には網走:北海道、太地:和歌山、牡鹿町鮎川:宮城県の三ヶ所)、首都圏に近いこともあって和田町の捕鯨は貴重であった。

鯨肉は、昔はいつでも何処でも食卓を賑わしていたが・・、今では一部の店にのみ残して、どこにでも見かけるというものではなくなった。 
食品としての鯨は、どうしてこんなにも稀少になってしまったのだろうか・・?。
それは南極海などでの捕鯨が、「科学調査用」のわずかな頭数を除き、禁じられてしまったからである、(商業捕鯨の禁止) なぜ商業捕鯨は禁止されたのか・・?。
捕鯨に関する事柄を取り決めるIWC(国際捕鯨委員会)やグリンピース(国際環境保護団体)が、「鯨は哺乳類である・・」とか「頭のいい海の生物」との理由、つまり科学的根拠、事実に基づかずに商業捕鯨を禁止してしまったからであり、その中心がアメリカやイギリスだという。

現在、南氷洋のミンククジラや他種のクジラはかなりの数で増えつつあるという。
そんな中、日本(日本捕鯨委員会JWC)はこの商業捕鯨の再開を求めているが。
現在でも和田港に水揚げされてるのは、ツチクジラのほかに南氷洋のミンククジラ等であるが、調査用捕鯨のみなのである。 

和田町には、今も鯨専門店、缶詰、冷凍肉、鯨骨のアクセサリーなど販売している店が数件あるという。

この和田町は、2006年3月20日にて富浦町、富山町、三芳村、白浜町、千倉町、丸山町、の周辺町村が合併し、館山市を取り囲むようにして、新しく「南房総市」が誕生するようである。



花の町・「千倉」は食事調理の故里・・?、

国道128からいつの間にか、国道410になり「千倉」の町に来ていた。
白浜方面を海岸に沿って向かおうとしていたためか、実際は国道とは別の海岸沿いの旧道を走っているようだ。 
房総フラワーライン」という立派な名前も付いていて旧道とはいえ、なかなかいい道である。

途中海沿いに「道の駅・潮風王国」というのがあり、周辺は千倉名物のお花畑が広がっている。 
駅は、赤い大きな建物で、お馴染みの海産物やレストランが集まっているが、変り種は大きな建物の中央部に生け簀があり、やがて人間に食べられる運命であろうが、今は悠々と近海の魚群が泳ぎ回っている。
この手の施設の中では、個性があっておもしろい。 周辺もけっこう広い広場になっていて、海に面し、磯にも降りていけるようだ。

長い海岸線が続く太平洋に面し、極めて温暖な千倉地区は「花の街」としても知られ、首都圏から花畑の鑑賞に訪れる人も多いという。 
時節は秋口なので菊科の花が多いようであるが、他にも色鮮やかな色彩の花々が咲競っている。 
花畑の起こったきっかけは、農家の稲の裏作として始まったらしいが・・、花畑を区画に分けて栽培し、露地花をオーナー制度としても紹介しているともいう。

民宿の多い千倉では「花の宿」として、花を使った料理なども提供し、各宿屋民宿は、至る所に花が添えられているという。この花ずくしや花料理のもてなしが評価され、2006年度「花の観光地づくり大賞」を受賞しているという。





料理神様を祀る高家(たかべ)神社・本殿



そして、花料理を生んだ千倉の町に、日本で唯一の料理の祖神を祀る神社がある。 千倉漁港の西、山域部に高家(たかべ)神社が鎮座している。



社は1200年以上の歴史を誇り、「日本書記」によれば、「第12代景行天皇が安房の浮島に行幸のおり、磐鹿六雁命(イワカムツカリノミコト)が鰹と蛤を調理したところ天皇は大層喜ばれ、以後、磐鹿六雁命は膳大伴部に任ぜられ、宮中の料理番として迎え入れられた」と記されている。
高家神社の祖神は、この磐鹿六雁命で、日本で唯一料理の神様をまつる神社である。 
古くから味噌、醤油の神様としても全国にその名を知られ、調理師、調味加工業者の信仰を集めてきた。又、結婚を控えた女性、新妻なども料理の上達を祈って数多く参拝するという。

三十段ほどの石段を昇り振り返ると、千倉の街並みの向こうに雄大な太平洋が広がっている。

平安時代から伝わると言われる「庖丁式」は、庖丁と箸を用い手をふれずに鯛・鯉・鰹等をさばく古式ゆかしい儀式で、時折TVなどでも放映されてお馴染みである。 
この、庖丁式は烏帽子(えぼし)直垂(ひたたれ)をまとった料理人が古式に則った所作で、一切料理に手をふれることなく包丁と箸を使い鯉や真鯛、ガツオ等をさばく、いわば日本料理の伝統を今に伝える厳粛な儀式である。

この日本唯一の料理の神様の地で、地元の「花と魚料理」の名人が腕を競っている。


次回は、「白浜」



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2010年7月22日木曜日

日本周遊紀行(121)合併の町 「小湊と日蓮」

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 日本周遊紀行(121)合併の町 「小湊と日蓮」 



千葉房総の「合併の町」について・・、

九十九里浜の中心より北部に位置する町村域は「平成の大合併」で、大幅に変化しているようである。

北から先ず「香取市」である。 
千葉県北東部の市で2006年3に佐原市と香取郡小見川町、山田町、栗源町が合併して誕生している。
対岸の茨城県と接し、市北部の利根川に面した低地部は水郷と呼ばれ観光地として知られる。「香取市」の市名はこの地方ゆかりの名称(郡名)であること、合わせて由緒ある下総一の宮・香取神宮から選定されたものであろう。


旭市」は2005年7月 、現旭市と干潟町、海上町・飯岡町が対等合併し、新しい「旭市」となっている。
」という呼称は一説には「旭将軍」と呼ばれた木曽義仲の末裔である木曽義昌がこの地で死去したのを惜しんで命名されたともいわれている。 
木曽義昌は、戦国期の信濃国の武将で、木曽谷の領主・木曽氏の第18代当主。 
1590年、徳川氏の関東移封に伴って子義利に下総国阿知戸(現在の旭市網戸)の1万石が与えられている。


2006年(平成18年)1月23日 、八日市場市、野栄町が合併し「匝瑳市」が発足する。 
匝瑳」とは、難解である、「そうさ」と発する。 
匝瑳を”そうさ”と読める人は千葉県民にも少ないといわれ、日本全国でも屈指の難読市名であろう、クイズ番組にでてきそうであるが。

匝瑳(さうさ)については・・、近畿の豪族・物部氏(物部氏の一族)が、朝廷から下総国の一部を与えられ、その名を「匝瑳郡」(さふさごおり)とし、その子孫が物部匝瑳(もののべのそうさ)氏を名乗ったと伝えられている。
匝瑳(さうさ)の語源については定かでないが、匝(そう・さふ)は、布(布巾)に通じ麻の織物、「総」のことで、瑳(さ)は、あでやかである、美しい事を意味する。
つまり、“美しい麻のとれる土地”のことで往時の下総国、房総にも通じると云われる。

地元の人は「匝瑳市」とは難儀ながら、縁起のよい漢字を充てたものと考えられているようである。
尚、「麻」に関係するとする「総の国」、「房総」の起こりについては、この先、館山の項:「房総・安房神社」に詳細記載してあります。


次に、2006年3月27日に光町、横芝町とが合併して新たく「横芝光町」が誕生する。 
この地は、江戸期幕末に商人・測量家である「伊能忠敬」(幼名・小関三治郎)を輩出していることは先に述べた。

又、蓮沼村、成東町、松尾町、山武町の4町村が、2006年3月27日に合併し「山武市」が誕生する。 
山武は、“やまたけ”ではなく、“さんぶ“でもなく、「さんむ」と称する。 
当初は、合併後の新市名を稀有壮大な「太平洋市」にする予定だったが、一自治体に太平洋を名乗るべきではないと言う趣旨の抗議が相次いだ為、住民アンケートを行って現在の市名に変更されたという。

そして、九十九里と南房の境に「いすみ市」(いすみし)が、2005年12月5日に誕生している。 
岬町、大原町、夷隅町の対等合併で、夷隅郡(いすみぐん)から市名を付けたという。 
ただ、前にも記したが行政名で「ひらがな文字」は戴けない。 せめて、夷隅市で良かったのでは・・?、
「夷隅」は古事記にも絡む由緒ある地名のようだが。

ひらがな文字の地域名、行政名については・・、
“実際には合併の時の市町村同士の摩擦を避けるための名称なのではないか”
“他の市町村名との差別化を図って自己の市町村を目立たせるためではないか”
などの事由が有るらしいが、何れも住民、叉は当局員の「エゴ」によるものであろう。
このような偏見的見方は、いずれ時が解決するものである。

因みに、「漢文字」は、それ自体が主体性の有る独特の意味を持つ固有の文字であるが、「ひらがな」は漢字を楷書ないし行書で表現される仮名(万葉仮名)を、極度に草体化(くずしたもの)したもので、ひらがな文字自体は言語の「音韻」を主に表わすもので、言語の意味を呈してはいないとされる。


次に、勝浦、小湊について・・、

国道128は、勝浦の岬の付根を上り下りしながら、勝浦の市街地へ来た。 

勝浦湾を正面に町は広がっていて、なかなか雰囲気がある。
目抜き通りに”朝市通り”というのが在る。

天正年間から400年以上も続いている勝浦の顔「朝市」は、ここで今も毎日開催されている。 
四季を通じて、近郷近在の採れたての野菜や果物などの山の幸や、その日の朝漁港で水揚げされたばかりの魚介類などの海の幸のほか、自家製の漬け物・つきたての餅・赤飯・しおから、から干物などの加工品などと、細工などの工芸品も店先に並べられている。

歴史と文化を感じる勝浦の朝市は、石川県の輪島、岐阜県の高山と並ぶ「日本三大朝市」の一つと言われている。 
朝市通りは下町通り、仲町通りと2箇所あって、其々月の半数ずつ交代で行っているらしい。

勝浦」は古くから漁業がさかんで、中でも勝浦漁港は国内有数の「カツオ」の水揚げ港である。 
カツオの水揚げは1990年から日本一を記録している。因みに、同地名の紀州・和歌山の那智勝浦町は生マグロの町と言われ、「生鮮マグロ」の水揚高日本一を誇る。 
面白いのは、この地「勝浦」の地名は、紀州・勝浦の漁業流民が当地に土着するようになって名付けられたという、こちらも詳しくは後ほど。



行川アイランドを左に見ながら、丘陵地というより山間地と云ったほうがいい。
つかのトンネルを抜けると、小湊の港へ出た。
気持ちのいい、静かな港・「鯛の浦」である。 

字の如く、本来深海を単独で回遊する魚なのに、水深10~20mを鯛が群れをなして泳いてる。 
学術的にも解明されていないといい、不思議な魚で一帯は天然記念物に指定されている。 
日蓮が誕生した際、無数の鯛の群れがここに集まってきたとされ、この現象が奇跡とされ聖人の化身との伝説もある。 
現在も鯛の浦の鯛は、餌を与えて手厚く保護しており、捕獲したり食したりはしないという。

このすぐ前に「誕生寺」が在る、日蓮は1222年(鎌倉初期)、ここ小湊のこの地に誕生した。 
その後、直弟子 (1276)によって、生家跡地に建立したのが高光山・日蓮誕生寺である。

日蓮は、この地の奥山「清澄寺」に12歳で「僧」になるため入山し勉学に励んだ。
その後、鎌倉、比叡山などに遊学し、その後得度して布教活動を始め、日蓮宗、日蓮正宗、法華宗などを広め開祖となる。
他宗派(念仏宗)を批判しながら、著書「立正安国論」を表し、時の執権、最高実力者の北条時頼に送るが、逆に批判、法難をあびて伊豆に流されたこともある。 
日蓮に縁のある寺院に身延山・久遠寺があり、東京・池上本門寺にて逝去している。

ところで日蓮宗派のお題目は「南無妙法蓮華経」である。 

「南無」とは「~を信じる」、「妙法蓮華経」つまり「法華経」を信じよう、という事。 
このお経の特徴は、全ての生きとし生ける者は皆成仏できると説いている点で、わざわざ西方極楽浄土に行かなくても、この娑婆世界で十分成仏できると説いている。 
本来は法華経を読めばよいが、できない場合は、「南無妙法蓮華経」と唱えるだけで同じ功徳が得られるともいうこと。

清澄山の山頂近くに「清澄寺」がある。
創建1200年を誇る、格式ある古刹であり、日蓮は12歳でこの山に入り教学し、得度している(高名な僧になっている)。 
清澄寺は、比叡山延暦寺の流派である天台宗であったが、後に真言宗に変じ、大正期に日蓮聖人の銅像が完成してから信者が増え、昭和24年にこのお寺は日蓮宗に改宗、大本山として現在に至っている。

清澄山は標高377m、房総半島で2番目に高い山で、麻綿原高原へ続く尾根の道は、四季を通じてハイキングの名所である。 原種ツツジに興味のある小生、「キヨスミツツジ」の名所でもある。



海岸沿いに旅館やホテルが並ぶ鴨川のメインロードの中心に、御存知「鴨川シーワールド」が在った。 さらに海岸に沿って鴨川漁港の南に明媚な島々が広がっている、「鴨川松島」というらしい。 
外房随一の名勝といわれ、水平線から昇る朝日をバックにした景色は素晴らしいといい、「新日本百景」の1つにも選ばれている。

その島群の一角、大海海水浴場の南に、「仁右衛門」という島がある。 
島名は、島主の平野仁右衛門一族が一戸だけ住んでいることに由来するという。 
居宅は、300年の歴史を刻んだ木造の立派な建物があり、今でも住んでおられるという。

1180年 静岡県伊豆の韮山に流刑されていた「源頼朝」が挙兵する。
頼朝軍と大庭景親のひきいる平氏軍が、相模国(神奈川県)の石橋山で戦い、平氏軍は3000人あまり、頼朝の兵はわずか300人足らずで敗れる。頼朝は海を渡り、安房(千葉県)へと逃げた。この時、追っ手をさけて身を潜めたと伝えられるのがこの仁右衛門島であり、今でも洞窟が残っているという。
その後、頼朝は地元の千葉介等、諸侯の協力を得て鎌倉へ戻り、平家清盛一門打倒への準備が整っていくのである。

天津小湊町と鴨川市は、平成17年2月に新「鴨川市」として合併誕生する。


次回は「南房総」



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2010年7月20日火曜日

日本周遊紀行(120)一宮、御宿  「宮と文教の町」

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 日本周遊紀行(120)一宮、御宿  「宮と文教の町」 



九十九里地方、上総の国の一宮:玉前神社本殿




一宮の「宮」の訳は・・、



海岸線の快適な・・とは言っても小雨の中であるが、九十九里道を更に南下する。
なだらかに湾曲した九十九里浜は、やがて「一宮町」辺りで尽きる。 

その一宮町であるが・・、
全国に数字のつく一の宮、二の宮など宮の付く地域名が多い。
小生の住む相模の国(神奈川)にも一の宮、二の宮、三の宮、四之宮とご丁寧に揃って存在する。
何れも「宮」と付くからには神社に所縁(ゆかり)のある地名であることは確かである。 
神社は昔から一郷一村の人達の心の拠り所であり、日本民族の魂のふるさとでもあった。 又、神社は古来、政事(まつりごと・政治)の中心的存在でもあった。

平安期、その国(地域)の神社の格式や祭政一致に基ずいて、朝廷(天皇が政治を行っていた場所)がその神社の挌位(序列)を決めたのが、「延喜式(式内社)」といわれるもので、「一の宮」はその国の由緒ある信仰の篤い神社の第1位のものであるとされる。 
国司(中央・朝廷から地方・諸国へ派遣された地方長官)が地方へ赴任したときは、一の宮、二の宮、三の宮と順に巡拝しなければならないとも規定されている。


ここ「一宮町」は玉前神社が上総国の一宮だったため「一宮庄(荘)」の名前が広まり、現在まで「一宮」の名称が使われているのであろう。 
その玉前神社は上総一宮駅の西側に鎮座している、主祭神は玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)、相神は鵜茅葺不合命(ウガヤフキアエズ)又は神武天皇としている。
 
玉前神社の名前の由来は、古来から九十九里浜には寄石伝説というのがあり、古くは「玉の浦」と称していたことは前項でも述べた。 

寄石伝説」というのは、「玉」の信仰が古代より信じられ、人々は海から寄せられた石に霊力を感じ、これを光り輝く神として祀っていた。 
即ち、石玉には霊力を感じ、これを光り輝く神として奉っていたことに始まるとされる。

玉は勾玉、八坂瓊曲玉(やさかのまがたま)に通じ、天皇の「三種の神器」の一つでもある。

又、玉前神社の主祭神を日向三神に由緒ある玉依姫命(たまよりひめ)としていることだろう。
即ち、玉依姫命、鵜茅葺不合命、神武天皇は日向地方における古代神(天津神)といわれる神々で、記紀(古事記、日本書紀)においては山幸彦(火火出見・ホホデミ:神代二代天皇)と豊玉姫の間に鵜茅葺不合(神代三代天皇)が生まれ、この子を育てたのが玉依姫であり、更に、鵜茅葺不合が神武天皇(歴代の初代天皇)を生んだとされている。

いずれにしても九十九里地方は、気候温暖で、豊穣の地であり、縄文・弥生の頃から人々の営みがあったことは遺跡からも確認せれている。 
寄石信仰、伝説は縄文人の心のよりどころでもあり、これが海からやってきたというのは、如何にも「九十九里」らしい。

玉前神社の創建は不祥とされているのは、縄文・弥生の古代人の自然信仰が、現在の一宮に継承されていることは充分に想像できるのである。


玉前神社には、「上総の裸まつり」、「十二社まつり」といった1200 年の歴史のある例祭があり、房総半島に多い浜降り神事の中でも最古の歴史と伝統を誇るとされている。
壮大な儀礼をひと目見ようと近郷近在、関東一円から大勢の人々が集まるという。
尚、「十二社まつり」では二つの神輿のうち、一基は大宮様(玉依姫命)、もう一基は神武天皇とされている。

一宮町には、他にも古い歴史を抱く大小さまざまな神社・仏閣が数多く在り、町内ではそれぞれの地域で、今でも季節ごとに昔からのお祭が伝えられ、賑やかに行なわれているという。 

一宮町は、やはり歴史と文化が漂う香り高い街であった・・!!



御宿」は文教の町であった・・!、

岬町は、広大な太平洋に突き出した太東岬にちなんで命名されたのだろう。
美的に単調な九十九里浜はここ太東岬を境に一変する。 一般的にこらから先は「南房総」と称しているようである。 

複雑に入組んだ海岸地形は独特の海岸美を形成していて、ここには観光施設やレジャー施設も多く、歴史や文化の色彩も濃く、首都圏の観光拠点にもなっている。 
また黒潮流れる温暖な地は各種花々の栽培が盛んで、海岸道路を”フラワーライン”とも称している。 

ようやく雨も小降りになってきて、明るさも増してきたようで、これから拙車はその南房である、国道128号・愛称である「外房黒潮ライン」を行く。

清流・塩田川を渡り、左に大原の港を眺めながら、「御宿」へと差し掛かる。
この御宿には心温まる逸話があった・・、


明治35年、猛烈な台風で御宿小学校は全壊した。

財政難の時代、時の校長・伊藤鬼一郎氏と村長は全村民に同意を得て、学校建設の為、毎日五厘(一銭の半分)の日掛貯金を実施した。 
その後、毎戸2倍の一銭とし、実に9年間に亘り一戸の脱落者もなく達成したという。

集まった金額3万円余(現在の価値で約1億8千万円)を以って独力で737坪の立派な新校舎を建てたという。
五厘は、儒教の「五倫五常」の五倫に通ずるとして、新たに学校名を「五倫黌御宿小学校」と名付けたという。 

五倫」とは、人として守るべき五つの道、君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友の信、「五常」とは人としての心得、仁・義・礼・智・信を言う。


小学校のすぐ南に歴史民俗資料館がある。
ここの一角に教科書を専門に収集した「五倫文庫」なるものが有り、当時の校長伊藤鬼一郎氏が、毎年使用される教科書を保存し比較研究したのがその始まりであると。 
氏は、初等教育が次の時代を背負ってゆく少年少女に如何に重要であるかを早くから認識され、 特に世界が平和の中に共存してゆくには、未だ天使のような清い心の幼い時に、正しい教育をすることが不可欠なのだという信念のもとに実行された。

収集した教科書は国内25000冊、国外50数ヶ国7000冊に及ぶ。


昨今、中高歴史教科書の記載の仕方が問題視されるときがあるようで、当の執筆者、関係者は、御宿の教育関係者に問うてみては如何かな・・!!。

御宿町は文教の街として、その名を千葉県のみならず全国的に知られているという。

 

御宿海岸は大幅な砂浜に覆われており、同じ海岸線でも九十九里浜とはまったく異なる姿を見せている。 
白い砂浜が波のようにうねり、海辺を見なければまるで砂漠のようである。

大正期の作家の「加藤まさお」が、病気療養のために滞在していたのがこの浜で、この地で童謡「月の沙漠」が生まれたという。



月の砂漠』 加藤まさを 佐々木すぐる(曲)

月の沙漠を はるばると
旅のらくだが 行きました
金と銀との くらおいて
二つならんで 行きました


次回は、「合併の町



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日本周遊紀行(119)九十九里 「伊能忠敬」

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 日本周遊紀行(119)九十九里 「伊能忠敬」 



歩きに歩いて日本地図を作った男・「伊能忠敬」・・、

九十九里浜の美しい砂丘の海岸道路が行く。
見通しの良い、ほぼ直線の九十九里ビーチライン、愛称「波乗り道路」を快適に飛ばす。 直線的で走りやすい海岸沿いの道は、時おり九十九里浜の潮風がビュウッと吹くので、窓を開ければ実に快適である。


「伊能忠敬」の前に、更に「鰯・いわし」について・・、

九十九里浜は、2市10町2村に渡っており、飯岡町から岬町の大東崎まで、66キロに渡る日本最長の砂浜である。 この中間地に「九十九里町」が在った。
そこに、この浜唯一の片貝漁港がある、「いわしの港」である。 

日本人とイワシのつきあいは古く、石器時代にはすでに食べられていたと言われる。 
九十九里浜のイワシ漁は、江戸後期には日本一を誇るほど大量に水揚げされ、最高の漁獲時は全国の漁獲高の三分の一にも達したともいう。 
黒潮」が九十九里の沖を通るため、水温や塩分の濃さが、 又、餌になるプランクトンが多量に繁殖し、そのためイワシが住むのに適しているといわれる。

イワシは、江戸時代の頃には農作物の肥料が主であったが、 現在は、飼料、肥料、食品、化粧品などの多くに用いられている。 
代表的なイワシはマイワシ、カタクチイワシ(背黒イワシ)、ウルメイワシなどであが、イワシには、豊富な栄養分が多く含まれており、すばらしい健康食品でもある。 
特に我々中高年族には成人病予防食品としての代表格であろう。

イワシ漁法としては、九十九里は海底が平らで遠浅なので、浜近くの村々では、昔から「地引網」が発達した。今は機械船を使った揚繰網(あぐりあみ)漁が主で、地引網は観光用となっているという。
獲れたイワシの7割が飼料、2割が加工食品で、鮮魚として流通するのは1割だそうである。

九十九里町役場の近くに、わが国に唯一その名も「イワシ博物館」が在る。 


ところで、九十九里浜の古名は「玉浦」(玉の浦)と呼ばれていたらしい。 
源頼朝の命で、6町(1町は約109.1メートル)を1里として、1里ごとに矢を立てたところ、99本に達したという伝承から「九十九里浜」と言われるようになったという。 

因みに、現在のメートルに換算すると、109.1m*6*99=64805mで凡そ65kmになり、実際の全長は66kmというから、かなりの正確度である。 

中央とされる山武市蓮沼地区(旧蓮沼村)には、その名も箭挿(やさし)神社が鎮座していて、また、その故事に因んで矢指ノ浦の別称もある。

『 まん丸や、箭挿(やさし)が浦の 月の的 』

と源頼朝が詠んでいる。


叉、徳川家康の命により「大坂冬の陣」の前年、江戸城と九十九里浜の中央を結ぶ、ほぼ一直線の道路が作られたという。 
現在、その痕跡は無くなりつつあるが、九十九里浜の中央部、蓮沼村の小松地区から県道124号、東金付近から宮城野JCTの北、県道69号から船橋、京葉道路にそって江戸城へ至っていたとされる。

今は、古道と概ね並行している東金九十九道、千葉東金道、京葉道、首都高を結べば最短時間で都心から九十九里までは、凡そ1時間少々で往来できるのである。



九十九里浜といえば地曳網によるいわし漁」と、今でも言われる。

古代にまで遡ると九十九里は貝塚類の他、多数の丸木舟などの出土例があり、縄文時代から人類の活動の盛んだった地域であったらしい。

この海岸は、日本列島に沿って北上してきた黒潮がここを境に日本列島から離れる個所であり、「黒潮文化」の北限に位置している。
そしてその一方、栗山川(2級河川、河口部・横芝光町)は「サケの回帰の南限の川」とされ、親潮の影響を受ける南端の地域でもある。 

つまり、九十九里は古代には黒潮、親潮の両文化が栄えた地域もあった。

この豊穣な海の地域には、昔から紀州漁民の入植が盛んとなり、紀州とのつながりと漁業関係による繁栄があったことは「銚子」の項でも述べたが、更に、頼朝も家康も目を付けたの“さすが”と言わざるを得ない・・!!。(尚、千葉房総と西国の関わりについて、詳細後述します)



小生は、今、日本の海岸に沿って車で旅をしているが、ここ九十九里町出身で、日本中のあらゆる海岸を歩き通した男がいる、「伊能忠敬」である。 
歴史上、或いは未来永劫も、これ程日本中を自分の足で歩いた人物はいないし、再び出る事はないであろうといわれる。 
それも趣味や健康のためだけでなく日本地図をつくる目的、仕事としてである。

江戸末期、55歳から73歳の13年間、日本中を測量して歩いた。 
距離にして35200kmといわれ、地球1周分、九州の果てから北海道の果てまで九回も往復した事になる。

忠敬は、今の九十九里に生まれ、忠敬が49才で家督を譲り、かねて趣味としていた天文を更に探求すべく江戸に赴き、幕府歴所・天文方(江戸幕府の職名・若年寄に属し、天文・暦術・測量・地誌・洋書の翻訳などに関することをつかさどった)に大阪より着任したばかりの高橋景保(たかはし かげやす・江戸時代後期の天文学者)に強引に弟子入りをした。

幕末の日本は、ペリーが浦賀に来航する前からロシアが蝦夷地に出没したり、多数の外国船が日本周辺を徘徊していた時期でもあり、時には、沿岸海域で援助や遭難、難破して救助を求めて来るときもあった。 
鎖国時代の幕府は、その様な外国船に対してある種の脅威を感じ、時には衝撃をうけていた。

幕府は、このような時世に測量家としての名を挙げつつあり、腕を見込まれていた忠敬に注目し、しかも、私財を投じて測量事業を行なっていたことが幕府にとっても有益だと判断したようで、忠敬に「測量方」を依頼する。 


最初の測量は蝦夷地(現在の北海道)およびその往復の北関東・東北地方において行われた。 
だが、忠敬の測量が極めて高度なものであったことから、その後徐々に幕府からの支援は増強され、国家的事業として育っていったという。
忠敬が、正式に幕府の命を受け、日本の地図作りに没頭し、前人未踏の成果を挙げたのは国土防衛のためでもあったのである。 その結果、18年間に至る日本全土の測量、地図製作という大事業を成し遂げた。 

忠敬が作成した地図は伊能図として、世界でも実測による地図として貴重であり、且つ精度も非常に高く、昭和の初期まで軍・参謀本部の20万分地図に使われていた程であった。


利根川河口より少々入った川べりに「佐原」の町がある。

江戸期は水運で栄えた商いの町で、古い町並みのいたるところに昔の面影が残る建物が多い。
忠敬が18歳の時に、下総国香取郡佐原村(現・香取市佐原)の伊能家に婿養子に入り、以来しばらくは商人として活動する。 
伊能家は、酒、醤油の醸造、貸金業を営んでいた他、利根水運などにも関っていた。 商人としてはかなりの才覚の持ち主であったようで、伊能家を再興したほか、佐原の役職をつとめたなどの記録が残されている、そのためかなりの財産を築いたともいわれる。

現在は、この地に記念館があり、彼が制作した「大日本沿海輿地全図」(220枚)や数々の下絵地図、方位、距離観測器具などが展示されている。


次回は、「一の宮、御宿」



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2010年7月16日金曜日

日本周遊紀行(118)銚子 「醤油と鰯と天保水滸伝」

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 日本周遊紀行(118)銚子 「醤油と鰯と天保水滸伝」 



犬吠崎灯台



賑やかな町、「醤油と鰯と天保水滸伝」の銚子・・、

銚子の街から犬吠崎へ向かう。 
市街地より河口付近の岬へ向かったら、そこは銚子ポートタワーが朝靄の上空へ向かって天を指していた。
高さ57mのツインタワー構造で、雄大な太平洋と大利根の河口の景観を楽しめるというが、今時は、まだ開館していない。

君ヶ浜の美景を眺めながら、次に白亜の犬吠崎灯台へ着いた。
所謂、ここが「銚子っぱずれ」の地であろう。 

レンガ造りの建築物としては日本一の高塔(31m)だそうで、発光輝度も日本一の灯台らしい。 
世界の歴史的灯台100選」に選ばれている。

ここは関東最東端の地で、緯度と経度の関係から富士山頂・離島を除き日本で一番早く初日の出を拝めるところである。 
正月元日には「初日の出」を拝もうと、周辺各地からマイカーが押し寄せ、周辺道路は渋滞となって、あげくは見損なうといった笑えぬ事例もあるとか。



ところで銚子は古くから「醤油」の町として知られる。

近世、房総の地へ関西人の移住が盛んになり、江戸中期には紀州から「浜口儀兵衛」が移ってきて、銚子に醤油の醸造を広めたとされる。 
その元禄期前後には、銚子の醤油産業が大いに発展したとされている。

銚子の利根川は江戸期、江戸~銚子間の利根水運が開かれ、東北地方の米・物産などを江戸に運ぶ重要な中継港として発展してきたことは、先に述べたが、水運利用の隆盛を背景に、醤油醸造と漁業が飛躍的に伸びたとされている。 

醤油の起こりは、元は味噌の製法から発明されたという。

紀州・由良町の僧侶・覚心が修行中の中国から我が国に初めて味噌及びその製法を伝え、味噌の製造過程で溜醤油(たまりじょうゆ)が発生、これを精製したのが醤油といわれる。 
醤油は近隣に広まり、後に、隣町である湯浅町の浜口儀兵衛が房総・銚子へ移住して広まったという。 


現在は街中にヤマサ醤油工場、ヒゲタ醤油工場が有る。
キッコ-マンの始祖となる茂木家、高梨家が野田で醤油を始めるのは17世紀頃で、銚子より遅れること半世紀たってからであるとか。

関東平野の川筋では、原料となる大豆や小麦、塩が近在で採れ、湿った川風が醤油つくりに適していたと言われる。 
材料も、製品も運ぶのには川が活躍し、更に、江戸川の整備が進むと、野田から日本橋までは半日で届いたといわれ、これで野田の醤油も勝機をつかみ今日に至っている。 

因みに、醤油を「むらさき」と呼んでいたのは、江戸時代に紫色を珍重する気風があり、同じく似たような色で貴重品であった醤油をそう呼ぶようになったとされているが。


江戸末期には、「イワシ」の大豊漁が続き、大いに沸き立つ中、「大漁祭」が行われるようになった。 
その祭のときに歌われたのが「大漁節」で、千葉県を代表する民謡の一つとして知られる。

正調 大漁節』 千葉県民謡

一つとせ 一番づつに積み立てて 川口押込む大矢声
二つとせ ふたまの沖から外川まで つづいてよせ来る大鰯
三つとせ 皆一同にまねをあげ 通わせ船のにぎやかさ
・ ・・
・ ・・
十とせ 十をかさねて百となる 千をとびこす萬両年


銚子の隣は「飯岡町」である・・、

利根川筋は「東海道」や「上州」と並んで国内でも三大博徒の地と言われている。 

この辺りは「」が無際限の獲れるところであり、鰯は食料以外にも畑などの肥料など、その利用価値は多い。 
元々が水運の地でもあり、物や金が動く。 
こんな場所に彼等は群がり、博徒や親分衆が目を付けつたのである。 
そこには特殊な人間関係が生じ、義理や人情と言った風土を作り上げていったのも確かであろう。


時は江戸天保時代、利根川沿いの江戸へ行き交う船で賑わう地域、相模の国の出身「飯岡の助五郎」は、出稼ぎ先の飯岡の漁港で網元として成功し、九十九里の飯岡を根拠に博徒の親分としても下総一帯に勢力を誇っていた。 
しかも、博徒でありながら、十手持ちでもあった。

一方、利根川沿いの東庄(とうのしょう)の「笹川の繁蔵」は、代々醤油と酢の醸造で功を成した村きっての物持ちでありながら、笹川の賭場を仕切り、下総一体に勢力を示し笹川一家を張る侠客でもあった。 

繁蔵が勢力を増すに従い、助五郎も黙ってはいない。 
お互いの勢力範囲が近接している所から、両者の間には小競り合いが続き互いに反目しあっていた。
そして天保年間、飯岡と笹川が遂に大利根河原での果し合いが始まったのである・・!!。

浪曲や講談でお馴染みの御存知・「天保水滸伝」は、飯岡助五郎と笹川繁蔵、二人の侠客の勢力争いの物語である。

浪曲・『天保水滸伝』 玉川勝太郎

♪♪♪・・・♪♪♪・・・♪♪、
利根の川風袂に入れて、月に棹さす高瀬舟
ひとめ関の戸 叩くは川の
水にせかるる 杭などに
恋の八月 大利根月夜
佐原囃子の 音も冴え渡り
葦の葉末に 露おく頃は
飛ぶや、蛍のそこかしこ
潮来あやめの なつかしさ
わたしゃ九十九里 荒浜育ち
と言って鰯の子ではない
義理にゃ強いが 情けにゃ弱い
されば天保十二年、抜けば玉散る長脇差
赤い血抹を しとどに浴びて
飯岡・笹川両身内
名代ならりける 大喧嘩
伝え伝えし 水滸伝
・・・・・・
♪♪♪・・・♪♪♪・・・♪♪、


次回は、九十九里・「伊能忠敬



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2010年7月15日木曜日

日本周遊紀行(118)銚子 「大利根・坂東太郎」

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 日本周遊紀行(118)銚子 「大利根・坂東太郎」 



間もなく太平洋に注ぐ利根川水域、その河口に架かる銚子大橋。 左は旧橋が老巧化のため2010年度完成の新大橋



大利根と言われる「利根川」は・・、


雨が激しく降る中、朝食を摂るのも忘れて、水郷道路から国道124号へ飛び出した。
朝の町並みは、まだ静まりかえっている。
有難い事に、またまた24時間営業の「吉野家」を見つけ、朝食に有り付いた、定番の納豆定食である。

時折、利根川の大きな河川が眼に入る。 ここは「波崎町」である。 
波崎町は大河・利根川と太平洋に挟まれた細長い街で、砂質土壌に発達した町であるり、延々20kmにも及ぶ波崎砂丘は、太平洋から吹き付ける風によって微妙に姿を変える。
即ち、「風紋」と呼ばれる風の芸術が見れる処でもある。


悠々と太平洋に注ぐ大利根の大河口付近で銚子大橋を渡る。 
延々1450m、川の水面上に架けられた橋としては、日本一の長さだとか。

この「利根川」は全長こそ約322kmで、信濃川に次いで日本第二位であるが、流域面積は日本一である。 



ところで利根川の源流は、日本列島の脊梁山地の一部である三国山系で、上越国境山地の最北部・巻機山(まきはたやま:1967m・)と平ヶ岳(2141m)の両百名山を東西に抱えた最北端にある「大水上山」(おおみなかみやま:1834m)の南面の雪渓であるという。

自称、山屋と称していた小生ではある・・、

因みに、この山に登るには上州側からだと、利根川を数泊かけて源流域を遡登するということだが、このコースは急登につぐ急登で体力がものをいう世界である。 
相当なアルバイトが強いられるのを覚悟して登ることが肝要であろう、

小生は無論この山域には至っていない。 
急な沢歩き、尾根登りを辛抱強く行けば、右側に上越国境の山々が、左側には一際雄大な「越後三山」や尾瀬の山々が美しい姿で眼前に展開し、苦しさを紛らわせてくれるという。 
頂上付近は、緑豊かな笹原の天上の楽園、別天地が展開し、360度の雄大な風景を独り占めでき、満足感は計り知れないものがあるという。

坂東太郎・大利根は、この「大水上山」の三角雪渓から滴り落ちる雪解けの水、最初の一滴から始まるのである。



実は、利根川の水源は長い間、謎で、明治、大正期に2回水源探検を実施し、水源は刀根岳(大水上山)と確認したが、源流部を解明するに到らなかったという。 
昭和29年(1954)、第3回利根川水源調査団がようやく利根川の水源は、標高1,834mの大水上山の三角形の雪渓であることを突き止めたという。
人々が入山して後、水源を見つけるのに実に60年の歳月がかかったわけである。
 
その実情は、カモシカも避けて通るといわれるほど急峻で危険な箇所が多かったという。 
尤も、上越国境の山々は日本一急峻な山岳、岩場として、岳人の間でよく知れる処でもある。 
特に、越後側は比較的のびやかなのに対して、南面にあたる上州側は、谷川連峰の一の倉沢、マチガ沢、幽の沢に見られるように大絶壁が連なり、総じて峻険な地帯となっているのである。

利根川水源が新たに発見された頃、世はある種の登山ブームに差しかかった時期でもあった。そして、この奥利根地方はも登山家のあいだでは、どちらかと言えば沢歩きが主流だという。


奥利根病』というのがあるらしい。
奥深い現流域は夏でも腰まで水に浸かる大変な沢登りだが、又行きたくなるという「再発病」である。 
こんな時期、とある女性の山愛好家が利根川現流域に魅せられ「利根川源流讃歌」を作っている。


利根川源流讃歌

遥か彼方 澄みわたる空のもと
上州最北端 利根川水源地
大水上山の三角雪渓
太古からの 雪解け水が
尽きることなく 湧き出すところ



河口にいるのに、山奥の水源の話になってしまったが・・、

ところで、利根川は「坂東太郎」(ばんどうたろう)の異名を持ち、「筑紫次郎」(九州・筑後川、「筑紫三郎」といわれる場合も)、「四国三郎」(吉野川・「四国次郎」といわれる場合も)とともに日本三大暴れ川の一つに上げられる。  

名称のについては、いくつかの説があるが、アイヌ語の「トンナイ」に由来するなどが有力とされ、「トンナイ」は巨大な谷を意味するという。 なお、利根川の名称が出てくる最初の文献「万葉集」には、「刀禰(トネ)」と記されているという。


鬼怒川や渡良瀬川(わたらせがわ)など名だたる多くの支流をもち、中下流域の千葉県最西北端の関宿町(現野田市)、埼玉県五霞町辺りでは、利根川本流を「江戸川」に分流して、これまた日本一の関東平野の大きな流域を潤し、首都圏の上水道を支えている。

又、水力発電としても利根川は有力な河川であり、上越国境の群馬県も発電事業の促進を図り、五十里(いかり)・川俣(かわまた)・矢木沢(やぎさわ)・藤原・草木(くさき)など多くの多目的ダムが築かれ,県内の多くのダムに発電所を建設して電力需要の確保を図っている。 
これら総合開発によって利根川は、各県と共有しながら首都圏の水需要と電力需要に欠かせない「日本の大動脈」となっている。



ところで、かつては利根川の河口は東京湾に注いでいたらしい。 

それに、今では利根川の支流となっている渡良瀬川や鬼怒川も、かっては独立した河川であったという。
特に、江戸(現在の東京)に政治の中心が移ってからは、利根川の治水は最重要課題の一つであった。


江戸幕府は、食糧を賄うための新田の開墾、舟運の開発と安定化、水害の軽減、飲料水の確保などを目的として、利根川を渡良瀬川筋に、更に常陸利根川筋に・・・と、少しずつ東に付け替える大工事を実施している。 
治水上の関係で最終的には利根川の本流、流路が銚子方向に確定したのは明治時代に入ってからであった。 
この川の流れを強引に変えて、銚子から太平洋に流すようにした大事業は、世に云う「利根川の東遷」と呼ばれている。 
その歴史は、徳川家康が江戸入府してから4年後の1594年に開始されたと記録に残り、最終的な拡幅は明治期になってからとか。 

流域は東京都、群馬県、千葉県、茨城県、栃木県、埼玉県の1都5県にまたがり、流域内には約1,200万人もの人口を擁し、利根川はその基盤となる生命の水を常に与え続けているのである。


引き続き「銚子



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2010年7月14日水曜日

日本周遊紀行(117)潮来 「水郷と潮来節」

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日本周遊紀行(117)潮来 「水郷と潮来節」



水郷潮来の中心部・前川あやめ園

♪♪「潮来花嫁さんは舟でゆく・・」



「潮来出島の 真菰(まこも)の中に・・、」の潮来節は・・、

昨夜は「道の駅・潮来」で車中泊となった。
夜半中、雨の音に悩まされながら、寝不足のままの起床となったが周囲を見渡すと、雨に煙る中にも水の郷らしい雰囲気が感じられる。 

そう、ここは「水郷潮来」であった。 
潮来は南に広大な霞ヶ浦、北浦を控え、近くに利根川と外浪逆浦(そとなさかうら)、常陸利根川に挟まれ、すぐ横に前川が流れる、まさに水の地帯である。 
昔は陸の道より、水運、水の道として栄えたといわれ、江戸時代に奥州各藩の産物を江戸に運ぶ中継港としての役割を果たし繁栄した。 
現在はこの前川下流から、常陸利根川を挟んで水郷観光の中心をなしている。



カスリのモンペに潮来笠をかぶった女船頭が操るサッパ舟と呼ばれる舟に乗って、水路をゆっくりと行き来する。 
白無垢の花嫁さんが嫁ぎ先へ舟で行く情景を、「潮来花嫁さんは舟でゆく・・、」の歌でも親しまれ、昔ながらの風情を今でも残し、水郷の情緒が味わえる場所柄なのである。 

アヤメの咲く町としても有名で、5~6月には「前川あやめ園」を中心とした3箇所の「あやめ園」に、500余種100万万余株の”あやめ”が咲き乱れ、町が活気づく。


茨城が生んだ詩人、野口雨情の「船頭小唄」もこの地を歌ったものという。 

船頭小唄』 野口雨情(詩) 中山晋平(曲)

己(おれ)は河原の 枯れ芒(すすき)
同じお前も かれすすき
どうせ二人は この世では
花の咲かない 枯れ芒




 『 潮来出島の 真菰(まこも)の中に
         菖蒲(あやめ)咲くとは しほらしや
 』

と「潮来節」にも唄われている。

潮来町の恒例行事、「あやめ祭り」や「潮来祇園祭り」には盛んに潮来節が唄われ、中でも恒例になった「潮来節おどりの競演」は唄と踊りが競演するコンテストで年々盛んになっているとか。



水郷潮来は、古くから江戸と東周りの東北地方、西回りの瀬戸内を結ぶ海上・ 内陸水運の中継港として栄えた。 
この地は、多くの商人や旅人が集う、にぎやかな宿場町であり、旅心を癒す三味の調べが流れていた。
潮来節はそんな旅人の心を捉え、江戸時代に大流行したといい、水郷潮来の回船によって日本全国に広まったという。 
遠くは阿波踊りで知られる徳島の「よしこの節」や「佐渡おけさ」のルーツは潮来節だともいわれる。 
又、江戸唄の三味の節回しを重んじた「都都逸」(ドドイツ・粋歌)や「端唄」(ハウタ・はやり唄)も元唄は「潮来節」といわれるという。 

津軽・南部地方の巫女の名称である「イタコ」(特に恐山における霊媒者)の名は、こちらの地名から起こったとされ、「口寄せ」(巫女などが神がかりになって霊魂を呼び寄せ、その意思を伝え告げること)の際に踊るのは「潮来おどり」が元になっているという。



潮来節」に見られるように古来、七と五という語数は日本人・日本語の感性、語感に合うといわれる。
言葉遊びとして既に平安初期には「短歌」としての、一つの文化を形造り、江戸時代には一般庶民の人々が、「洒落」や「」な言葉遊びとして十分楽しんでいたという。 
七七七五の語調も同様で、「述べて」、「語って」、「重ねて」、「崩す」といわれ、最後の五音で粋にあきらめる感覚で、「潮来出島の 真菰の中に あやめ咲くとは しおらしや」 という「潮来節」が大元になっているのである。 


この歌詞が多いに生かされているのが、囃子詞(はやしうた)といわれる都都逸(どどいつ)・端唄(はうた)・小唄・俗曲(ぞっきょく)と言われるものである。 
この七七七五は、実は近世歌謡調(流行歌)の原型でもあるという。 

もっとも今の若者の間では、語形に捉われない語り調、話し調が主流ななっているようだが・・?。 

イヤハヤ「潮来節」は富んだ広がりが有るもんです。



都都逸』 四選

「口でけなして 心で褒めて 人目しのんで 見る写真」

「遠く離れて 会いたいときは 月が鏡に なればよい」

「恋し恋しと泣く蝉よりも 泣かぬ蛍が身を焦がす」

「櫻という字を よくよく見れば 二階の女が 気にかかる」

(2貝の女が木にかかる・貝=女=・・)



端唄』 二選

梅は咲いたか

梅は咲いたか 桜はまだかいな
柳やなよなよ 風しだい
山吹や浮気で 色ばっかりしょんがいな



奴さん

エー奴さんどちら行く ハアコリャコリャ
旦那お迎えに さても寒いのに供揃い
雪のセ降る夜も風の日も サテ お供は辛いね
いつも奴さんは高端折 アリヤセコリャセ
それもそうかいな


次回は「銚子」 




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2010年7月13日火曜日

日本周遊紀行(116)鹿島 「鹿島神宮の要石宮」

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 日本周遊紀行(116)鹿島 「鹿島神宮の要石宮」 




鹿島神宮の要石宮



「鹿島神宮」の要石宮について・・、

大鳥居をくぐり、参道をまっすぐに東へ歩くと赤い楼門が構えている。 

楼門内、参道の右手に拝殿があり、拝殿の後方に本殿、御神木、鏡石と並ぶ。 
更に、参道はまっすぐに奥に延び、突き当たりに奥宮がある。 
奥宮から左手へ降りていくと、御手洗池、右手奥へ進むと「要石」(かなめいし)が祀られている。

要石社は、鹿島神宮を地震や津波から除ける神様であることは、余り知られていない・・?、神社参道の最奥に奥宮があり、そこの「要石宮」は地中の鯰(なまず)を押さえている・・、と伝えられ、震災除けの神といわれる。
実際、日本の各地に要石神社があって、震災除けの霊験があると伝えられている。 


鹿島市のすぐ南、水郷の地である千葉県香取市香取(佐原市と小見川町、山田町、栗源町が合併して誕生)に香取神宮(かとりじんぐう)が鎮座している。
下総国一宮で、日本全国に約400社ある香取神社の総本社であり、祭神は経津主大神(フツヌシノオオカミ)である。
前に紹介した鹿島神宮の武甕槌神と共に日本書紀・古事記にでてくる重要な神で、出雲の国譲りの神話にて日本での支配を古代出雲から大和朝廷(天皇)へ譲るために大変活躍した神である。

この二つ神社に共通しているのが「要石(かなめいし)」である。
この要石は地表に出ている部分はほんの少し(高さ15cm位、直径40cm位)で、地下の部分が非常に大きくけして抜き取ることができないとされ、鹿島側は上部中央部が凹形で香取側は凸形をしているといわれる。
昔、水戸黄門(徳川光圀)が七日七夜掘り続けても底が見える様子がなく、さすがの光圀公もあきらめて作業を中止したといわれており、鹿島神宮の要石と香取神宮の要石は下でつながっているとも言われる。

この石は地震を抑える石であるとしての信仰が続いてきたとされる。
昔から、この地方は地震が多く、これは地中に大なまずがいて暴れるからだと信じられており、鹿島・香取の両神様がこの要石でなまずの頭を釘のように打ち付けて動けなくしているといわれている。
このため、この地方では地震は起きるが大きな被害はないといわれている。
ただ、安政の大地震(1885年10月)では多少の被害が出たという、この時は地震が10月(神無月)であり、鹿島の神様は出雲に出掛けていて留守であったとの話は一応納得である。



 『 揺ぐとも よもや抜けじの 要石 
            鹿島の神の あらん限りは
 』


大昔は地震は、地中に住む怪物蟲の仕業であるとの解釈もされていたようで、その蟲がいつのまにか地震を予知できる「なまず」に置き換えて考えられるようになったという伝承もある。



小生の知ってるもう一つに、旧東海道の宿場・沼津の先に「原」の宿が在る。 
今の東海道線の原駅近く「千本松原」で有名なところだが、この松原の一角に「要石神社」というのがある。 
東海地方を襲った安政の大地震の時、東海、関東地方は地震と津波により大災害を発生させたが、ここ「原の宿場」は地震、津波とも全く無害だったと言われる。 
鹿島、原には要石といわれる大岩魁が、地表露出部こそ小さいが地中部では連なっているともいわれる。

昨今、東海、関東地域における地震予測が公表されているが、一度、原の「要石神社」にも、お参りしなくてはと思うが・・。


蛇足ながら・・、

実は小生、西日本周遊の旅に出て間もなく、千本松原のこの千本街道を通っていたが、残念ながら要石神社のことは記憶の外にあってお参りしていなかったのである。 
あの時は当地でも名の有る松蔭寺という古刹に立寄ったのであった。 ところで、拙宅の檀家寺は臨済宗妙心寺派で京都の妙心寺に本山を置くが、この禅宗・臨済宗の寺院を起こしたのが当地出身で臨済宗「中興の祖」といわれる「白隠禅師」であり、この地域の原駅近くの「松蔭寺」の出身でもある。



 『 駿河には 過ぎたるものが 二つあり 
             富士のお山と 原の白隠
 』

と詠われ慕われている。

当地で生まれ、幼少より聡明で15歳で松蔭寺にて出家、19歳で諸国行脚の旅に出て修行を重ね、やがて五百年に一人の名僧と言われる臨済禅・中興の祖と仰がれる。 
明治天皇より「正宗国師」の諡号を送られている。


次は水郷の里・「潮来」



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「旅行履歴」
日本周遊紀行「東日本編」   日本周遊紀行「西日本編」   日本周遊紀行 (こちらは別URLです)

【日本の世界遺産紀行】
北海道・知床   白神山地    紀伊山地の霊場と参詣道   安芸の宮島・厳島神社   石見銀山遺跡とその文化的景観

ハワイ旅行2007   九州旅行2008   沖縄旅行2008   北海道道北旅行   北海道旅行2005   南紀旅行2002
【山行記】

《山の紀行・記録集》
「山行履歴」   
「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   北ア・槍-穂高(1968年)   上高地・明神(2008年)   南ア・北岳(1969年)
八ヶ岳(1966年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   谷川岳(1967年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   奥秩父・金峰山(1972)   

《山のエッセイ》
「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」

《スキー履歴》
「スキー履歴」



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01. 15.

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