google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 日本各地の美しい風土を巡ります。: 11月 2009

2009年11月30日月曜日

日本周遊紀行(29)竜飛崎 「竜飛の名所」


「竜が飛びたった」とされる北の果て「竜飛崎」。正面は北海道・松前周辺



日本周遊紀行(29)竜飛崎 「竜飛の名所」


さて、「竜飛崎」は、北海道の白神岬とは津軽海峡を挟んで19km程の距離があり、この下を青函トンネルが通っている。 

「JR津軽海峡線」であるが、岬の真下を貫く、本州・北海道の世界最長の青函トンネルに敷かれた鉄道で昭和63年開業している。 
その「竜飛海底駅」は非常時避難用の駅でもあり、海底駅見学整理券を持った人のみ下車できる、竜飛崎からも見学出来るという、岬の下には「竜飛海底駅」があり、旧坑道をケーブルカーで降りて海底下の坑道を見学できるという。 


「竜飛崎」は、津軽国定公園・「竜飛」に指定され、三厩村・北緯41度15分・東経140度20分、標高120m(・・位?)、津軽半島最北、地の果てである。 

この竜飛崎は今や一大観光地になっていて、記念館、記念碑、名所名物もあり、名物の「風車群」は、ウインドパークと銘打った風力発電群でもある。
日本有数の風の地帯では自然エネルギーで、3000軒の家の電力を供給し、現在11基が稼動中であるとのこと。  

又、記念館や施設として、「青函トンネル記念館」、「竜飛ウインドパーク展示館」「竜飛崎シーサイドパーク」「道の駅・みんまや」等々・・、 又竜飛は「記念碑の岬」としても知られ、吉田松陰碑・大町桂月碑・佐藤佐太郎碑・川上三太郎碑・大久保橙青碑・太宰治碑 などがある。
中でも、ご存知「石川さゆり」の歌碑「津軽海峡冬景色」は、一世を風靡した歌で知られる。

又、当地に「吉田松陰碑」がある。
江戸末期、長州藩の攘夷志士であった若き吉田松陰が、後に池田屋事件で客死する宮部鼎蔵とともに津軽の地を訪れたのは、嘉永5年(1852)の旧暦3月初めである。 
小泊から峠を越えて三厩の海岸に出るが、松陰は竜飛崎に立って、『竜飛崎と松前間の狭い津軽海峡を外国船が堂々と往来するのを許しているのは、日本の存亡にかかわる重大なことである』と悲憤している。

因みに、松陰が翌日訪ねた「平舘」(陸奥湾・平館海峡)には、既に砲台があったという。 
松蔭は「大砲が7個あるが普段は備えていないこと、下北半島とわずか3里の海を隔てたこの要衝の地に砲台があることはすこぶる佳いこと、 また4年前に外国船がやって来て、5、6人の異人が上陸したこと」などを日記に書き残している。 
この砲台場は松陰がこの地を訪れる4年前に、幕府の命により津軽藩が築造したもので、高さ2メートル、長さ90メートルの扇形の土塁には、松がぐるりと植えられ、海上からは見えにくい工夫が施されているという。 
現在もその名残を留める「お台場跡」が有る。 

このお台場跡のすぐ側を南北に走る国道280号には、1キロにわたって見事な黒松の並木が続いている。 
およそ300年前の津軽4代藩主・信政によって植樹されたとも伝えられる。 この道は、松前藩が参勤交代で通ったことから「旧松前街道」の名がある。 
おそらく松陰たちもこの松の並木道を歩いたことだろう。


国道階段の手前には、車が海岸へ通じる道が敷かれている。 
そのヘアーピンカーブを下ると、竜飛漁港がある。 

今でも竜飛の家々は、海峡を吹き付ける狂暴な風雨から守るためであろう、断崖にへばりつき、お互いに身を寄せ合うように建っている。 
さらに部落の路を先に進むと、いよいよ路が尽きるのである。 

ここに地元・津軽出身(金木町)の太宰治の碑が立っている。
記念碑銘文は・・、
『 ここは、本州の袋小路だ、読者も銘肌せよ、諸君が北に向かって歩いている時、その路をどこまでも、さかのぼり、さかのぼり行けば、必ずこの外が濱街道に到り、路がいよいよ狭くなり、さらにさかのぼれば、すっぽりとこの鶏小屋に似た不思議な世界に落ち込み、そこに於いて諸君の路は全く尽きるのである 』と、この碑によって行く手が阻まれる事を知らされる。
ここは正に本州最北端、袋小路なのだ。


司馬遼太郎も「北のまほろば」で・・、
『 江戸時代の千住を出発すると奥羽海遵が、関東と奥洲をながながとつらぬき、ついに津軽半島にいたって松前街道と名がかわり、半島の先端の三厩村(竜飛崎)で尽きる、古街道としては、墨痕一筋というべき雄大さをもっている。日本中の道という道の束が、やがて一すじのほそいみちになって、ここで尽きるのである。 』と言っている。


崎の正面に大きく「帯島」が横たわっていて、そこには多数のカモメが群れていた。
この帯島の海中下に「青函トンネル」が通じている。

竜飛崎にて、青函トンネル工事に携わった人々の人間模様を描いた映画、「海峡」が1982年に封切られている。

本州と北海道を結ぶべく着工した青函トンネル開通工事に従事する技術調査員を中心に、長年に渡って難航を極めた大プロジェクトに取り組む人々の人間模様を描いたドラマである。
 
「北海道と本州間で運航していた青函航路では客船の事故などが相次いだことから、航路の安定が望める青函トンネルが造られることとなった。そして、その掘削調査に津軽半島を訪れた技術調査員の「阿久津」(高倉健)はある日・・・、」

岩川隆の同名の原作の映画化で、「八甲田山」の森谷司郎が執筆、監督も森谷司郎、撮影は「駅/STATION」の木村大作が担当している。

男たちを陰で支える女の代表として、吉永小百合が見事な存在感を披露していた。クライマックスは、苦悩と犠牲の果てにトンネルが貫通したときに健さんの頬をつたった涙は、まさに本物であった。 
このシーンは、あの「八甲田山」のラストシーンでもお馴染みである。

次回は、「三厩」


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2009年11月29日日曜日

日本周遊紀行(29)竜飛崎 「階段国道」


竜飛名物、国道339号・「階段国道」



日本周遊紀行(29)竜飛崎 「階段国道」


小泊から山上の展望地へはヘアーピン道路が蛇の如くうねり、車もエンジン・フルスロットルで喘ぎながら上る。
目を転ずると、これから向かう「竜飛の岬」が突き出てるのが鮮明だ。

最北の展望台からの眺め、そこは風の名所なのであろう「風の岬」とも云い、そのため風力発電の風車が林立している、そして突端に竜飛崎灯台が鮮明に望まれる。 
又、遥かな遠望は大地・北海道の山並みであろう、その海岸沿いに松前・・?の町並みがボンヤリと覗える。 


先へ進もう・・、 

今度はカーブラインをゆるやかに下ってゆく、しばらく走って待望の「竜飛崎」へ到着した、日本本土、本州の最北端である・・?。 
本当の本州最北端は実は下北半島の大間崎であるが、でも、多くの人は「地果てる処、北の最果て」といえばここ竜飛崎とイメージしているようである。


名前もいい・・、
地面を這いまわってきた覇者である「龍」もこの地で尽きた。
この先は海に転げ落ちて海上を這うか、天空に飛び立つしかないのである。 そして覇者・龍は蝦夷へ向って空へ飛び立ったのである。 
即ち、「竜飛」である。



ところで、「」と「」のことですが、海図では海洋に突出した陸地の突端部の名称としての(Saki)は、概ね土ヘンの「埼」を用いているらしい。


例えば、東京湾付近では一般地図などには野島崎・観音崎・剱崎と「山ヘン」で記載されているが、「海図」には「土ヘン」で野島埼・観音埼・剱埼と図載しているという。 
土ヘンの「埼」は、陸地(平地)が水部へ突出したところを表現し、山ヘンの「崎」は、平野の中に突出した山地の鼻先等を言う意味らしい。 

旧海軍による海洋情報部では漢字の意味からも地形が判る土へんの「埼」を採用しているらしく、即ち、小生の手元の地図では竜飛「崎」であるが、海図では竜飛「埼」となるらしい。


この岬の名物に、歩行者しか通れない階段国道339号線)というのがある。 

石畳の階段が小高い岬の頂部と海岸の底部を結ぶ、幅2m程度の狭い石段の端と中央部には手摺が続き、両階段の入口には通常の国道の案内標識がある。 

階段は全長390m、階段は362段あり、標高差が70mもある、かなりの急勾配で険しい。

元より、「国道339」は弘前市を基点に津軽半島西岸を回り、半島先端部の三厩村に到る120kmの国道である。


国道階段の発生、いきさつ・・?、

竜飛崎は、海岸からは切り立った断崖のような段差が大きく、元々は急な山道で未整備だった地域道・村道がそのまま国道になったものである。 


つい近年の事であるが・・、

地元の人が「昭和49年頃、村役場が地図に記入し、国道昇格の申請をしたところ、審査官が現地を確認しないまま認可を与えてしまった」という。
中央のお役人が国道を指定する際、現地を検分することなく地図だけを見て、間違えて指定してしまったそうである。 

国道に指定されるまでは階段はなく、急な坂道であったらしい。 
途中には村立竜飛中学校、また坂の上には竜飛小学校があり、登下校の児童・生徒が坂道を利用していたものの、後に、濡れ手で滑って負傷しないように階段が整備されたという。


昭和63年3月には、本州と北海道を結ぶ青函トンネル(全長約54キロ)が開通した。

竜飛は、本州側の建設拠点となったため、当時、工事関係者や家族ら約三千人が居住していて、無論、階段通路は通学路、生活路となって利用されていた。
「階段国道」は、子供たちの元気な声がこだましていたのである。 

・・ということで、階段のあるチョット変わった国道になってしまったのである。

その後、青函トンネル工事の完成と同時に「国道階段」は観光名所となり、より良く整備されてそのまま残ったという。 
今では階段国道はすっかり全国的にも知られるようになり、竜飛崎の目玉といえる程の名所になっている。


下側(海岸)から階段へ通ずる「国道」は、民家の軒と軒の間を通ずる幅1.5m程度で、両手を広げると付いてしまいそうな狭さであった、これまたビックリ。 
なんとも不思議な国道である。



因みに、変わった国道として、海の上を指定した例がある。

国道280号は、青森市から北海道函館市までの一般国道である。 外ヶ浜町で一旦途絶えているが(松前街道ともいう)、津軽海峡の海上区間は「海上国道」として北海道へ至り、北海道内は国道228号と重複して函館市に通じている。 

又、「点線国道」というのもある。 
通行困難な国道の最も代表的なもので、大抵の場合、山岳地の峠周辺に存在するため、利用者はその区間は徒歩での通行(登山)を余儀なくされる。 
代表例で上越国境、国道17号の三国峠(1957年2月に三国トンネルの開通により解消)や同じく、上越国境(一ノ倉沢-清水集落)の国道291号の「清水峠」は現在もそうである。 

又、甲州・秩父を結ぶ甲州往還、国道140号の雁坂峠(「開かずの国道」と呼ばれていたが、1998年4月に雁坂トンネルの開通により解消)などで、これらはトンネル開通で解消されたが、今も現役の点線国道は10箇所以上存在するという。




引き続き「竜飛崎」



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2009年11月28日土曜日

日本周遊紀行(28)市浦 「十三湊・福島城址」


十三湖より日本海(この地域に中世、安東氏が東日本随一の湊を築いた)


日本周遊紀行(28)市浦 「十三湊・福島城址」



湖の北側に「十三福島城址」がある・・、

福島城は十三湖の北岸、標高20メートル程の台地上に位置し、城郭は一辺約1kmの三角形をしたもので、往時は城を取り巻く内郭、外郭は総面積62万平方米にも及ぶの壮大な規模であったという。
その後の発掘調査で巨大城郭福島城については、通説に反して、「古代城柵」にも似た構造を持ち、平安中期の10世紀後半ころの築造である可能性が強くなったともいわれる。

城柵は、丘陵の突端などに空堀や土塁を築いたもが主体で、アイヌの「チャシ」などもこれに当たる。


この福島城の築城は、藤原秀栄(ひでひさ:十三氏)であると言われる。

平泉の藤原基衡(もとひら)の次男・秀栄は、父基衡から津軽三郡をもらってこの「十三の地」の領主となり「福島城」を築いた・・、 秀栄は、後に「十三氏」と名乗っている。 
基衛は御存じ藤原三代の二代目で秀衡の父に当り、即ち、秀栄と秀衡は兄弟で、その弟に当るわけである。 

家督を継いだ秀衛は、中央政庁より49歳で鎮守府将軍に任じられているが、源義経を向い入れた為、その死後に頼朝によって、藤原三代は滅ぼされている。
一方、それ以前の平安期、「前九年の役」の源頼義によって厨川で滅ぼされた安倍一族は、落城直前に津軽に逃れ「藤崎」に住み、安東氏と称したことは、先に記した。


鎌倉初期に至って北条・幕府は、その安東氏を蝦夷地代官として任命し、津軽内陸を直轄領とするそのため安東氏は、藤崎(津軽平野)より十三(津軽半島)へ進出することになる。

必然・・、
十三氏と安東氏は衝突することになる。 
安東氏は鎮圧の名目で北津軽へと進軍、同族といわれる十三氏と争う、これを「津軽・萩の台の合戦」といって、鎌倉初期の1229年の事であった。
結果は、安東氏が十三氏を破り、福島城と十三湊を治めたとされている。

福島城に根拠を持った安藤氏は、鎌倉時代から南北朝時代にかけては非常に広い範囲に影響力をもっていた豪族とされ、その勢力は北は北海道渡島半島、南は太平洋側の仙台湾・松島、日本海側の秋田男鹿半島、東は下北半島に及んでいたという。

安東氏の拠点・十三湊や福島城は、中国や沿海州・朝鮮とも交易していたのであり、日本海沿岸の諸国と交易していた事は、最近の発掘で大量の輸入陶器が出土したことにより示されている。
この港の収益は莫大なものであったに違いない。
この交易が安東氏の絶大な力の根源であった。
近々、城郭の遺跡からは、その国の人々の異人館やキリスト教会がなども発掘されているという。


時代は下って・・、
15世紀の室町中期、十三安東氏は、その後台頭してきた南部氏に敗れ蝦夷地・松前へ逃亡することになる。(蝦夷地・北海道で記載予定)

更に・・、
戦国期になって、南部氏の家臣で一族の大浦為信津軽氏)が独立して津軽地方を平定し、「大浦氏」より再び「津軽氏」に改姓したことも、先に記したが、いずれにしても津軽及び十三地方は、平安中期より安倍氏、藤原氏、安東氏など「前九年の役」の主役たちの流れた地であり、それも突然の大津波に襲われ一夜にしてその栄華は衰退し、十三湊で栄えた安東水軍もそれ以来勢いを失い、南部氏の侵攻などもあって遂にはこの地を追われることになる。
時代は巡っているのである。

今の十三湖周辺は、かつての国際港の面影や威容を誇った城は、夢の跡が残るのみである。だが、近年の発掘などにより、昔の姿が次第に解ってきているという。

十三の砂山』 津軽民謡
十三の砂山 ナーヤーエー
米ならよかろナ
西の弁財衆にゃエー
ただ積ましょ ただ積ましょ

弁財衆にゃナーヤーエー
弁財衆にゃ西のナ
西の弁財衆にゃエー
ただ積ましょ ただ積ましょ


弁財衆」とは・・、 

江戸時代日本海を往来した商船、北前船のことを弁財船といい、江戸と大阪の二大中央市場を軸とする航路による経済発展に貢献した。
近世では、弁財船に乗っている船頭衆のことを弁財衆と称していたが、平安時代には、国領や荘園などに設けられた役職のことで、貢納された租米を計算し処理する役目の事であった。 

「砂が米なら、ただで砂山の米を積んでやろう」という歌詞には、弁財衆によって米を取り立てられる農民の苦しみをコミカルに、切実に言い返しているという。

次回はいよいよ竜飛崎へ

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2009年11月26日木曜日

日本周遊紀行(28)市浦 「十三湖と十三湊」



  十三湖より岩木山の遠望



日本周遊紀行(28)市浦 「十三湖と十三湊」



例の「こめ米ロード」の直線道路を北上すると、広大な「十三湖」にぶち当たる。

十三湖は、海水が入り混じった汽水湖で遠浅の湖岸は、シジミの特産地でもあるとか。 
美観のある立派な「十三湖大橋」は日本海と十三湖の接点部を跨ぐ。
もちろん橋の上部からは両方のパノラマが大きく広がる絶景である。 

この辺りでは、車をユックリ走らせて海岸線から湖面まで伸びやかに広がる景観を楽しむ。 
海岸も良い、鯵ヶ沢から十三湖辺りまでの海岸線を「七里長浜」といい、平均高さ1~2mの砂丘が延々と連なっている。 

志士・「吉田松陰」が竜飛崎への途中、余りの絶景に心を躍らした処でもある。


「十三湊」について・・、

この「十三湖」周辺は、以前から「十三湊」(とさみなと)という都市が、中世期の頃存在していたことは古文書などでは知られていた・・が、
近年まで湊、町または都市としての十三湊は地理上では明確になっていないという。 
ところが最近になって(1990年以降),砂丘に埋もれた中世の港町・「十三湊」が発掘され、その姿を現しつつあるという。 

その場所とは主に、日本海と湖とに挟まれた細長い砂上の地域に、領主館や武家屋敷、町屋等が現しつつあるという。 
まるで火山の灰に埋もれた「ポンペイ」の様である。


十三湊は、鎌倉期・12世紀後半から凡そ3世紀に亘って隆盛を極めたという。
当時、十三湊一帯は豪族・安東氏の統治国であった。 
この安東氏は陸奥の国、安倍一族の子孫といわれ、平安末期「前九年の戦」で安倍貞任(あべのさだとう)が源頼義(頼朝、義経の祖)に敗れ、その子供等が北国津軽のこの地へ落ちのびたとされている。 

津軽平野の中央に位置する「藤崎町」に、安倍貞任の次男・高星丸(たかあきまる)が逃れ、安東と称して津軽地方を治めたことは、前回、記した。
安東氏は回船技術に優れ、日本海地域の中心都市として、海外(明・今の中国や朝鮮、極東ウラジオ)との交易を深めて「十三湊」の繁栄を築いたといわれる。 

特筆すべきは、室町期の頃の国内での日常の食器や生活用品等は、普通、木製品が中心だったが、この地では既に舶来品の陶磁器類を使用していたという。 

湊としては、当国(日本)の「三津七湊」の一つであるといわれた。 

三津七湊(さんしんしちそう)といわれる地域は・・?、
室町時代末に成立した日本最古の海洋法規集ともいわれる「廻船式目」のことで、この中に日本の十大港湾が記されていて三津、七湊の港湾都市の事を指していた。 

「三津」は伊勢・安濃津(津市)、筑前・博多津(福岡市)、和泉・堺津(堺市)であり、
「七湊」は越前三国湊(坂井市)、加賀本吉湊(白山市)、能登輪島湊(輪島市)、越中岩瀬湊(富山市)、越後今町湊(直江津→上越市)、 出羽土崎湊(秋田湊→秋田市)、それに津軽十三湊

(市浦村→現、五所川原市)のことであった。


さて、十三湊の中世(鎌倉、室町期)の頃は・・、

朝鮮半島や大陸との交易で栄え、日本海交易が発達していった。 
その当時の遺物として、今の所、中国や朝鮮からの輸入陶磁、能登の珠洲(すず)焼き、古瀬戸焼きなどの陶磁器類が中心で、日本から中国への輸出商品は、海獣やラッコの皮など北方の産物などとされている。

又、木簡のような文字史料も含まれており、今後の検出が待たれるという。一方、中世の遺跡としては、城館や城下町の発掘調査が行われ、次第に明らかになりつつある。
港町も、 例えば博多や堺などのように、その後の都市開発によって大きな面積が調査できない場合が多いといが、その点、いったん幻と化していた「十三湊」は、それだけに十分な調査実施に魅力があり、港町の姿や流通のあり方の解明につながる可能性も秘められているといわれる。


室町中期以降になると安東氏は、南部氏の台頭によって追われることになり、その力は急速に衰微し、そのため北方との交易地の地位は、野辺地湊や大浜(現在の青森市)に奪われていった。 
その後、十三湊は時代が下るにつれ自然の影響を受け、飛砂が堆積して水深が浅くなり、次第に港としての機能は低下していったという。

その最大のキッカケになったのは地震による大津波による被災ともいわれる。 

この地震・津波は、興国2年(1341)の大津波といわれ、一説によると津軽地方大半が埋没し、死者十万人を超えたともいわれる。


現在、十三湊の今の姿からは、当時の繁栄の模様を全て伺い知ることは難しいとされる。
それは大津波によって、軒をつらねた商家も、郡をなす商船も、そして壮大な城塞や湊も一瞬にして湖底に沈められたからであるとも云われる。

又、次の時代の統治者であった「津軽・南部氏」は回船、交易には全く無頓着であったため十三湊は廃れたともいう。

それでも十三湊は、近世江戸初期の頃までは北前船の寄港地として川船で岩木川を下って来た農産物、米穀、木材を十三湊まで運び、鯵ヶ沢湊を中継地として大船に乗せ変え、日本海から関西方面へ運ばれる所謂「十三小廻し」というのも行われ、小規模ながら活動していたらしい。 

明治維新以降は、日本海側諸港の殆どは鉄道、道路の普及で次第に廃れていったという。
現在は「十三湖」の湖面だけが、キラキラ光って、輝いている。

次回、更に「十三湊と福島城」


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2009年11月25日水曜日

日本周遊紀行(27)津軽 「津軽地方」


晩秋のお岩木山


日本周遊紀行(27)津軽 「津軽地方」



「十三湖」の前に「津軽地方」について・・、


「津軽平野」からは、大抵の場合「岩木山」が望めるといい、地元では「お岩木さん」といって親しまれているようである。

この辺り冬は豪雪地帯である。 
映画・「八甲田山」で、弘前第31連隊の徳島大尉以下数名が一列縦隊になって、白銀に染まった岩木山をバックに「雪の進軍」を唱和しながら、八甲田への冬季訓練と称しいて雪中行軍をするシーンを思い起こさせる。

明治35年のことであるが、同刻に青森の歩兵第五連隊と雪の八甲田での同時演習のはずだったが、青森隊は雪中行軍の演習中に、記録的な寒波に起因する猛吹雪と酷寒に遭遇し、210名中199名が遭難したのである。 
所謂、「八甲田雪中行軍遭難事件」が発生しているのだが、これも後ほど。



津軽平野に聳える岩木山は、標高1625mと、富士山の半分もないが、付近に高い山が全く無いため、その標高以上に高く、雄大に感じられる。 
その美しい山容は、見栄っ張りで、じょっぱりな(強情な)津軽人の自慢の種で、岩木山こそ日本で一番美しい山で「富士山は駿河岩木じゃ」と言って強がっているようである。

その優美な姿は、「津軽じょんから節」など津軽民謡の中でも謡われて、『あ~富士に劣らぬ津軽のお山、お山眺めてお城の花見、仰ぐ天守は桜の中よ。  あ~りんごかわいや色こそ可愛い、岩木お山に生まれて育つ、わたしゃ津軽のりんご娘』と。

広い津軽平野にドーンと座ったような岩木山は、東西南北どの方向からでも良く見える。 又、見る方角により、その姿を多少は変わるが、どれも美しく・・、その周辺地域の人々は自分の方から眺めて「おらげのお岩木(おいわぎ)が一番じゃ・・」と美しさを自慢し合っているという。



岩木山周辺から湧き出す「平川」等の幾多の支川を合わせて「岩木川」を形成し、弘前市付近から津軽平野を貫流し、十三湖を経て日本海に注いでいる。
岩木川は、流域面積のうち約70%が山地、30%が平地であり、他の河川に比べて極めて平地面積の割合が大きいといわれる。
その「津軽平野」は青森県水田面積の約5割を占める穀倉地帯であり、中流域はリンゴの特産地であることは、万人が知るところである。



岩木川の沖積作用によって出来た広い津軽平野・・、

この「津軽地方」は奥羽山脈によって二分されていて、太平洋側の「南部地方」とは自然環境や農業環境では対象的に異なるといわれる。 
尤も、津軽と南部は自然ばかりでなく、人間も大違いで、現代においても何事によらず合い争うと言われているが、この事は(津軽・八戸周辺の項でも記したい)。

本州の北端にあるため、両地方とも冷涼型の気候であり、冬が長く夏が短いのは共通しているが、しかし、津軽地方の気候は冬は積雪量が多く曇天の日が続くが、夏は気温も上昇して稲作も安定している。
一方、太平洋側の南部地方は、「ヤマセ」(夏、北海道・東北地方の太平洋側に吹き寄せる東寄りの冷湿な風、稲作に悪影響を与える)という独特の風の影響に悩まされる。 
このため津軽地方は豪雪地とはいえ、米とリンゴが産業の基幹をなしているのは周知である。



米に因んでだか・・、
この津軽地方には、「こめ米の道」というのがある。
半島の付け根、日本海に面していて、地図を見ると広大な地に湖沼群が点在し、道路だけが舗装されていて一直線に延びている。
この道を「こめ米ルート」と呼んでいて、地図にもそう記載してある。


岩木川の沖積低地には米作、岩木山の傾斜地や岩木川の自然堤防上にはリンゴが栽培されている。 「自然堤防」は,沖積平野を蛇行する岩木川が洪水のたびに川からあふれ、その水が川岸に土砂を堆積することによってできたもので、水面より2~3はメートル高く浸水の恐れが少ないため、その部分は集落やリンゴ園として利用されているという。  
青森リンゴの栽培は、全国のほぼ半分を占めており、依然として津軽は日本一のリンゴ生産地、リンゴの故郷なのである。

春、桜の散った後には,リンゴ園は白い花で埋まる、「津軽富士」はリンゴの名称でもある。



次に、「津軽じょんから節」のこと・・、

津軽地方の「津軽じょんから節」は、黒石の「川原節」が元祖であるともいわれる。
津軽民謡の三大節の一つでもある。(他に、あいや節、よされ節)

戦国末期 (1597年)、大浦為信(津軽氏・津軽弘前藩初代藩主)に攻められ、城中城下350年の間、津軽平野で繁栄してきた領主・千徳家(せんとく)は滅亡した。 この時の落城悲話として「じょんから節」がうまれたと伝えられている。 

この時、城下寺院の「一の坊」の僧・常椽(じょうえん)和尚は主家の必勝を祈願し、神仏の加護を念じていたが、ついに夜明けともに大浦勢の攻撃は一の坊にも及んだ。 常椽和尚は山伏姿となり、先祖代々の位牌を背負い、群がる敵兵に薙(なぎなた)を揮いながら東の南部領をめざして難を逃れようとしたが叶わず、遂に、白岩の断崖から濁流に身を投じ、その一生を終えたという。 

数年経って・・、地元民が常椽和尚の変わり果てた屍を見つけ手厚く葬って、常椽の墓と名付けた。 そして、この辺一帯を常椽川原(じょうえんかわら)と称した。


それから毎年お盆になると、村人はこの墓所に集まり供養をし、千徳家全盛時代の昔を偲んで城主をはじめ先祖の霊を慰める盆踊りを行い、即興的な唄を歌った。 
これが常椽川原節、変じて「じょんから節」になったと伝えられる。


津軽じょんから節』 青森県民謡

ハーアー
富士に劣らぬ 津軽のお山
お山眺めて お城の花見
仰ぐ天守は 桜の中よ・・、

ハーアー
りんごかわいや 色こそ可愛い
岩木お山に 生まれて育つ
わたしゃ津軽 のりんご娘・・、



津軽半島の核心部である・・?、半島中央部に「金木町」が在る。

金木町(かなぎまち)は、津軽三味線の発祥地でもあり、又、一昔は「太宰治」、今は「吉幾三」の出身地としても知られる。 

津軽三味線は、津軽地方で誕生した三味線で、本来は津軽地方の民謡・「津軽じょんから」などの伴奏に用いられるはずだが、現代は、特に独奏を指して「津軽三味線」と呼ぶ場合も多いという。
撥(ばち)を叩きつけるように弾く打楽器的奏法と、テンポが速く、音数が多い楽曲に特徴があり、最近では吉田兄弟や上妻宏光らの若手奏者が、独奏主体あるいは競演による演奏スタイルが確立している。  


太宰 治(だざい おさむ)は1909年(明治42年)、県下有数の大地主である津島家に生まれている。
小説家・作家、本名、津島 修治、 著名な作品では「富嶽百景」「斜陽」「人間失格」などを書き、戦後の流行作家となった。 
自殺未遂を数回重ね、遂に1948年(昭和23年)、東京・玉川上水にて入水心中を果たしている。 
享年39歳、 若いね・・!。 

太宰自身は、生まれ故郷の金木町の事を次のように評している・・、
『私の生れた家には、誇るべき系図も何も無い。 どこからか流れて来て、この津軽の北端に土着した百姓が、私たちの祖先なのに違ひない。 私は、無智の食ふや食はずの貧農の子孫である。 私の家が多少でも青森県下に、名を知られ始めたのは、曾祖父惣助の時代からであつた』と書いている。 

惣助は、油売りの行商をしながら金貸しで身代を築いていったという。
更に、『金木は、私の生れた町である。津軽平野のほぼ中央に位置し、人口5、6千人の、これという特徴もないが、どこやら都会ふうにちょっと気取った町である。 善く言えば、水のように淡白であり、悪く言えば、底の浅い見栄坊の町ということになっているようである』・・と。



そして「吉幾三」である・・、

吉幾三は1952年(昭和27年)金木町に生まれている。 
本名は 「鎌田善人」(かまた よしひと)といい、演歌界では特異な存在で、演歌のシンガーソングライターとしてほとんどの曲を自ら作詞作曲している。 

普通、演歌の世界は作曲家や大御所歌手への弟子入りなど徒弟制度的な色合いが強く、歌手は「先生」や「師匠」からいい曲をもらえるのを「待つ」しかないと言われる。 その点、常に自作曲を歌う「吉」のような立場は例外的と言える。 
恩人で盟友と言える「千昌夫」に影響され、バブル経済期に莫大な投資を行い、バブル崩壊で大損害を被った・・と、自虐ネタを披露することも多い。 

酒豪としても有名で、「志村けんのバカ殿様」に出演するときは必ず、度数の高い酒を持参して志村けんと共に飲むのが恒例であったという。 「バカ殿」を困らせる数少ない人物でもあるとか。 
名曲『津軽平野』は、演歌好きの小生にとって十八番(おはこ)の一つでもある。 しみじみとしたメロディーで歌い易く、詩の内容も良い。

 

津軽平野』(昭和61年) 吉幾三 詞曲 唄 千昌夫

津軽平野に 雪降る頃はよ
親父ひとりで 出稼ぎ支度
春にゃかならず 親父は帰る
みやげいっぱい ぶらさげてよ
淋しくなるけど 馴れたや親父

十三湊は 西風強くて
夢もしばれる 吹雪の夜更け
ふるなふるなよ 津軽の雪よ
春が今年も 遅くなるよ
ストーブ列車よ 逢いたや親父



「水森かおり」の歌でも知られるようになったJR五能線・五所川原駅で津軽鉄道に乗り換え、20分ほど電車に揺られると「金木駅」に着く。 

「津軽鉄道」は、冬はストーブ列車、夏は風鈴列車、秋は鈴虫列車と、風情を生かした特色ある列車を運行しているので知られる。


次回、市浦・「十三湖」




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2009年11月24日火曜日

日本周遊紀行(26)鯵ヶ沢 「鯵ヶ沢と津軽氏」

日本周遊紀行(26)鯵ヶ沢 「鯵ヶ沢と津軽氏」


日本海に出ベソのように突き出た半島を黄金崎といい、別名・舮作崎というらしい、難解な読みで(へなしざき)というらしい。 
この岬には有名な「黄金崎不老ふ死温泉」があるが、こちらは別項「温泉と観光」で述べたい。


夕日の町「深浦」の湾曲した入江を左にまわりこみながら更に北上する。
時折、日本海の美しい海岸を見ながら、やがて津軽半島の付け根に当たる鯵ヶ沢に着いた。 

港の周辺は、うらぶれた家並みが海岸伝いに続く。  
鯵ヶ沢」は一見、古い町並みが軒を連ねる北国の寂れた街、という感じであるが。しかし、鰺ヶ沢は今でこそ普通の港町、漁港であるが、往時は大隆盛を極めたという。

江戸期、津軽藩の城下町・弘前と並ぶ代表的な町としてその名を馳せた。特に御用港として北前船(きたまえぶね)の寄港地であり、 北は北海道から西は日本海の諸港を結び、関門海、瀬戸内海から大阪まで至り、交易港としての一世一時代を成した。

鯵ヶ沢は、「商船70艘、御役船60艘、合わせて130艘」などと古書にも記されている。 

しかし、明治期には青森港の発展、鉄道の普及などによって次第に港の勢いが衰え、後期になると交易港としての役目は終わったようである。 
だが、大正期にはニシンの豊漁もあり、漁業の町として一旦、繁栄を取り戻したようだが。


縄文期のころ・・、

鯵ヶ沢町では、ほぼ全域から縄文時代の遺跡、遺物が発掘されているという。
しかも、縄文の前・中・後期と層をなして出土している一帯もあることから、縄文時代から長く人々が暮らしていたものと考えられている。 
すぐ近くの青森の「三内丸山遺跡」は余りにも有名になったが、いずれにしても津軽、陸奥地方は古代「縄文王国」が在ったことは確かなのである。
(「三内丸山」の項で、更に「津軽と縄文」について記したい。)


時代は大きく下って、15世紀の足利・室町時代・・、

南部氏(平安末期、甲斐出身の南部光行が初代)が、現在の青森県から岩手県にかけての支配していた頃、南部氏の一族であった「為信」(南部・久慈氏といわれるが)が大浦城(岩木町、弘前より西へ5km程)の大浦氏に婿養子となって移り、大浦家の後を継いでいる。

その後、為信は本家・南部家の内紛の間隙を縫って、たくみに津軽全体の支配に成功したといわれる。
津軽全域の支配が完成したころから、「大浦氏」をやめ「津軽氏」と名を改めている。


ところで、近世を通じて、津軽藩と南部藩は非常に仲が悪かったと言われる。(今でもそうらし・・?。)それは、津軽氏の前身大浦氏が、本家南部氏に“弓を引いて”独立したことが原因らしい。

しかし、一般にいわれるように、大浦氏=津軽氏の独立は南部氏に対する謀叛とか反逆とかと云うものではなく、元来、津軽地方における領土権は未だ不確定だった時であり、南部氏が領有化したのはきわめて正当なであったともいう・・?。
為信は、安藤氏(後述する)に対する西海岸一帯の守りのために、赤石川の中流域の種里城に入る。  
このことが、鰺ヶ沢湊の発展の礎となる。


為信は、豊臣秀吉の小田原参陣によって津軽領有地の本領を秀吉から安堵され、更に後の家康に仕えて近世大名として生き残ることになるが、為信はその頃、津軽の本拠を「弘前」に置いて町造りに精を出す。
更に、「関ヶ原の合戦」においては軍功を挙げ、4万5千石の弘前城の津軽藩・初代城主となっている。 

江戸時代に入り、「鯵ヶ沢」は津軽藩の御用港として全盛期を迎えるのである。 
鯵ヶ沢で、今も盆踊りのとき唄われる「鯵ヶ沢くどき」や「鯵ヶ沢甚句」は、このころ船乗りたちによって伝えられたものだといわれる。 

『鯵ヶ沢甚句』  青森県民謡
西の八幡港を守る       鯵ヶ沢育ちで色こそ黒いが
主の留守居は         味は大和の
ノオ嬶ァが守る         ノオ吊し柿
ソリャ妊ァ守る         ソリャ吊し柿
留守居はノオ妊ァ守る    大和のノオ吊し柿
    ヤァトセ、ヤァトセ 

何やら歌詞が意味シンの部分もあるようだが・・?、


時代は更に、古代・平安期まで遡ります。  
 「岩木山」の東、弘前の北、津軽平野の中央に位置する「藤崎町」は、「前九年の役」の厨川(くりやがわ)の合戦で敗れた安倍貞任(あべさだとう)の次男・高星丸(たかあきまる)が逃れた地とも言われる。

紀元後の有史以来、津軽地方は奈良、平安中期頃までは華々しい歴史上の表舞台には登場していない。
その頃の陸奥、出羽は蝦夷(エミシ)の地であって、後に大和朝廷の支配に属するまでは。 

九世紀頃の平安初期になって、東北蝦夷は概ね大和朝廷(坂上田村麻呂)により平定されるが、朝廷に帰服した陸奥・俘囚(ふしゅう)の長であった安倍氏の威令が津軽地方に及んだ後、歴史の表舞台に登場することになる。

「俘囚」とは、朝廷の支配下に入り、一般農民の生活に同化した豪族、豪民のことであるが・・、俘囚長と称した安倍氏 、俘囚主を称した清原氏、俘囚上頭を称した奥州藤原氏などがこの地方に勢威を張り、権勢を振るうようになる。 
即ち、安倍氏から藤原氏への変遷は奥州の役と言われる「前九年の役」、「後三年の役」の後のことである。


この騒乱に敗れた安倍氏の子息が津軽に落ち延び、安藤高星(あんどうたかあき:後に安東と名乗る)と名乗って、やがて代々津軽地方を領する豪族に成長してゆく。 

安東氏は、鎌倉期から津軽地方の支配を認められ、北条氏(鎌倉執権)を通じて鎌倉幕府の支配下にも組み込まれていった。 
その後、鎌倉時代から南北朝時代を通し津軽・十三湊を本拠地とし栄えることになる。

安東氏の支配地は、内陸部から得る利益は少なかったが、日本海に大きな交易網を形成しており、それによって巨万の富を得ることで栄えた「海の豪族」と称された。 
さらにその勢力は津軽海峡を跨いで蝦夷地にまで及び、安藤康季は奥州十三湊・日之本将軍と称し、天皇もその呼称を認めていたということが知られている。 「津軽地方」が大きく飛躍した時代であった。 

次回、そして話は十三湖・十三湊へ。



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2009年11月23日月曜日

日本周遊紀行(25)岩崎村 「世界遺産・白神山地」

概ね、日本の自然風土、歴史文化に触れることが出来た。
今回、特に印象に残った地方、地域の「歴史的側面」や温泉、絶景地等を
ピックアップして、当サイトに紹介致します。


神奈川県厚木市を出発して、以下の順に巡りました。

『東日本編』: :行程・・・神奈川県(出発地)→山梨県→長野県→新潟県→山形県→秋田県→青森県→北海道一周(時計回り)→青森県→岩手県→宮城県→福島県→茨城県→千葉県→東京→神奈川帰着


日本周遊紀行(25) 岩崎村・「世界遺産 白神山地」
 
能代より海岸沿いの国道101号線を北上すると、間もなく「是より青森県」の標識が有った。
そして、白神山地の山襞(やまひだ)が海岸まで迫出している。 

日本海より競り上がり、延々と続く山並みの「白神山地」は、平成5年(1993年)「屋久島」と共に、世界遺産(自然遺産)に登録された。
「世界自然遺産」登録地域は、中央部の核心地域と周辺の緩衝地域に分かれ、これらの地域は世界遺産登録時より以降は開発を行わず、現状のまま保護される事になっている。


「白神山地」の特徴は、殆どが「ブナ林」に覆われていることである。

白神山地には人間活動の影響をほとんど受けていない源流域が集中し、世界最大級といわれるブナ林が広域に渡って、ほぼ原生そのままの姿で残されている。
そのブナ林内には多種多様な植物群が共存し、それに依存する多くの動物群が育まれ、自然の生態系がありのままの姿で息づいている。

山地は、名勝地のような美しい高山植物や雄大な景色を眺められる場所はあまり多くはなく、市街地のそばにあるようなブナ林が巨大化したものと考えるのが妥当である。
世界遺産の登録は、観光地であるからではなく、このような広大な原生林が世界的に珍しいためなのである。


「世界遺産」とは、1972年のユネスコ総会で採択された「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」(世界遺産条約)に基づいて、世界遺産リストに登録された遺跡や景観そして自然などである。 
人類が共有すべき普遍的な価値をもつものを指し、文化遺産と自然遺産及び文化と自然の複合遺産の3つに大別される。 

なお、白神山地は、文化遺産である法隆寺地域の仏教建造物、姫路城、屋久島とともに、日本で最初に世界遺産として登録されている。
世界遺産・白神山地の詳細は下記、「日本の世界遺産」をどうぞ・・!!
日本の世界遺産


ところで、白神山地を構成する自然林、原生林である「ブナ」について・・、
「ブナ」(山毛欅、木片に無・「橅」と書く場合もある)とは、ブナ科ブナ属の木で落葉広葉樹、温帯性落葉広葉の樹林を構成するとあり、椎茸栽培以外にはあまり役に立たない木であったために伐採を免れたとも言われる。

ブナは沢山の小さな実を付けるために、果樹と同様に寿命がさほどでもなく、平均寿命は200年ほどであるとも言われている。
自然に放置して倒れたブナは、他の樹木や生物の生存に欠かせない栄養分を供給する。 

「白神山地」のブナの原生林は樹齢の若いもの、大木、老木、倒壊し朽ちたものまであらゆる世代が見られるが、400年以上のものも確認されているという。

ブナの樹皮には地衣類やコケ植物が付着生育している。
それは樹皮が剥がれ落ちないというブナの性質による要因も大きいが、幹を雨水が流れ落ちることも関係が深い。降雨時にブナ林を歩くと、幹に勢いよく雨水が集まって流れているのに驚かされる。
ブナの樹形は、水を集めるようにできているらしい。

このような幹を伝う流れを「樹幹流」といい、この樹幹流は単に雨水が集まって流れているのではなく、栄養分が多く含まれているのである。 
それはブナの樹幹が、水に養われる地衣類(菌類と藻類との共生体)やコケ植物の生活場所となっているためである。
 
ブナの樹幹を伝わって流れてきた水は、ブナの根元で地中に吸い込まれ、地表を流れる水は見えなくなってしまう、地面に吸い込まれていくのである。 
ブナ林の土壌は豊かであり、黒い土の中にまるでスポンジに吸い込まれていくように雨水が吸い込まれていく、一般にこれらの土壌を「腐葉土」という。


ブナ林の発達する冷温帯は、夏の間は結構気温が高いので植物の生産性は高い。 
しかし、暖温帯に比べて有機物の分解速度は遅く、差し引きとしての有機物の蓄積度は最も多い地域である。 
この厚く積もった有機物を多量に含む土壌が大量の水分をため込むことができるのである。 無論、土壌動物もたくさん生息しており、土壌構成を良好なものにしている。 

ブナ林は「緑のダム」とも呼ばれるが、それは地上部の植物部ではなく、ブナの作り出した豊かな土壌が雨水をため込むのである。




十二湖の「八景池」と玉池

五能線に、「十二湖」という小屋風の無人駅が有る。 そして、海岸に沿うR101の道路標識は、十二湖方面を指している。
十二湖は、世界遺産・白神山地の海岸に近い一角を占めている。
標識より2~3km内陸へ向かうと直ぐに十二湖が現れ、そこはすでに深山幽谷の世界であった。

「十二湖」は江戸時代・宝永元年(1704年)この地を襲った 大地震によって沢が堰き止められ、地盤が陥没して形成されたといわれている。
その時できた湖沼は33を数えたが、「崩山」の頂上から眺めると、小さい池は森の中に隠れ、大きな池だけが12個見えたことから、「十二湖」といわれるようになたという。

十二湖は、広大な森が本来の姿のまま保護され、植物の種類の豊富さは全国的にも稀な地域といわれる。 
近隣にはブナ林が密集し、それらの水分の含有量が多いため、自然の造った水桶あるいはダム、しかも自然の浄化装置を持つ、水質の良い水が各所で湧き出している。 
湖の総数は約30以上在り、それぞれ透明度は高いという。

因みに、「十三湖」というのが、この先津軽半島の市浦村にあるが、あちらは湖の数とは無縁のようであるが、これから訪れる予定である。

白神山地をはじめ日本の世界遺産は下記
日本の世界遺産

次回は、津軽・「鯵ヶ沢」


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2009年11月21日土曜日

日本周遊紀行(24)  能代・「能代駅と水運」


大都市のわりには、こじんまりした能代駅舎(五能線)



日本周遊紀行(24)  能代・「能代駅と水運」


大潟村から能代へ至った、序に駅舎の様子を窺った。 
秋田を代表する大都市・・?のわりには、JR能代駅の駅舎は1階建てのこじんまりしたもんであった。
時刻表を見ると、能代駅というのは奥羽本線ではなく「五能線」であることに気がついたのである。 

秋田県北部にある比較的大きな街というイメージの「能代」ことだから奥羽本線沿線の街かと思ったが、そうではなかった、隣駅の東能代駅が奥羽本線なのである。


奥羽本線は、福島駅から山形駅、秋田駅を経由して青森駅に至る路線で、東北本線に対比してそれより西側の主要都市を結ぶ幹線のはずである。
本線建設は、明治中期の1894年北の青森~弘前間が先ず開通している。 次に南部の福島~米沢間が開通して、その後、順次北と南から工事が進められ、1905年に全線開通している。

その能代であるが本来、奥羽本線は能代市街地を通すはずであった。
しかし、何故か地元民に反対されてしまい結局、地の利もあって本線は「東能代駅」のみに落ち着いたらしい。 
奥羽本線の東能代は1902年に開通し、そして、能代駅は少し遅れて1908年に能代~東能代間の一駅区間が貨物取り扱いとして能代線、言わば本線の「盲腸線」として開業したのである。 
奥羽本線の青森、福島の間は日に10数本の特急列車が往来しているのに、「能代駅」は特急には無縁の駅なのである。 ただ、能代・東能代間は特別に輸送頻度は多いという。


「奥羽本線には能代駅がない」・・!、
そう、能代市街地の能代駅とは、幹線鉄道・奥羽本線の駅ではなく、いわゆる地方線である五能線の駅であった。 
能代から先の北へ向かう五能線ダイヤは極端にすくなくなり、これはまさに「盲腸線」の状態であった。


能代住民は何故、能代駅という本線駅建設を反対したのか・・?
能代は、米代川流域つまり「野の代」が転じて呼ばれたものであると考えられ、即ち水運により発展したのが「能代」の町であり、川との結びつきが強いのである。

能代市街の北部を、ゆったりと「米代川」が流れる。
奥羽山地の八幡平付近を水源とするが、米代川の語源は「米のとぎ汁のように白い川」と言われている。 
10世紀初頭の十和田湖火山が大噴火を起こし、その火山灰で白く濁った川の色を表現したとも言われているという。 

米代川流域には鉱山地帯が多く尾去沢鉱山、小坂鉱山、大葛鉱山、阿仁鉱山、太良鉱山などが在って、鉱山から出る鉱石は米代川での舟運で運ばれたという。 
鉱山は約1200年の歴史があり、かつ ては金・銀を産出し、近代では銅を産出していたともいう。
また、この地区は優れた材木の産地でもあり、これらも米代川を使って運ばれた。 特に、丸太を筏にして川に流す筏流しは1964年まで続いたという。

明治中期に、鉄道敷設の話が持ち上がったが、地元民というより米代川に携わる水運関係者が、利益流出のための生活権を考えての反対だったといわれる。
水運は、鉄道や道路の整備がすすむとともにしだいに衰退し、いまは往時の面影はない。


その「五能線」は、東能代駅と南津軽郡田舎館村にある川部駅を結ぶJR東日本の鉄道路線である。
殆どが白神山地の西部、日本海沿岸を走るローカル線である。

歴史的には、南部地区は1908年に開業した能代の能代線より始まり、北部地区の青森県側においても、1918年、私鉄の陸奥鉄道が奥羽本線に連絡する川部~五所川原間に開業したのをきっかけに、順次延長されていった。 
昭和大恐慌の影響で、建設が一時スローダウンしたものの、1936年の陸奥岩崎~深浦間を最後に全通し、「五能線」と改称されている。

全通開通した五能線であるが・・、
岩館駅~北金ヶ沢駅間は海沿いを走るため、吹雪や強風、高波で運休することがシバシバ発生する。
このことから地元の人々は、「不能線」、「無能線」とか云って、有り難くないあだ名が付けられているという。
又、臨時列車を除けば岩館駅~鰺ヶ沢駅間では5~7時間も運行されない時間帯もあるとか。


ところで、ご当地ソングの女王と言われる「水森かおり」が、所謂、ご当地の『五能線』を唄っている。 
御蔭さまと言おうか・・!、
五能線の秋田-青森を走っている快速電車「リゾートしらかみ」について、それ以来の年間乗客数が倍増したという。 
JR東日本・秋田の関係者は「水森さんに唄ってもらって、五能線が全国区になった」と喜んでいるようである。


序ながら・・、

能代といえば、元バスケ選手(中学時代)であった小生にとって能代工業高校のバスケットボールでの活躍が思い起こされる。
特に、日本人初のNBAプレーヤーである「田臥 勇太」(たぶせ ゆうた)である。 

小生同県の神奈川県出身で、ポジションはポイントガード、身長1m73cm、体重75kg、靴のサイズ29cmと、小柄で小生と余り変わらない。


小さな体で大きな選手をすり抜けるスピード、類い稀なパスセンス、視野の広さとジャンプシュートがプレイの特徴で、日本人で初めて世界ジュニア選抜に選ばれるなど、日本人では抜きん出た実力の持ち主である。
速さという点だけで言えばNBAでも通用するレベルであるのは確かであった。

小学校2年生からバスケットボールを始め、神奈川県大道中学校では全国3位の成績を修めた。
名門・能代工業高校で入学後即スタメンとなり、3年連続で高校総体、国体、全国高校選抜の三大タイトルを制し、史上初の「九冠」を達成した。 
公式戦で敗れたのは、1年生の時の東北大会で仙台高校に敗れたわずか1回のみであるというから驚きである。


能代工業高校男子バスケットボール部は、史上初の三年連続三冠(インターハイ、国体、選抜大会)を獲得し、三冠獲得は9回目、その他にも全国優勝、連続優勝など、全国大会で50回を越える優勝を成し遂げている強豪である。 
「田臥」時代が全盛と言うのではなく、「歴史と伝統と指導」で稀に見る成績を残しているのである。 

尤も、能代市そのものが、特に、1989年度(平成元年度)以来から、バスケの街づくり事業に取り組んでいるので、地域性も含めねばなるまい。 

籠球王国・能代バンザイ・・!である。



次回は、岩崎村・「白神山地」

2009年11月20日金曜日

日本周遊紀行(23)大潟村 「八郎潟干拓」(2)

日本周遊紀行(23)大潟村 「八郎潟干拓」(2)


八郎潟干拓について・・、

元々の八郎潟は、東西12キロ、南北27キロ、水深はきわめて浅く、最深4・7m、平均水深3m程度であった。
その湖底のほとんどは軟弱粘土におおわれ、最も深いところでは何と50mにも及んでいたという。

八郎潟の干拓計画は、世界の最新土木技術を導入して「ヘドロ」と呼ばれる超軟弱地盤の上に新生の大地を作り上げようと言う計画であり、その広さは、東京都で言えば国鉄の山手線に囲まれた区域の約三倍にも及ぶ面積であり凡人からみれば、とてつもない計画であった。

ところで・・、

八郎潟の開発計画は古くから立案、計画されてきたという。
江戸安政年間(1854年~1860年)払戸村(現在の男鹿市払戸)の渡部斧松による「八郎潟疎水案」に始まり、その後、大正期(13年)、(昭和16年、23年)と計画されたものの財政、その他の事情により、やはり実現することはなかった。

しかし八郎潟開発の構想はその後も消え去ることなく、昭和29年(1954年)にオランダのヤンセン教授等が来日、それを契機昭和32年ついに着工の運びとなった。
そして足かけ20年、総事業費約852億円の巨費を投じた世紀の大事業は、昭和52年3月をもって全ての工事が完了した。

ヤンセン教授によるオランダの技術は、堤防の下5mぐらいまでのヘドロを全部取り除き、幅130mの砂床に置き換えるという大掛かりな工法で、日本の技術陣がついぞ克服できなかった軟弱地盤での築堤が、100%可能になったという。


因みに、「オランダ」という国は、ご存知の通りの低地の国で、国土の4分の1が海抜0メートル以下という。 
そして、風車の国である。
オランダでは最盛期に約九千基の風車があり、主として干拓の排水用として多く用いられたが、風車は、動力源としてその他にも粉挽き、水くみ、菜種油しぼり、製材など、幅広く活用されていたと。

更に風車のすぐれた技術は「造船」などにも応用され、やがて17世紀、オランダは世界の海を制して黄金時代を迎えることになる。

しかし、蒸気機関や電気などが発明されると、風車は建設されなくなり、現在は昔ながらの風車が千基ほど、文化財的に保存されているという。


オランダ第二の都市ロッテルダムの南東10キロの地に「キンデルダイク」というところがある。
平原と運河のこの村には、19基の風車群がずらりと並び、18世紀の美しい風景をそのままに残しているという。
キンデルダイクの長閑な風車群の絶景は、ただ美しいだけにとどまらず、オランダが国土を確保・拡大し、大繁栄を遂げた歴史の象徴として、「世界遺産」にも登録されている。


さて、日本では・・、八郎潟では・・、

この壮大な未知への挑戦に、技術者たちは燃えた・・!!。
だが自然は、彼等をそのまま受け入れてはくれなかった。
悪いことに工事途中で青森県西方沖地震、新潟地震、十勝沖地震と立て続けに大きな地震に見まわれているのである。 
知恵と汗と涙の結晶である堤防に、亀裂や地盤沈下が入ったのであり、その原因は最も恐れていた堤防下部の「砂の流動化現象」によるものであったという。

苦闘の歴史に終止符をうった後は・・、
干拓に携わった人々の回顧録の主題には「崩れ落ちた自信」、「不敵な挑戦」、「冷汗、油汗」、「血を吐き骨を削る苦労」、「責任の重大さに天を仰ぐ」等などと記されているという。
それだけに湖底が、新生の大地に生まれ変わった当初、干拓工事に携わった全ての人々は万感迫るものがあったに違いない。


オランダのヤンセン博士は、日本の技術陣の能力を誉め上げている。
日本の土木技術の質の良さは、高額の費用を払って私を招く必要はなかった程である。なぜ日本は私らを招いたか真意がわからない」といったという。
この謙虚さが日本人技術者の心証をどれほどよくしたか計り知れないとも言われる。 


次回は、「能代」です。


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2009年11月19日木曜日

日本周遊紀行(23) 大潟村・「八郎潟」(1)


八郎潟の干拓前後(秋田農政局)


日本周遊紀行(23) 大潟村・「八郎潟」(1)


日本最大の干拓地で、地域名を「大潟村」と称している。 

大潟村は、田畑と集落地が分かれており、そこに、ユーモラスな日本一低い山・・ 「大潟富士」がある。高さ3.776mで、無論「三千・・」でなく「三点・・」である・・。
ただ、頂上が海抜ゼロmという貴重な・・?山でもある。
因みに、国土地理院の話では、「現状の小さく造られた山では、山とは認定できない。山とは歴史的認知度・・?も必要だ」とのことらしい。

村の全域が、かつて日本の湖で二番目の面積を誇った八郎潟で、昭和の干拓によって出来上がった人工の土地である。 
合併・分割などで新設されたのではなく、純粋に新しく造られた自治体としては日本最初で、そして最後であろう・・?、
大潟村の誕生は昭和39年10月で、歴史も40年程度しかない。 
村は、山手線よりも二周りほど大きいらしい・・。 

地域的にもキリがよく、北緯40度と東経140度の交点でもあり、日本でも緯経線が十度単位での交点がある地域はここだけであるらしい。    


湖(八郎潟)の中に堤防を造り、堤防で囲まれた中の湖水の排水場から、ポンプで掻き出し(干拓)てできた村である。 
土地は元々、湖の底だったところなので、その殆どが平らで村全体が海面より低く、もっとも低い所では約4~5メ―トルも低くなっているという。
つまり海抜マイナス5mの村である。

そのための周囲は堤防で囲み、村の中に水が入らないようにする大切な役目をしている。 
村の土地の約7割は、田や畑で、あとの3割は道路や水路や集落地となっていて、田畑は集落地の北側、東側、南側に広がっている。 


ここで、「エピソード」を1つ・・、

八郎潟の干拓が始まって初まってからの最初の入植者は、おそらく「ネズミ」だったと云われる。
野ネズミやどぶネズミで、それも、猫も逃げ出すほどの大きさであったそうな・・!!。
このネズミらに、農業を始めたばかりの大潟村では、それは頭を痛めていたという。

そこで思いついたのがイタチであった、
イタチはネズミの天敵で、昭和43年頃奄美大島から58匹のイタチが空輸された。
今度は、イタチの入植が始まったのである。

お蔭で“ねずみ算式”に増えたネズミは、イタチのためにグッと少なくなったといわれる。

巷間人が、「次にイタチが増えすぎたらどうするの?、イタチの天敵捜さなくちゃー。これがホントの『いたちごっこ』だね」と・・、
しかし、実際イタチが増えすぎることはなかったという。

今でも、奄美大島出身の子孫イタチが、運が良ければお目に掛かれる時もあるという。

次回は、八郎潟干拓について・・PartⅡ


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2009年11月18日水曜日

日本周遊紀行(22)男鹿 「なまはげ」


真山山頂付近に鎮座する赤神神社の「五社堂」




日本周遊紀行(22)男鹿 「なまはげ」


「999」の石段と五社堂の縁起伝説について・・、

昔、漢の武帝が五匹のコウモリを従えて男鹿にやってきた、コウモリは男鹿で五匹の鬼に変わった。
武帝は五匹の鬼たちを家来として使ったが、一年に一度だけ正月に休みを与えた。 
鬼たちは大喜びして里へ降り、畑作物や家畜を奪って大暴れし、しまいには娘まで浚(さらって)ってくるようになった。
困ってしまった村人は、鬼に賭けを申し入れる。 


あの山のてっぺんまで、一夜のうちに1000段の石段を築けば、一年に一人ずつ娘を差し上げる。だが、それができなければ、二度と里へ降りて来ないと約束してほしい」・・と。

鬼たちは、日の暮れるのを待って、さっそく石段造りに取り掛かった。
遠く離れた「寒風山」から空を飛ぶようにして石を運び、あれよあれよという間に石段を築いていった。
これに驚いた村人は、物まねのうまい「天邪鬼・アマノジャク」に鶏の鳴き声を頼んだ。 

999段を積み終え、あと一段というところで、アマノジャクが「コケコッコー」と叫んだ。 鬼たちは一番鶏が鳴いたことにびっくりし、約束どおり山の奥深くへと立ち去って行ったという。 

鬼が来なくなって、何か寂しい気持ちになった村人たちは年に一度、正月15日に、鬼の真似をして村中を回り歩くようになったという。 

これが「なまはげ」の始まりだともいう。


ここまでは民話風の空想伝記物語であるが、現実的な二番目の伝説について・・、

古く大陸の国の人々を見る機会のほとんどない時代、漂流民のように男鹿半島の海岸にたどり着いた異国人を「なまはげ」としたのではないか、というものである。 
大身肥満でしかも紅毛碧眼(こうもうへきがん)の異邦人は村人にとって、まさに、「なまはげ」に見えたというのであろう。 

それに彼らがもっていた技術や知識によって驚異的な石段作りが成し遂げられたといい、滑車や特殊な綱によるものであったとする伝えがある。

三番目には男鹿の真山、本山は古くからの修験道の霊場として知られていたことから、修験者は修業姿のまま里に下り、門付け祈祷をして回った。
修業の間の凄(すさま)じい形相や山中の修業後の姿などを「なまはげ」としてみたのが始まりともいうのである。

「なまはげ」の伝承、伝説については他にもあるようだ。



明治後半から戦前にかけて、ナマハゲ役は未婚の若者であった。 
役に当たった若者は,まず神社を参拝してお祓いをしてもらい、そして風呂に入って身を清め、肉、ネギ、ニンニクを断ち、つまり精進潔斎(しょうじんけっさい:肉食を絶つなどして身をきよめること)に勤めると。

現在、一般的に言われるナマハゲは・、
山の神様や正月の歳神様の化身といわれている。

大晦日の晩、赤と青の恐い仮面をかぶり、身には藁で編んだミノをまとい、大きな声で「泣く子はいねが、怠け者はいねが」と家中を探し廻ります。その荒々しさによって家の悪霊や災禍を祓い清めるといわれている。

又、ナマハゲは、お田植祭などに参加した子供たちに「食べ物を粗末にしないように」、「両親の言いつけをよく守るように」と約束させる場面の先導役ともなる。

ナマハゲは、人々を戒める役割を持つと同時に、春の到来を告げ、その年の実りをもたらす神様でもある。


次回は、「大潟村」



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2009年11月16日月曜日

日本周遊紀行(21)秋田 「佐竹氏とおばこ」


佐竹氏の居城・久保田城は城址として千秋(せんしゅう)公園内にあり、現在は、本丸の正面に「一ノ門」が復元されている。(幕府・徳川氏に遠慮して天守閣は造らなかったという)



日本周遊紀行(21)秋田 「佐竹氏とおばこ」


「秋田」については、前述したが開祖は佐竹氏である。

その佐竹氏について・・、

源氏の清和天皇を祖にする新羅三郎義光(兄は奥州の変=前九年の役=で奥州へ遠征した八幡太郎義家)は平安後期の勇猛武者であった。 義光は知謀に富み、武勇に優れ「京」の都の中央官職として任務に当っていた。
その長男「源義業」(みなもとよしなり)に佐竹郷(現在の茨城県常陸太田市)を配して、義業は佐竹と称していた。 
その後、源氏の威光を持つ佐竹氏は治政(治世)、軍政を盛んにして、ついに常陸全域から会津地方、現在の福島南部も手に入れ、全国でも有数の大名に成長してゆく。 

戦国期、秀吉の「小田原攻め」(小田原・北条氏政)の時、佐竹義宣はこれに参戦、後に秀吉から54万石の朱印状を貰い、更に加増されて佐竹家一族は80万石の大大名となった。 しかし豊臣秀吉死後、徳川家康が頭角を現し、「関ヶ原合戦」へと時は流れてゆく。

1600年、家康と石田三成らの豊臣方の軍とで関ヶ原で、全国のほとんどの大名が徳川方(東軍)と豊臣方(西軍)に分れて戦った。

秀吉から54万石の大封を戴き、子飼(こが)いの石田三成などとも親交があり、その恩義を忘れ去ることは出来ない。さりとて先見の明ある義宣には、東軍・家康の勝利に終わることが必定(ひつじょう)と認識していたらしく結局、義宣は天下を分けた関ヶ原の戦いにも逡巡の末、あえて鳴かず飛ばずの態度で終止したといわれる。

その後の家康の文書には「上杉、島津、佐竹は敵」と書き残っている。
結局、関ヶ原が終わってから2年半以上も経ってから「秋田転封」が決せられるのである。 家康の「佐竹義宣」評を 「今の世に佐竹義宣ほどの律儀なものは見たことが無い、しかし、あまり律儀過ぎても困ったものだ」 と言わしめたという。

国替えの命を受けた義宣は、禄高不明と先行き不安のなかで、最小限の家臣を随行し、慶長7年(1602)、出羽の国に到着したという。 
天下を分けた関ヶ原で不覚をとり、心機一転して悲壮感のこもる義宣の秋田の国づくりが開始されたのである。


秋田は古くから米どころとして名高く、「秋田こまち」で知られる。
又、美味しいお酒の産地としても知られている。 だがなんと言っても、秋田と言えば「秋田おばこ」と言うくらい、美人が多いことでも有名である。 

小生の知ってる秋田出身の美人の中でも「藤 あや子」は代表格と思える、ポッチャリした瓜実(うりざね)、こけしの様な丸顔で、何より色が透き通るように白く、いわゆる餅肌である。 一般に、秋田美人は、鼻の尖った研ぎ澄まされたような顔ではないようだ・・?。



「秋田音頭」に・・、

秋田のおなご、なんしてきれだと聞くだけ野暮だんす、小野小町の生まれ在所、おめはん知らねのげ』 と歌われている。 
小野小町は秋田美人の祖である。
 
小野小町は平安時代の伝説の歌人であり、その美貌はクレオパトラ,楊貴妃とならんで,世界三大美人といわれる。
小野小町は県南 雄勝郡雄勝町福富桐の木田(現在の雄勝町小野字桐木田)で生まれたと言われている。 父は出羽の国の郡司として京から赴任してきた小野良実,母は土地の豪族の娘・大町子とされている。 
二人の間に生まれた娘は「小町」と名付けられた。

福富の荘はいつしか「小野の里」と呼ばれるようになったという。 このようなことから,当地は小野小町の出たところ「小町の郷(さと)」として,全国的に有名になり,今なお,小野小町はこの地に息づいている。



秋田美人、秋田おばこ」と言われるには俗説、通説があるようだが、確説はないとされる。 しかし、これら総合したものが秋田美人と言われる所以かも知れない、「秋田美人のウェブサイト」もあるくらいである。

常陸の国(茨城)は、京との繋がりも深く古来美人の国だった。 
それが、佐竹氏が徳川家康により、常陸から出羽国秋田へ国替えになったとき、佐竹氏を慕って常陸の国中の美人という美人が秋田へ行ってしまったという。
それ以後、秋田が美人の国になり、常陸の国はカスばかりになってしまったという、これは俗説であろう。



些か時代調になるが・・、

東北が西日本の大和政権に屈服、征服される前までは、東北は「内なる外国」として位置づけられていた。 そこでは独自の文化が存在し、そして大和政権に抵抗し続けた蝦夷・エミシを中心とする国家が形成されていた。

西日本は弥生人系、つまり渡来系で中国、朝鮮半島の人種で、どちらかというと黄色系の顔立ちである。 
対して東北人は縄文人系の顔立ちが多いと言われ、その蝦夷の原点は縄文人なのであり、古来より大陸系と繋がりが多い。 一部ではユーラシア北部の民族が北日本日本海側に移住し、混血したためとも言われる。 

元々、縄文人は魚貝草種を主食とし、季節的にも雪の多い風土であり、こんな縄文的風土が色白で、きめ細かい肌の「秋田おばこ」(秋田小町、秋田美人)を多く育くんだ、という説は説得力がある。


田沢湖畔に伝説の美女の「辰子姫の像」が立っている。

辰子姫は秋田美人の代表とされ、秋田出身の文章家の野口達二氏は、喩えて『 ふさふさした黒髪は,黒鳥の濡れ羽のように艶やかであった。つぶらな瞳は,うるおいがあって碧い湖のような神秘な光を底にたたえていた。すうっと通った鼻筋は,雪をいただいた白くたおやかな峰のように人を引き付ける気品さがあった。また,桜の花びらのような唇は,愛らしく,なんとも魅惑的であった。そして餅のような肌は,なめらかで,透き通るように白かった。 』 と美文で描いている。

田沢湖に立つ「辰子像」のイメージである透き通るような白い肌は、老女になっても変わらないのである。



秋田音頭』 秋田県民謡

コラ秋田音頭です
いずれこれより御免なこうむり音頭の無駄を言う
あたりさわりもあろうけれども
サッサと出しかける

コラ妻君ある御人
秋田に来るなら心コ固く持て
小野小町の生まれ在所
美人がうようよだ

コラ秋田の女ご
何してきれいだと聞くだけ野暮だんす
小野小町の生まれ在所
お前(め)はん知らねのげ


次回は「男鹿」

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2009年11月14日土曜日

日本周遊紀行(20)岩城 「亀田地区」


新装成った亀田地区、「天鷺村の天鷺城」


日本周遊紀行(20)岩城 「亀田地区」


秋田の南、小京都と言われる亀田地区がある。 

克っては、亀田藩二万石の城下町であり、近年、歴史と浪漫を語る天鷺村(あまさぎむら)や亀田城が真新しく復元されている。
江戸期の頃まで亀田城のあった高城山は、かっての平安初期の西暦800年頃には「天鷺速男」という豪族が居を構えていたといわれる。
最近、この豪族の名をあてて新装なった城域を「天鷺村・天鷺城」と命名していて、観光的史跡名所としているらしい。 


保存伝承の里とされる「天鷺村」のシンボル・天鷺城は、高さ22m、天守閣から望む景観は遠くに日本海、そして股下に旧城下町の情景が広がる。 城郭の周辺は真新しい武家屋敷をはじめ士農工商の家屋が立ち並んで壮観である。 
又、新装・亀田城様式はその少し山の上にあり、当時の陣屋を忠実に復元したものであるという。 城内には美術館などがあるほか、広大な敷地内には日本庭園を眺めながら、古き良き日本文化を堪能ができるという。 

ただ何れも、復元された建物が余りの華麗さに歴史の遺産としての重みは感じられず、ただ単に観光的見世物にしか見えないのは残念である。 

「亀田」は、現在は由利郡岩城町の町域の一部であり、往時の歴史的中心地であったが、現在、行政上の中枢は沿岸部の内道川地区に移っている。


それにしても「岩城」という町名は、懐かしい地名であり、快い響きである。 

小生にとっては故郷、田舎である「いわき」に縁のある町名であることに、後日であるが気が付いたのであるが。
この亀田藩は、同地名である我が福島県の「いわき地方・岩城藩」と深いつながりが有ったのである。

その福島県「いわき」について、チョット述べてみよう・・、

平安後期に岩城氏が東北南部沿岸の「いわき地方」に勢力を得て、中心を「いわきの平(たいら)」とした。 それにしても「いわき」という、「ひらがな名称」は煩わしい。

「いわき」は、最も古くは古事記、日本書紀、陸奥風土記などには、和訓で「伊波岐」と記されているらしい。 古代から中世にかけては磐城とか岩城とも書くし、岩木とも書くことがあったらしいが、本来は石城(いわき)である。 「続日本紀」(平安初期の歴史書)には陸奥国石城郡と書かれている。 
そして昭和中期の頃まで福島県石城郡であった。 

昭和41年(1966)に周辺地域の五市が合併して新たに「いわき市」としたのである。 
何でも、ひらがな文字の地域行政「市」名としては、青森の「むつ市」についで2番目らしい。(昨今は「平成の大合併」で、増えつつあるようだが)

その岩城氏は、常陸・平氏 (ひたちへいし:武士の発生の大元と言われる常陸の平将門の同系)の血を汲む名族であり、その子孫が奥州石城に土着したことが岩城氏の始まりであると言われている。 又、石城国造(奈良初期の地域名)の末裔であるとも言われている。

鎌倉~室町時代には、源頼朝の奥州征伐にて、数々の功により、岩城氏の本領は安堵され最盛期を迎えることになる。
ところが岩城氏の戦国期は、小田原城攻めで豊臣秀吉方に味方し謁見して領土は安堵されが、秀吉没後の関ヶ原の戦いでは西軍の石田三成方に加担して敗れ、徳川家康に降伏した後、所領の磐城十二万石は除封され、お家は断絶となってしまう。

その後、家康に再興を嘆願した結果、大坂・夏の陣で本多正信等に従って従軍し、戦功を挙げたために、岩城吉隆(いわきよしたか)は信濃・川中島藩に一万石(信濃中村:現、長野・木島平という説もある)の所領を与えられ、大名格としての創設を許され復帰する。 
更に、川中島から出羽の国・亀田に転封(てんぷう)となって入部し、岩城亀田藩の初代藩主となっている。

初代藩主・岩城吉隆は、伯父・佐竹義宣(初代秋田藩主)に子供がなかったため、幸運にも養子に迎えられ、秋田藩52万石の第二代藩主となるのである。 その後に「佐竹義隆」と名を改めている。

岩城氏が現在の亀田に移ってきたのは、今から380数年前の江戸初期の元和9年(1623)、徳川家光(とくがわいえみつ)が三代将軍になった時期である。
この岩城地域、「岩城町」の町名は、この岩城氏に因んだ地名なのである。
更に、岩城氏の亀田藩は明治維新まで続いていたが、幕末・明治維新における「戊辰の役」で、官軍の手によって城域は焼かれている。

いわき地方出実の岩城氏は、この秋田の地で脈々と系統を受け継いでいたのであった。 


序ながら・・、
初代・岩城・亀田藩の二万石は「城」のない大名格であったが、江戸末期の嘉永5年(1852)になって、やっと城持・城主格の大名となっている。 
したがって、岩城吉隆が入部した当時のの藩の政庁は、小規模な「亀田陣屋」といわれるものであった。 
この初代藩主岩城吉隆は、後に大大名である秋田藩52万石・佐竹義宣の養子となり、2代目佐竹藩主・「佐竹義隆」となって大出世する。
元々、岩城氏と佐竹氏は隣国同士で(石城と常陸)、相克合い争う仲でもあり、はたまた、姻戚関係のある親密な間柄でもあった。 


こららが縁で岩城・亀田藩の2代目藩主・重隆(しげたか)、3代目藩主・秀隆(ひでたか)が佐竹家親戚からの藩主となって亀田藩を継ぐことになり、両藩との強い絆の縁戚関係が成立することになる。
ところが、その後の4代目岩城隆韶(たかつぐ)、5代目隆恭(たかよし)の二代は仙台藩・伊達家からの養子を受けて藩主となり、秋田藩・佐竹家よりも仙台藩・伊達家との関係が強まっていくことになる。 

これが元で江戸末期の動乱期には、微妙な影響を及ぼすことになる

明治の維新革命といわれる「戊辰戦争」においては、親藩である秋田藩は積年の徳川家の恨みを覚えつつ反徳川、つまり新政府軍(官軍)につくことになるが、亀田藩は、思惑や苦悩に苦しみながら仙台藩同様幕府軍に属することになる。 
結果は周知の如く薩摩軍、長州軍らの応援を得た秋田藩等の勢力の前に、亀田藩は敗れる。 直後の慶応4年9月に「明治」と改元され、同年9月21日には亀田城が焼き払われることになる。 
以上が岩城・亀田藩の顛末のようであった。

次回は、「秋田」




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2009年11月12日木曜日

日本周遊紀行(19)象潟 「芭蕉と象潟」



象潟:陸の松島と言われた田園風景
芭蕉碑と舟つなぎ石(写真下)


日本周遊紀行(19)象潟 「芭蕉と象潟」

出羽の国(古名で出羽の国は山形、秋田を指し、正確には「羽後」である)、秋田県に入りました。 

ここ象潟は芭蕉が訪れた最北の地でもあるが、元より、ここ象潟の地は芭蕉は訪れる予定はなかったらしい。 最上川から酒田へ出た時、「象潟はいい所だよ」と誰かに聞かされて、此処まで脚を延ばしたらしい・・キット!! 。 
そう言えば、ここは「陸の松島」とも言われた。


芭蕉がこの地を訪ねたのが元禄二年(1689)のこと。

当時は、象潟は「九十九島・八十八潟」といわれた景勝地であり、芭蕉も「東の松島 西の象潟」と評したほど景観随一の地であった。 
しかし、江戸末期には「松島は笑ふが如く、象潟は憾(うら)むが如し」と評されている。 

それは何故か・・?、

1804年、芭蕉が訪れた凡そ110年後、この地を大地震が襲ってきて象潟の美景は、土地の大変動によって大きく失われてしまったのである。

往時、芭蕉はこの地で次のような句を詠んでいる。


『 象潟や 雨に西施が ねぶの花 』

 「西施」(せいし)とは中国・春秋時代(紀元前5世紀頃、呉越の戦いの時代)の「越の国」の美女のことである。
越王・勾践(こうせん)が呉に敗れて後、西施が呉王・夫差(ふさ)の許に献ぜられ、夫差は「西施」の色に溺れて国を傾けるに至った・・、「傾城の美女」の起こりである。 

序に、呉と越は長年の宿敵同士であり、呉王は越を滅ぼすべく大軍を率いて攻め込んだ。  しかし、越の奇策によって大敗し、代わって太子の夫差が呉王として即位した。
夫差は、父を殺された恨みを忘れないために薪の上で寝るようにし、功臣の補佐を得て呉を建て直して、今度は、越に攻め込み越を滅亡寸前までに追い詰めた。
勾践は夫差に和を請い、夫差はこれを受け入れた。

勾践は、呉に赴き夫差の召し使いとして仕えることになったが、勾践はこのときの悔しさを忘れず、部屋に苦い肝(きも)を吊るして毎日のようにそれを舐めて呉に対する復讐を誓った。勾践のこの時の深謀遠慮を・・?、「臥薪嘗胆」という故事の元となったという逸話である。

ねぶの花」の合歓(ねぶ)の木は、日当たりのいい湿地を好んで自生する樹木で、夕方になると葉と葉をあわせて閉じ、睡眠をする。
眠(ねむ)の木とも言い、漢語では色っぽい、合歓という。「合歓」とは、男女が共寝をすることである。 
ねぶの花は、羽毛に似て白に淡く紅をふくんで、薄命の美女をおもわせる。 

芭蕉は、象潟というどこか悲しみを感じさせる水景に、「西施」の凄絶なうつくしさに憂いを思い、それを「ねぶの花」に託しつつ、合歓という漢語をつかい、歴史をうごかしたエロテイシズムを表現したともいわれる。 
芭蕉は、深い情感を以ってこの句を詠んでいる様で、同時に、芭蕉はこの時、一人身のやるせなさを句に託し、女性を想っていたに違いないともいう。

当時の「象潟」は、こんな気持ちが透き通るような風景の地であったのだ。



こんな「九十九島・八十八潟」と言われた象潟は、今から約2600年前、鳥海山の大規模な崩落によって流れ出た土砂が日本海に流れ込み、浅い海と多くの小さな島々が出来上がったという。 
やがて堆積作用の結果、浅海は砂丘によって仕切られて潟湖が出来たといわれ、そして小さな島々には松が生い茂り、松島の様な風光明媚な「象潟の風景」が出来上がったと言われる。
芭蕉は正にこの風景をみて感じ入ったのである。

ところが、今から200年前の文化元年(1804)に大地震が起こって、海底が2m40cmも隆起し潟の海水が失われて、水に覆われていた「潟」は陸地に変わってしまい、往年の美しい面影は失われてしまった。
残念ながら現代の私たちは、芭蕉が眺めた様な風景を観賞することはできず、つくづく200年前の地震が恨めしいのである。 

尤も、当時の人からしてみれば、突然地面が湧き上がり、新しく土地が出来上がった事で、稲穂の実る水田となり、米作を作れるようになったのであるから、喜ばしいことだったには違いない。


現在は陸地になり、水田の中に元々島であった小山が点々と存在するような場所となり、美しい島々の姿が、古様(いにしえ)を偲ばせてくれる。
これが「陸の松島」と言われる由縁(ゆえん)である。

その後、干拓事業による水田開発の波に飲まれ、歴史的な景勝地(松が茂る島々)は消されようとしていたが、当時の「蚶満寺」(かんまんじ)の住職の呼びかけによって保存運動が高まり、今日に見られる景勝地の姿となったという。

蚶満寺は、松林の中に立つ曹洞宗の古刹で、かっては象潟の海に浮かぶ島々の一つだった所に座していたが、時の大地震で海が隆起し現在の様になった。 
境内には往時を忍ばせる「舟つなぎ石」も残っている他、芭蕉も立ち寄ったことから、その句碑も立っている。


蚶満寺は「かんまんじ」は、象潟・「きさかた」の名の起こりとも云われる。
「蚶」とは「赤貝」のことで「きさがい」ともいい、古い時代には「象潟」は「蚶方」とも書かれ、寺名は「蚶方寺(きさかたでら)」であったという。 
それがいつのころからか「蚶万寺」と書き間違えられ、さらに「蚶満寺」と書き換えられ、一時は「干満寺」と書かれたこともあったという。
こうなるともう訳がわからなくなるが、早い話が「象潟」と「蚶満」はもともと同じ言葉であったということで、読み難いだけでなく何とも面倒な地名なのだが、こうなると逆に何故か心地よい気もする・・?。


一帯は、国の名勝で、鳥海国定公園の指定地でもある。
現在も、102の小島が水田地帯に残され、とりわけ田植えの季節ともなると満々と水が張られ、この様子はあたかも往年の多島海の風景「松島」を彷彿させるという。

次回は、「岩城」



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日本周遊紀行(18)酒田 「最上川とおしん」


最上川河口に在する「山居倉庫」:瓦葺の三角屋根、黒塗りの壁板の巨大倉庫群は日本有数の米どころ庄内地方を象徴し、今も現役で活躍している。



日本周遊紀行(18)酒田 「最上川とおしん」


秋候の時期、小生達も数年前「最上峡芭蕉ライン舟下り」を楽しんだ。

戸沢村古口(往時の戸沢藩の船着場)から、舟下り終点・最上川リバーポートまで、最上川の流れに身をまかせ、船上からの景色を楽しみながら、雄大な自然の中を船頭の「最上川舟唄」を聞きながら、ゆっくりと下る。

特に、最上峡の右手の赤の鳥居と緑の木立に見え隠れしながら、最上川に落ちる一筋の滝が、白糸のように流れ落ちるのが印象的であったのを覚えている。 
芭蕉もこの光景を舟の中から眺めたのであろう。


白糸の滝の側に戸川神社「仙人堂」がある。 
その由来書によれば、仙人堂は、源義経の奥州下りの折り、従者の常陸坊海尊(ひたちぼう・かいそん)が建立したとつたえられる。 
その時、傷を負っていた海尊は足手まといになるので、この地で義経と別れ終生この山に籠もり修験道の奥義をきわめ、ついに仙人となったと言われている。 
祭神は日本武尊で「最上の五明神」の一つとされ農業、航海安全の神として信仰されているとある。 


義経はこの地を訪ねたとき、以下のような和歌を残している。

『 最上川 瀬々の白浪 月さへて 夜おもしろき 白糸の滝 』



さて、最上川といえば近年TVであのシーンを思い起こすのである。
NHK連続テレビ小説(昭58年)、一時は60%を超す驚異的な高視聴率を記録した橋田寿賀子原作「おしん」の故郷は山形県で、(山形県出身の実在のモデルもいる)ロケも実際に県内で行われ、おしん生家の藁葺き民家も今も崩れかけてはいるが、中山町の廃村、岩谷地区に残っていると。

明治34年(1901年)「おしん」は、山形県最上川上流の寒村、貧乏小作の子だくさん農家に生まれ、数え年7歳の春、本来なら学校にあがる年に口減らし(家計が苦しいので、家族の者を他へ奉公にやるなどして、養うべき人数をへらすこと)のため一俵の米と引き換えに奉公に出される。 
最初、生家での貧困生活から始まり、奉公先である最上川下流の酒田の材木問屋での辛抱生活が続く。 そして上京、髪結い修行ののち結婚し、関東大震災をきっかけに夫の故郷である佐賀へと舞台が移っていく。

おしん役は小林綾子、田中裕子、乙羽信子と三人が演じ分けたが、特に、おしんの子供時代を演じた小林綾子が注目を集め、幼くして奉公に出された「おしん」が、歯を食いしばりながら苦難に耐えていく姿は、全国に涙を誘い、国内のみならず、中国や東南アジア、中南米、中東でも放送された。

なぜ、「おしん」は、こんなに人々の心をとらえ、人気を集めたのか・・?。

それは、明治・大正・昭和、おしんが生きた八十年余の日本の庶民史を踏まえながら、単なる辛抱物語としてではなく「人間として、どう生きるべきか」という命題を問うていたのである。
因みに、「おしん」のTV放送は世界各地でも放送され、その数何と60数カ国で放映されたという。これは実に世界人口の凡そ3割弱の人々が観たことになるらしい。 
しかも、その視聴率は国内では60%を越えたということは知られているが、著名な国では60、70は当たり前でポーランドでは80%を越えたとも言われている。
まさにマンモス・ドラマであった。



庄内の穀倉地帯を山形県内だけ悠然と流れる「最上川」、その河口に有るのが酒田である

古来より最上川を経由する、陸と海の拠点で、最上川のすぐ横の支流に新井田川が流れている、渡ってすぐ左の中洲に山居(さんきょ)倉庫があった。 
「山居倉庫」・・、瓦葺の三角屋根、黒塗りの壁板の巨大倉庫群で、日本有数の米どころ庄内地方の象徴として、今も現役で活躍している。 

倉庫は明治26年、酒田米穀取引所の付属倉庫として旧庄内藩主酒井家によって建てられた、いわば、官営の大倉庫であった。 庄内藩により厳しく管理され、倉庫の前には船着場があり、舟で最上川、新井田川から庄内米が次々と運ばれた。 

最盛期には15棟在ったが現在は12棟、周囲には数十本のケヤキの大木が繁り、これが、夏は涼しく冬は暖い保温の効果をしているという、内部は真夏でも18~20度のみごとな低温倉庫になっているとか。 
保管物は主に庄内米、1棟で1200トン、2万表の米が保管されていたという。 
今では減反で米が減少、地酒や大豆も保管されている。 酒田市の歴史を伝える、史跡の一つで、酒田の観光名所にもなっている。


酒田は、古代、「袖の浦」と呼ばれ、この地には平安期、朝廷が出羽国の国府として築いたと考えられる城輪柵跡(きのわのさくあと:最上川の下流、城輪・きのわ地区にあり、今から1200年くらい前に東北地方を治めるために建てられた役所のあとと考えられてる)があるように、地域の歴史は古い。 
以降、奥州藤原氏の家臣36人が最上川の対岸に移り、砂浜を開拓し造ったといわれる。

平安末期の平泉政権・奥州藤原清衡が、平泉と京都を結ぶ玄関口として「酒田湊」を開き利用していた。
当時、上方や朝鮮半島からもたらされた仏教美術品が廻船で酒田湊へ運ばれ、最上川を小舟で上り、本合海(現在の新庄市本合海)で一旦陸揚げし、牛馬の背に乗せて陸路を平泉に向かったという。 

後に、頼朝の奥州征伐で滅ぼされた藤原秀衡の妹(徳の前)もしくは後室(徳尼公)を守る為に、36人の遺臣がこの地に落ち延びた。 
その後、遺臣達は地侍となり、やがて廻船問屋を営む様になり酒田湊の発展に尽くした。 現在三十六人衆の中で、平泉からの遺臣達で家が残っているのは、粕谷という姓(酒田市史)と見られている。

江戸初期、西回り航路(関西方面)が開かれると、酒田はますます栄えるようになり、その繁栄ぶりは「西の堺、東の酒田」ともいわれ、太平洋側の石巻と並び奥州屈指の港町として発展した。

酒田の有力商人からなる36人衆と呼ばれる集団は、北方海運の廻船業を主に、蔵米の諸払いや、材木輸送を行う豪商であると共に、彼らが酒田の自治組織の中心でもあった。

江戸初期、天和年間(1681~84)の記録では入港船数は春から秋口までに2,500~3,000艘もあり、月平均では315~375艘もの船が停泊していたことになるという。
中でも・・、「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」とうたわれた本間家は、戦後の農地改革まで日本一の地主だった。 

集積した土地約3,000町歩、小作人2,700人といわれ、日本一の大地主の名を馳せていた。江戸時代は藩主への多額の財政援助により500石取りの士分を許されていて、酒田にとっては本間家無しでは語れないほど貢献の数々を行っているという。

酒田は特に関西の京、大阪とは頻繁に交易が行はれ、上方の文化を取り入れた独自の経済、文化を築いている。 酒田の言葉は、今でも京言葉に似ていると言われる。

あのテレビの「おしん」もここから出世していった。


最上川舟歌』 山形県民謡

ええや えんやえ~ えんや え~と
よいさのまかせ えんやら まかせ
「酒田さ行(え)ぐわげ 達者(まめ)でろちゃ」
よいしょ こらさのさ
「はやり風邪など ひがねよに」
え~や~え~や~え~ えんや~ え~と
あの娘(こ)のためだ
なんぼとっても たんとたんと
えんや~ え~と えんや~ え~と
よいさのまかせ えんやこら まかせ
よいさのまかせ えんやこら まかせ


次回は秋田県・「象潟」
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2009年11月11日水曜日

日本周遊紀行  北海道・「追悼・森繁久弥氏」(2)(特別寄稿)


写真:森繁久弥氏像と「知床旅情」に歌碑が立つ羅臼:「しおかぜ公園」


日本周遊紀行  北海道・「追悼・森繁久弥氏」(2)

羅臼の町の国道から半島沿いの東海岸・道道87号線を行くと、すぐ右側沿いに在るのが「しおかぜ公園」である。 
高台にあるので幅広い羅臼漁港の岸壁や最北の太平洋そして、あの「北方四島」の一つ・国後島(くなしりとう)を望むことができる。


羅臼は、森繁久弥氏と「知床旅情」に縁があることは知る人ぞ知る地であろう。
ここの公園は映画『地の涯てに生きるもの』のロケ地で、森繁久弥氏がモデルになった「オホーツク老人」の碑が立っている。 
又、同遠地内には森繁久弥氏が作詞、作曲した「知床旅情」の歌碑が立つ。

知床の岬に はまなすの咲く頃・・・

から始まるあの歌詞であり、あの有名な昭和の名曲『知床旅情』の出だしでもある。


このことは作家・戸川幸夫が、1959年から知床を訪れたことに始まるという。
戸川氏は昭和期の小説家で、特に、動物を主人公とした「動物文学」、「動物小説」というジャンルを確立させ、動物に関しては正しい観察、知識を元に物語を書いていた。 

その知床の旅の道中に立ち寄った番屋で、漁師から聞いた話をもとに書いた小説が、「オホーツク老人」であった。 
その小説が発表された後すぐ、これを映画化しようと考えたのが森繁久彌(もりしげひさや)氏自身であったという。

映画のタイトルは「地の涯に生きるもの」で、主人公の老人役を森繁が演じ、しかも知床としては初めての映画ロケということもあって、羅臼は村(現在の羅臼町)をあげて、大々的に歓迎し、村長も全面協力を申し出たという。 
そして、村人もエキストラとして多数参加し、村の人たちとも交流の機会も沢山あったようである。

これらに感激して別れの時に作ったのが「知床旅情」のはじまりで、当時は、「サラバ羅臼」という題名であったという。 
そして別れに際し、見送りの村民と歌の大合唱となり、感動的フィナーレを迎えたという。


その後、「知床旅情」が広まっていくのである・・が、

10年後、加藤登紀子氏が「知床旅情」を歌ったは周知であり、これが爆発的な人気を呼び、これが引き金となって知床観光ブームへと繋がっていったといわれる。 
その後も、石原裕次郎、美空ひばりなど多くの歌手たちに歌われた。

「知床旅情」の発祥地とでもいうべき場所が、羅臼町市街地に近い「しおかぜ公園」であり、歌碑や、森繁氏そっくりの「オホーツク老人の銅像」が立っている。


『知床旅情』が巷で歌われた当時の世相は、「ディスカバー・ジャパン」という旅行会社のキャッチフレーズもあって、全国的に旅行熱が高かった時期でもあった。 
北海道・知床が特にその風が吹いていたようで、山口百恵の「いい日旅立ち」の曲に乗って、「知床旅情」の唄に引き寄せられるように観光客が訪れたという。 
その頃の知床は、人・人・人の山だったといい、景色と言うより、人の後ろ姿を見て歩いた、というエピソードもあるくらいだった・・とか。
「世界遺産」となった今日、第二の知床ブームが押し寄せているというが・・?。
 

『知床旅情』 作詞・唄 森繁久弥、加藤登紀子

知床の岬に はまなすの咲く頃
思い出しておくれ 俺たちのことを
飲んで騒いで 丘に登れば
はるかクナシリに 白夜は明ける

別れの日は来た ラウスの村にも
君は出てゆく 峠を越えて
忘れちゃいやだよ 気まぐれ烏(カラス)さん
私を泣かすな 白いかもめよ



御冥福: 森繁久弥氏 (享年・96歳の大往生)         

日本周遊紀行  北海道・「追悼・森繁久弥氏」 (特別投稿)


写真:北海道最北の地・「サロベツ原野」に立つ森繁久弥氏の句碑


日本周遊紀行  北海道・「追悼・森繁久弥氏」
 


天塩町から道道106号線に入ると、しばらくは日本海へ注ぐ天塩川の左岸を走り、日本海とは微妙に距離を置いたところを北上する。

天塩川は、日本海と並行しながら延々と南下するように流れていて、そして天塩町の北端でやっと日本海へ流れ込むのである。 この河は北方の幌延町辺りで日本海へ向っているのだが、直前まで来て砂丘に阻まれ、今度は海岸線沿いを 凡そ10km も南下するためである。

その天塩川が南下しているところを、道道106号線が並行して北上しているのである。 
北海道・北端の地へ至る最後の道であり、道としての最後の導(しるべ)でもある。 5km ほど北上したところで道は左へカーブし、天塩川を渡る。 満々と水を湛えた川は全くの自然のままで、いかにも大自然の北海道をイメージさせるのに充分である。

天塩川と日本海を分け隔てている浜砂丘へと「天塩河口大橋」」を渡る、ここからは左手には「利尻富士」が見え隠れしている。 
ひたすら日本海沿いを北上することになるが、道道106号線の第一幕は、天塩川を渡って浜砂丘へ出ると遠くに見えてくる有名な風車である。 

色々なCMや広告写真などで使われているらしいが、日本とは思えない雄大な風景の中に溶け込むように在るのが風車の列である。 
又、ここが道道と天塩川とが並行してきた最後の地点でもあり、離れる場所でもあるのだが。
風車の数は 29基あまりあって、横一列に日本海に向けて立っている。
東北の北部地方あたりから、あちこち風車のある景色は拝見しているが、ここほど圧倒的な風車の景色はなかったように思う。 
このあたりは見る目にも風が強い地域であることが想像でき、環境に優しい自然エネルギーは北海道の風景にもぴったりである。

その風車の列を過ぎると、いよいよ「サロベツ原野」へ入る。
原野は、余りにも広大な為か南側を下サロベツ原野、北側を上サロベツ原野と称しているらしい。
道は、北への真っ直ぐな道が淡々と進む、本当に「ひたすら」という言葉が似合うほどに続く。 しかも、対向車には殆ど会うこともなく、どこまで続くのだろう、と思うくらいに続く。
左右は、サロベツ原野とは言うけれど、ウネリのような低い丘陵地が続いているようであり、時節柄、枯れた色合いが、その寂寥感に輪をかける。 しかしながら道路は全くの平坦で、直線が無限の彼方まで延びて姿を消しているのである。

周囲は丘陵地から次第に原野らしく平原の様相になってきて、左に時折、真っ青な北の海が見渡せる。 
地図を見ると道路はいかにも海岸、波打ち際を走っているように思われるが、実は7~80m陸側に位置していて、その間は同様に原野になっているのである。 
草原の所謂、枯れ草文様の中に緑の縞模様が見られ、次第に原生花園・原生湿原と言われる様態に変化してきているようだ。


「サロベツ原生花園」と青海に幽かに浮かぶ山・「利尻岳」の三角錐の姿を眺めながらの快適なドライブウェイは続く。 
定規を当てた様な真っ直ぐに延びた一本の道、思わず踏むアクセルに力が入るが、スピードに乗って通り過ぎてしまうにはにはもったいない程の景観が連続している。

「利尻・礼文・サロベツ国立公園」の広く爽やかな風景を存分に味わいたい・・!!。 
北海道の北の果ての短い夏はすでに終わり、すでに晩秋の気配が漂よい、緑の湿原は褐色の大地に変わっていたが、しかし青い海、澄んだ空は変わることがない。


間もなくサロベツ原生花園の浜勇知園地の見晴休憩地に来た。 道道:稚内天塩線の唯一のパーキングであり、ここで一息入れ、散策を楽しむ。
「こうほねの家」という木造の洒落た休憩施設があった。 屋上からは、日本海にそびえ立つ利尻富士が見られ、美しい夕日も見られる絶好のビューポイントでもある。

「こうほね」という妙な名であるが・・?、
小屋の裏に広がる池塘に浮かぶ水生植物の名前のことで、その名をこうほね・河骨と称する。 睡蓮(すいれん)科の一種で、可憐な黄色い花を付ける。 
川などに生え、水中にある根茎が白くゴツゴツして骨のように見えるので河骨と称しているようである。
河骨の根茎は「川骨(せんこつ)」の名で漢方薬としてよく用いられ、二つ割りにして干して、止血剤や浄血剤、強壮剤として使われるという。

処々に僅かに真赤なハマナスの花が咲き、移り行く季節を惜しんでいる様である。 
「 ハマナスの花の色は北へ来るほど赤味が増す 」といわれる。

森繁久弥氏も映画ロケで訪れたようで、園地に歌碑が刻んであるった。

『 浜茄子の 咲きみだれたる サロベツの
            砂丘の涯の 海に立つ富士
 』

「富士」とは、無論、利尻富士のことである。

ここサロベツ原野は北緯45度丁度で北半球の緯度ではど真ん中にあたるらしい。 
又、この地は大陸風景・満州平原(中国東北部で旧日本の支配地)に相似していることから、「人間の条件」、「戦争と人間」、「不毛地帯」等の映画の撮影の舞台にもなったとか。 
森繁久弥は、この原野でどのような題材の映画をロケしたのか定かでない。 もしかしたら、映画のロケではなく周遊に来ていたのかもしれない。
いずれにしても、このサロベツ原野の美観溢れる絶景の地に到って肝を奪われ、思わず一句ひねったのかもしれない。

サロベツ原野、特にここの湿原地帯は日本低地における代表的な湿原といわれ、高層湿原から中間湿原へ移行するといわれる植物が多く咲き誇り、モウセンゴケ、ショジョウバカマ、ツルコケモモなどの花々が、季節を華やかに咲き競うという。  
そこに広がる日本最北の湿原には、寒冷地植物群が100種類以上も植生しているといわれる。

気がつくと道標に「稚内26km」とあった。
北端の地の稚内や宗谷岬へはあと一息である。

引き続き、「追悼・森繁久弥」氏 


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日本周遊紀行(17)鶴岡 「出羽三山と芭蕉」


三山神社の一角に立つ芭蕉碑


日本周遊紀行(17)鶴岡 「出羽三山と芭蕉」




芭蕉が「奥の細道」と題した大旅行に出発し、江戸を発ったのが元禄2年(1689)3月27日であった。これは旧暦の日付で現在の陽暦では5月16日に当る。  



奥の細道の有名な冒頭の一文 ・・、

『 月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。 舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして旅を栖とす。 古人も多く旅に死せるあり。 予も、いづれの年よりか、片雲の風に誘はれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋、江上の破屋に蜘蛛の古巣を払ひて、やや年も暮れ、春立てる霞の空に、白河の関越えんと、そぞろ神のものにつきて心を狂はせ、道祖神の招きにあひて取るもの手につかず、股引の破れをつづり笠の緒付けかへて三里に灸すうるより、松島の月まづ心にかかりて、住めるかたは人に譲り、杉風が別墅に移るに、草の戸も住み替はる代ぞ雛の家 表八句を庵の柱に掛け置く・・、 』

芭蕉の出だしの第一句に



 『 ゆく春や 鳥なき魚の 目はなみだ 』

と江戸・千住大橋ぎわで詠んでいる、長道中の覚悟の一句が見てとれるという。

俳人・松尾芭蕉が「奥の細道」と題した大旅行に出発し、「出羽三山」への前に最上川を船で下っている。

元禄2年(1689年)6月3日(陽暦7月19日)、芭蕉は新庄市の本合海(もとあいかい)から立川町清川(現、庄内町)まで舟で長道中の水上を下った。 

文中に・・、

『 最上川は、みちのくより出て、山形を水上とす。 ごてん・はやぶさなど云、おそろしき難所有。板敷山の北を流て、果は酒田の海に入。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。是に稲つみたるをや、いな船といふならし。白糸の滝は青葉の隙々に落て、仙人堂、岸に臨て立。水みなぎつて舟あやうし。 』
といっている。 
そして船中で・・、



 『 五月雨を 集めて早し 最上川 』

と余りにも有名な一句よ詠んでいる。 
他に・・、



 『 暑き日を 海に入れたり 最上川 』

と合わせて詠んでいる。

激流の最上川の景を楽しみながら、一転して天台宗修験道の霊山霊地としての出羽三山の山域に入山したのは、6月初旬(陽暦7月下旬)であった。 芭蕉は出羽三山、鶴岡に概ね10日間滞在している。 
先ず・・、



 『 雲の峰 幾つ崩れて 月の山 』

と月山を詠み、月山の山小屋に一泊している。 

湯殿山では行者の作法として、山中の出来事などの他言を禁じていることに発想を置き、



 『 語られぬ  湯殿にぬらす 袂(タモト)かな 』

の句を読んでいる。 

芭蕉らは羽黒山の中腹にある南谷(みなみだに)の別院に宿をとり、南谷に6泊し、6月10日(陽暦7月26日)に酒田に赴くまでの7泊8日を出羽の霊山で過ごしている。 

その羽黒山には出羽神社、月山の頂上には月山神社、湯殿山には中腹に湯殿山神社と夫々祭神が鎮座しているが、羽黒山の出羽神社に三神を合祀して三神合祭殿と称されて、その本坊において俳諧興業を行い、芭蕉は



 『 有難や 雪をかをらす 南谷 』

の句を詠んでいる。

句は「このお山は晩夏の6月というのに山肌にはまだ雪を残していて、それが南風にのって薫るかと思われるほどであり、ありがたいことだ」というほどの意味という。 
南谷の南は「南風」の意があり夏の季語となっている。 
併せて・・、



 『 涼しさや ほの三日月の 羽黒山 』

と詠んでいる。

その後、一行は、羽黒山から鶴岡に向かい酒井14万石の城下町、酒井藩の家臣「長山重行」の家に三泊している。 
重行は、江戸邸に勤めていたころに芭蕉の門人になったといわれ、鶴岡駅前の市街地の中、現在ではその邸跡だけが残っており、その一角にこの地で詠んだ四吟歌仙(芭蕉・重行・曾良・呂丸)での芭蕉の発句の碑が立っている。



 『 めづらしや 山をいで羽の 初茄子(はつなすび) 』

「山をいで羽」は、出羽を意味する。

専門家によれば、芭蕉はこの羽黒山、月山、湯殿山の修行(登山)で、不易流行(※)を打ち立て、句風が変わったという。
 
※「不易流行」とは、芭蕉が提唱した俳諧理念・哲学の一つ。

「不易」は永遠に変わらない、伝統や芸術の精神、「流行」は新しみを求めて時代とともに変化するという意味。相反するようにみえる流行と不易も、ともに風雅に根ざす根源は実は同じであるとする考えである。

湯殿山神社の左手に、曽良と芭蕉の句碑が建つ。

次回は、「酒田」




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